尾仁ぎり

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【秋の訪れ】

「あれぇ?俺のネクタイどこだっけ」
夫の和人が半端に着たワイシャツで慌しくクローゼットを漁っている。

朝食を終え、食器を洗いながら私は声をかける。
「ネクタイなら中のタンスの1番上の引き出しに入ってるよ」
「…おぉ、あったあった。ありがとう」
和人はネクタイを見つけると、シュルシュルと慣れた手つきでネクタイを締めた。

昨日までワイシャツ一枚で通勤していたのに、今日はネクタイを締めて、ジャケットも持っていくだなんて、いったい——。

「今日、何か大事な会議でもあるの?」
「いや?クールビズ昨日までだから。今日からネクタイとジャケット着用なんだよね」
「あぁ、なるほどね」

会社を退職して約1年、すっかり会社員の感覚を忘れてしまっていた。
そうか、今日から10月か。もう秋か。どうりでここ最近の夜はクーラーなしでも眠れるくらい涼しいわけだ。思い返せば、昨夜は少し開けた窓からもリーンリーンと可愛らしい虫の音が心地よく聞こえていた気もする。
ついこの間まで暑さが残ってまだ夏のようだったのに、いつの間にか秋の訪れを感じる。

朝の情報番組に目を向けると、ゲストのタレントが栗や芋のスイーツを美味しそうに食べてはコメントをしている。ブラウンやイエロー、ワインレッドなど色とりどりのカーディガンやシャツを着ていて、画面の中もすっかり秋色だ。

「そろそろ行ってくる」
会社へ向かう和人を見送りに玄関へ行く。
「忘れ物ない?」と私が尋ねれば、にやにやと和人は笑って「だいじょーぶ!」と答えた。

以前まで同じ会社に勤めていたので、出発が同時で叶わなかった。だけど、私が退職してからは毎日このやり取りをしている。和人にとってずっと憧れていたやり取りだったらしく、当分このままだ。

「行ってらっしゃい」
「2人とも、行ってきます」
和人は柔らかく笑い、私の大きくなったお腹を愛おしそうにさすって出ていった。私も温かい気持ちになりながら手を振る。見送った後は、今夜和人が帰ってくる時に、少しでも疲れを癒せるように迎える準備をしなくちゃ。

さぁて、残りの家事も済ませちゃおう。
そうしたら、今日はスーパーへ行こうかな。
明日からは冷たいコーヒーじゃなくて、温かいココアでも淹れようかな。せっかくの秋だし、和人の好きな梨も買ってこよう。お腹が動く感覚がする。この子も大好物かもしれないな、と笑った。

10/1/2025, 3:20:53 PM