【遠い足音】
今日が来なければ良いと思った。
待ち合わせスポットの駅のステンドグラス前は人でごった返している。人の多さに圧倒されていると、人だかりの中から一際明るい桃色のワンピースの少女がこちらへ駆けてきた。
「お待たせ、颯人くん」
現れたのは同級生の川本咲良。肩まで伸ばした黒髪が呼吸で上下する。今流行りのブレスレットをつけた華奢な細い腕が、人に押された勢いで俺の腕に少し触れた。そんな些細なスキンシップで跳ね上がる心臓に嫌気がさす。
「その服…」
「お気に入りなんだ〜!いいでしょ?」
咲良は自慢げにくるりとその場で一周まわった。俺の好きな桃色がふわり、と揺れた。
「…すごく、似合ってる」
「ふふ。ありがと!」
咲良が着ているのは以前、俺が好きだと言った色の服。自分の都合の良いように勘違いしてしまいそうだ。今日は自分の気持ちに別れを告げるつもりで来たのに、もう心が折れそうだった。
「さ、行こっか」
咲良は無邪気に俺の手をひき、ゆるゆると歩き出す。触れられた腕が、まるで自分のものじゃないみたいにそこだけ熱い。何度も何度も捨てようとしているのに、この『恋』いう気持ちは俺の元へ飄々と戻ってきてしまう。
高校に入るまでは、恋をすれば世界が輝いて見えるんだと思っていた。日常の何もかもが楽しくて、明るい気持ちになれるんだと思っていた。けれど咲良に出会ってからは、恋は、現実はこんなに辛いものなんだと、まざまざと思い知らされた。
*
「この服とかどうだ?似合いそうだぞ」
「ほんと?じゃあ、買っちゃおうかなぁ」
咲良は選んだコートを体に当てる。
「男の子から見て、この服ってどうかなぁ?か、可愛いとか…思ってもらえるかなぁ?」
「ああ、いいと思うぞ」
すごく、可愛らしいと思った。そんな気持ちを素直に出せたらいいのだけれど、この関係を崩すのが怖くて言葉を飲み込む。
だって今、こんなに真っ直ぐ俺を見てくれているのに、咲良の中では俺ではない、ヤツとのデートを想像しているのだから。
「いいの見つけちゃったぁ」と、ニコニコと笑いかけてくれるけれど、咲良は俺ではない、ヤツのことを想っているのだから。
収穫のあった咲良は上機嫌で会計を済ませ、俺たちは帰路につく。浮かれた足取りで並んで歩く咲良を見ながら、改めて今抱く特別な感情を再認識した。
高校に入学して隣の席だった咲良。いつも明るくて元気で、コロコロと表情が変わるところが可愛かった。親しみやすい性格で、周りを気遣ってくれるところに惹かれた。咲良から日曜日に遊びに誘われて、学校じゃ知らない咲良の一面を知る機会が増えて、どんどん好きになった。1番仲がいいのは自分だと自負していた。そして俺にとって、いつしか咲良は特別な存在になっていた。
だけど、咲良にとって俺は特別でもなんでもなかったんだ。
思い知ったのは先週の日曜。部活の練習試合の帰り道、道路の向かいで仲睦まじく並んで歩く男女が目に留まった。見覚えのある黒髪、聞き覚えのある声。歩いていたのは咲良と、同じクラスの『ヤツ』だった。そして、咲良は楽しそうに笑いつつも、時々恥ずかしそうに顔を赤らめていた。見たことのない表情に、俺は喪失感を覚えた。
実際、今日一日一緒にいて痛いほどわかった。俺の心の中心には咲良がいるけれど、咲良の心の中にいるのは俺じゃない。俺じゃ、なかったんだと。
「颯人くん、今日は買い物付き合ってくれてありがとう!」
咲良の家が数メートル先に見えてきた頃、咲良はそう言って無邪気に笑って見上げてきた。目が合うだけで自分の頬が熱くなる気がする。こんなんで気持ちに区切りつけられるのかよ、と俺は自虐的に少し笑う。
「これで、ヤツとのデートも上手くいくんじゃないか?」
「えっ…」
俺がそう言うと、咲良はきょとん、とした後、ぶわあっと顔が赤くなった。初めて見た、そんな顔。
「好きなやつ、出来たんだよな…?」
声が震える。俺は咲良の顔をもう見れなかった。
小さく咲良が「…うん」と頷くと、さっきまで温かかった心臓がスッと冷えるような気がした。
覚悟はしていたのに、視界がほんの少しだけ滲んでくる。
「…ごめんね」
「何謝ってんだよ…でも、ありがとな」
「え?」
「むしろモヤモヤが晴れてスッキリした。俺、お前のこと応援してる。だから———」
咲良の家まであと少し。いつもならもう少し話していたくて、この距離がもどかしかった。いつもなら少しでも一緒にいたくて、歩幅を合わせて歩いていた。だけど、今日は情けないけれど、力を入れた顔を覗き込まれたくなくて早足になる。少しずつ歩幅がずれ、距離が離れていく。足音が遠くなる。
気まずくならないように、と俺は気づかれないように大きく息を吐いて振り返る。咲良と目があった。俺じゃないヤツのことを考えて紅潮した頬。恥ずかしさから潤んだ瞳。もう俺の入る余地なんてないんだと突きつけられた。
ああ、さっきまであんなに近くに感じていたのに、今は———。
なんだ、俺。全然諦められてねぇじゃんか。
熱くなる目頭にグッと力を入れて、笑う。
「何かあったら言えよな。相談に乗ってやるから」
「うん…ありがとう」
咲良はいつもと同じ表情でふわりと俺に笑いかけた。
この笑顔が好きだった。だから、この笑顔が壊れてしまわないように俺は守っていきたかった。
近いのに、遠い。もう一度歩幅を合わせて歩くけれど、咲良の足音が、声が、全てが遠く感じる。
今日、俺はこの気持ちに蓋をした。
ばれないように、悟られないように。
きっと大丈夫。きっと上手くやっていける。
大きく深呼吸すると、冷たい風が肺を冷やす。胸の奥がずきん、と痛んだ。
10/2/2025, 11:53:57 PM