朔太は机に広げたノートをぼんやりと眺めていました。
口をとがらせ、かかとを踏んだ上履きの足をむずむずさせながら、朔太は雲の多い空を睨みました。物語を読む国語の授業は好きでしたが、詩の授業となると毎回うまくいきません。
先生は「感じたことをそのまま言葉にして書いてみましょう」と言いましたが、朔太にはそれがよく分かりませんでした。
朔太の頭の中には、楽しいことを考えるときも、いやなことを考えるときも、言葉なんて浮かびません。朔太はいつもテレビの画面みたいにものを考えているからです。
みんなの鉛筆が文字を書く音や、消しゴムが紙の上で行き来する音、誰かが鼻をすする音、教科書を落とす音が次から次に聞こえてきます。
朔太の頭ではぐちゃぐちゃに絡まった薄紫色の糸が、その音に合わせながらうねうね転がりまわるばかりでした。
突然、ざわわっという音と共に、朔太の頭の糸玉が吹き飛んでいきました。
中庭の大きな大きなクスノキが、風に吹かれて葉っぱを揺らした音でした。風は太陽に掛かっていた雲も流し、教室に陽が差しました。
朔太のノートに、クスノキの葉の影が落ちました。
ざわわ ざわわ 影が揺れます。
朔太は急いで鉛筆を握ると、ノートの上の葉っぱの影をなぞりました。
葉っぱが揺れるたび、影が動くたび、それを追いかけ追いかけ、何本も線をひいていきました。
朔太はプールの底の、ゆらゆらする光のことを思い出しました。
お母さんが作ってくれた誕生日ケーキの、てっぺんのクリームを思い出しました。
廊下の隅っこで見た大きなゲジゲジの脚を思い出しました。
おばあちゃんちのポメラニアンが嬉しくてぐるぐる回る姿を思い出しました。
友だちの陽斗のつむじを思い出しました。
出来上がったたくさんの線は、朔太の気持ちそっくりでした。
朔太はにんまりしながら、クスノキの葉っぱと一緒に体をゆらしました。
『木漏れ日の跡』
満開の季節以外の桜の木は、なんて地味なんだろう。
ごつごつとした太い幹には所々治療が施されていて、コールタールのような保護材が塗られている。
残らず葉を落とした枝は、きんとした空気の中で穏やかに眠っているようにも、厳しい気候に震え耐えているようにも見える。
この公園に来るのは3年ぶりだ。
中学卒業を控えた冬、別々の高校への進学が決まっていた私と雛子はささやかな約束を交わした。
3年後の今日、二人の同じ誕生日「2月28日」に、この桜の前で会おうねって。
その約束に深い意味は無かったし、卒業後2、3度、他の友だちを交えて雛子と会ったこともある。
だけどこの約束のことはお互い話題にしなかった。今日も連絡を入れないまま、ここに来た。
べつに雛子を試したいわけじゃないんだ。これは私の、単なる遊びなんだ。
桜の脇にある色の剥がれたベンチに座り、スマホをひらく。高校の友人から届いていたおめでとうDMに返信。雛子からの連絡は無い。
今日ここに、雛子が来ても来なくても、私はちっとも構わない。
私たちはあの頃も今も、親友というほどの親密さは無いし、お互い新しい人間関係の中で生活してる。
普段雛子のことを思い出すことも減った。
中学3年の冬、否応なく始まろうとしている新しい日々への、言葉にならない不安、焦燥。向き合うときっと動けなくなるから、私たちはそれを期待で塗り込め、隠して、やたらとはしゃいでいた。
今、同じ気持ちが私の中に転がってる。
だからね、これは私の遊びなの。
ふうふうと息を吐く。白い息が綿菓子くらい大きくなれば良いのにと思う。直ぐに風が掻き消す。
両方の足先で、左右からざりざりと砂を寄せ集める。縦長の砂山が出来る。それをつま先でそっと踏んで崩す。
右手の人差し指を丸めて、真ん中にうんとちいさな隙間を作る。指ピンホール。片目を瞑ってそれを覗く。すこしだけ視力が上がったように、遠くが見える。
いびつなピンホールの真ん中に、跳ねながら駆けてくる人。
「葵ーーーーーー!!!!」
でっかい声。
「雛子おおおー!!!!」
私はベンチに飛び乗って、思いっきり飛び上がった。ばかな子どもみたいに!
雛子も両手両足でっかく広げて、ばかみたくジャンプした。
『ささやかな約束』
村の人々は私たち一行を手厚く迎えてくれた。
この村の住民が一体何日食い繋げる量の食事だろうか、考えると感謝よりもすまなさが押し寄せてくる。
痩せた土、雨季を除けばいつも底を尽きそうな溜池、十数年経った今も癒えきれない隣村との紛争の傷あと。
貧しい村。この干し肉も恐らく彼らにとっての最上の馳走だろう。滋味深い味わいを、有難く噛みしめる。
横目で伺うと、オレアンダーが自分の皿の上で目立たぬよう指先を動かし、まじないをかけるのが見えた。彼女は旅の間中そうして、出された食事に念のための解毒の魔法を施すのが常だ。毒を盛られる心配をしている訳では無い、食中毒を恐れているのだ。無礼には変わりない。
反対隣を伺うと、アコニツムが食事にがっついている。これもいつもの事だ。私も成長期には、そのような激しい食欲に覚えがある。できればもうすこしだけお行儀を憶えて欲しいものだが。躾も私の役目なのだろうか。
食事が終わると村人たちは、我々を簡素な祈りの場に導いてくれた。
神聖な場であるため、私とアコニツムの剣、オレアンダーのメイスを持ち込むことが禁じられた。
我々が信仰する神とは、祭壇の様式も、祈りの言葉も、焚かれた香もまるで似ていないが、私はこの村の人々の幸せをただ静かに祈らせてもらうことにした。
先程教わった作法で祭壇の前に両膝をつき、次いで両の腕先、額を床につけ、目を閉じる。
アコニツムは上手く出来ているだろうか。オレアンダーは無礼な態度を取ってはいないだろうか。
……異教の神の前で雑念など、無礼なのは私のほうだ。祈りに集中する。
後ろで村人たちが我々の背を見守っているのだろうか。そういえば昨日、私のマントに解れがあったが、気付かれてしまうだろうか。長い旅路だ、衣服の傷みくらいあって当然だろう。しかし、私は女王陛下より賜ったこのマントの手入れだけは欠かしたことがなく、オレアンダーにポケットマネーを渡し、修復のまじないを頼んでいるほどだ。ある程度大きな町ならば腕の良い繕いの職人もいるが、決して魔法には勝てない。正直、職人に払う代金のほうがオレアンダーへの謝礼よりもかなり安くつく。彼女は仲間割りなどは設けない主義だ。
祈りに集中する。
そういえばすこし、脇腹が痛む気がする。先程食べた干し肉は発酵臭がきつかった。そういう郷土料理的な味付けだと思い気にしないようつとめたが、もしそうでは無かったとしたら……。そもそもあれは一体何の肉だったのだろうか。東方の国々では魔物の肉を加工し食用にする文化もあるというが、この村にもその流れはあるのだろうか。いや、ここはまだ東とは言いきれない。しかし、そもそもどこを起点に東方と呼んでいるのか。我々の故郷より西の国々が起点であるならば、ここは既に東方の国なのか。
祈りに集中する。
先程料理を運んでくれた村娘は素朴ながら、大変に美しい子だった。旅の間実に不思議に思うのだが、田舎の村ほど、僻地になるほど、小汚い土地ほど、村一番の女性の美しさが増すのだ。周囲の環境が引立て役となっているのかと考えたこともあったが、どうやらそうではないらしく、この意見はアコニツムとも合致した。そういう意味でも、あの娘の美しさは目を見張るものがあった。年齢でいえば恐らくアコニツムに近いだろう。しかしあの年頃の娘は、年上の男に憧れるものなのだ。先月立ち寄った村の娘のように、夜半過ぎ私の部屋のドアをそっと叩くのではないだろうか。あの夜は厠へ起き出したオレアンダーの邪魔が入ったが、その後からは寝入りばなのオレアンダーと、ついでにアコニツムに熟睡のまじないを掛けるようにしているからもう心配はない。集中できる。
祈りに集中する。
そういえば先程、村人たちに武器を渡してしまったが、本当に彼らは根っからの善人なのだろうか。今、後ろから襲い掛かられたら、私はすかさず身を翻し、まず一撃目を華麗に躱す。躱すや否や相手の武器を叩き落とし、奪い返す。オレアンダーもその時になれば呪文の詠唱を始めるだろうし、アコニツムも子犬のような素早さで敵に飛び掛かるだろう!そこで私は剣を振り下ろし、目にも止まらぬ速さで次々と叩き斬る!!
……祈りに集中。
『祈りの果て』
†心の迷路† または【灰色の夕闇に沈むLABYRINTH】
今日もオレは独り、手のひらに刻まれた「運命」の数々を見つめる。
未来なんて知らない知りたくない、刻まれているのは人生と言う名の迷路の出口を示す地図なのか?
知らない場所へオレを連れ出す路線図なのか?
すれ違う人々、真っ黒い服ばかり着てやがる。
教室の奴等も皆(みな)、真っ黒い服ばかり。
オレもそれに流されてしまうのか?
ボタンを引き千切る。
心を引き千切る。
滴る真紅の雫。
言いなりになんてならない。言いなりになんてならない。
お前等には分からない。
このオレのLabyrinth。。。
――だけど、この息苦しい迷宮を抜けた先に
君がいる、君がいたんだ
君の斜め後ろ45℃の横顔に宿る、神。
オレに降り注ぐ閃光が――――――――――
――ここで私は耐え切れず古びたノートをベッドに投げ棄てた。
探し物の最中に、クローゼットの奥で一冊のボロいノートを見つけてしまった。
『Top Secret Note』と、異様に耽美に飾り付けられた文字で書かれている。
中学2年の頃の自分が思いの丈をぶつけたノートだ。
二十年以上が経過すれば思春期の戯れ言を「かわいいもんだね」と微笑ましく読み返せるかと思ったのだが。侮りがたし、中二の攻撃力。
痛々しさが全く鮮度を失っていない。
このタイムカプセルは中年の精神を抉る。回復力も落ちるお年頃だ、勘弁してくれ、許してくれ。幼いあの頃の自分に命乞いをしてしまう。
更に怖ろしいことがひとつあり、このノートの表紙には「vol.2」と記されている。
第一弾はどこにある?
遠い遠い記憶、当時謎の万能感に背を押され……友人に貸した記憶がある。
返して貰ったのだろうか、返して貰って私自身が処分したのだろうか。どうしても、どうしても思い出せない。
友人よ、断捨離に目覚めていてくれ。
こんまりメソッドに取り憑かれていてくれ。
ああ、そうして今宵も私は、心の迷路に迷い込む。
やかましいわ。
『心の迷路』
ある小さな村の外れに、絵描きを生業とする女がひとり住んでいました。
女の家は白樺の林の中にあり、あちこち古びてはいましたが、夏には開いた窓から乾いた風が吹き抜け、冬には暖炉の火が家中をぽかぽかと暖め、一年中とても過ごしやすい場所でした。
それは春の日の出来事でした。
前日から降り続いた雨で増水した川を、女は見に行くことにしました。うねり流れる濁流を、絵に描きたいと思ったのでした。
ゴム靴を穿き、女は川岸に立ちました。
ごうごうと濁り流れる川の流れを見ていると、思わず体が引き込まれそうな感覚になり、女は慎重に足元を踏みしめました。
女の目には激しい水面の動きと飛沫が全て、絵筆で払い描かれる絵の具の線のように見えていました。
その筆跡の隙間に、何かが見えました。
始めは木の枝かと思いましたが、波に弄ばれるそれは、ぬらりと奇妙な輝きを見せました。
女は吸い寄せられるように荒れる川に踏み入りました。濁流に押された体が大きく傾きます。それでも女は、胸まで水に浸かりながら、輝く小さなものを逃すまいと必死に捕まえました。
それは青緑色の鱗に包まれた小さな竜でした。
暖炉の前に置かれた陶器のボウルには、やわらかなリネンが詰められ、その真ん中に竜は眠っていました。
揺れる暖炉の火が鱗に映り、ちらりちらりと煌めきました。
女は自分の身体を乾かしながら、その様子に魅入られていました。
トカゲに似ていましたが、金属で出来た精巧な置物のようでもありましたし、何よりトカゲと違うのは折りたたまれた背中の翼の存在でした。
体が小さく上下し、竜が呼吸をしていることが分かりましたので、女は安心しました。
女は死んだ大叔母から、少女の頃竜に出会った事があると聞いたことがありました。大叔母の語った竜は、彼女を丸呑みに出来そうだったという話でしたが、この竜にその心配は無さそうでした。
女は竜の体を心配しながらも、竜を捕まえたその瞬間から頭の中は「絵」でいっぱいになっていました。
翡翠色の絵の具に粗く砕いた貝殻を混ぜれば竜の鱗の色を完璧に描き写せると考え、心臓が高鳴りました。
女は気持ちを落ち着かせようと、震える手で机の上のティーカップに熱い紅茶を注ぎ、いつもは入れない白砂糖を茶匙に山盛り三杯も入れました。
すると突然、竜が半身を持ち上げ、女のほうをキッと振り向きました。
竜の瞳がパレットナイフのようにギラリと光りました。
次の瞬間、薄い膜状の翼がパリッと乾いた音を立て開いたかと思うと、竜はもの凄い勢いで女に向かって飛んできました。
女は咄嗟に身を守る動作をしましたが、竜が目指したのは机のティーカップでした。
音も立てず小さな爪で縁に捕まると身を屈め、湯気の立ちのぼる紅茶をしあわせそうにピチャピチャと飲み始めました。
竜の細い腹がみるみる膨らみ、小さな鱗と鱗の隙間が開いていきました。
竜はあっという間に紅茶を飲み干すと、溶けずに底に残った砂糖もぺろぺろと舐めました。
全て舐め取り終えると、竜は満足そうにティーカップの中に丸まり、また静かに眠り始めました。
女はふうーっとひとつ深い息を吐いて、スケッチブックに竜の寝顔を描きました。
竜の舌が何度か名残惜しそうに、カップの底をぺろっと舐めました。
竜の舌先って、本当は二又に割れて無いんですね。
『ティーカップ』