【旅は続く】
目の前に広がる大きな海を見ながら、缶コーヒーを飲む。ついさっき貰ったものだから、まだ仄かに温かい。
9月の昼間はまだ夏のように暑いが、暗くなれば肌寒い。一晩中原付を走らせ、冷たくなった体に缶コーヒーの温かさが沁みた。
大学生2年生、小さな頃から密かに憧れていた一人旅をしてみようと思い立った。けれど、日本一周など大それたことはできそうになかった僕は、まずは手始めに県内一周からスタートした。ちっぽけだけど、僕にとっては大冒険、大旅行だ。
*
原付での旅に憧れたきっかけは、中学1年生の時、塾に行く前に立ち寄ったコンビニで会った大学生。彼の横にある、妙に細いバイクみたいなものが気になった。
「それ、なんてバイクなの?」
僕の友達の橋本が声をかけた。
「ううん、これは原付。原動機付自転車って言うんだよ」
お兄さんは優しく僕らに教えてくれた。
「へー。変な自転車ぁ」
「ちょ、橋本!変とか言うなよ!」
正直者な橋本と慌てる僕を見て、お兄さんは可笑しそうに笑った。
お兄さんはこの原付で日本一周をしていると言った。小さい頃はあまり外に出れなかったから、色んな景色を見たくて旅をしているんだと教えてくれた。
「ゆくゆくは世界一周とかもしてみたいなぁ」と言うお兄さんを見て、憧れると同時に、すごいなぁ、僕にはそんな度胸ないや、と思ったのを覚えている。
*
県内一周旅行は、想像以上のものだった。
でこぼこした道路を走る振動でお尻は痛いし、ずっとハンドルを握っているので肩もこる。
僕の真横スレスレをトラックが走ったりするものだから恐ろしくて、心臓にも悪い。
昼間は太陽に照らされて汗だくだし、暗くなれば冷たい風が吹いて寒い。
だけど——。
時速30kmでトコトコと進む原付は、景色を見るのに最適なスピードだった。
初めて見る景色。ずっと住んでた地元でも知らない店や道がある。名前だけ知っていた隣町や市には、素敵な場所や美味しいものがある。普段、人と町ですれ違うときは挨拶すらもしないのに、ふとしたときに気遣い、声をかけてくれる。
僕にとって旅は、初めて見ることや知ることばかりで、想像以上に心動かされるものだった。
*
「兄ちゃん、旅行かい?」
朝方、堤防に寄りかかって海を眺めていると、散歩中らしいおじさんから声をかけられた。
「はい。規模は小さいですけど、県内一周をしてみようと思って」
「いいねぇ。規模なんて関係ねぇよ。旅なんてな、その場所で何を感じたのかが大事なんだ」
「ありがとうございます。初めて知ることばかりで感動の日々です。正直、ちっぽけな旅だと舐めてました」
恥ずかしそうに僕が言うと、おじさんは豪快に笑ってくれた。
「はは、沢山色んな経験をするといい。人生は旅みたいなもんだからなぁ」
おじさんはそう言うと、自販機で買ったばかりの缶コーヒーを僕に手渡して、去っていった。
人生は旅。確かにそうかもしれない。
産まれて初めて目を開けたときの世界の色。
初めて飲んだコーヒーの苦さ。
初めて自転車に乗れた時の達成感。
今では当たり前のことも全て、初めは知らないことばかりだったんだ。
海から朝日が昇ってくる。
何か大きなことを成し遂げたわけではないけれど。
まだちっぽけな旅、終わってすらいないけれど。
僕の旅は続く。
これから先も色んなことを経験していこう。
なんだかすごく晴れやかで、心地よい気分だ。
10/1/2025, 5:13:19 AM