けろぴこ

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 ある小さな村の外れに、絵描きを生業とする女がひとり住んでいました。
 女の家は白樺の林の中にあり、あちこち古びてはいましたが、夏には開いた窓から乾いた風が吹き抜け、冬には暖炉の火が家中をぽかぽかと暖め、一年中とても過ごしやすい場所でした。

 それは春の日の出来事でした。
 前日から降り続いた雨で増水した川を、女は見に行くことにしました。うねり流れる濁流を、絵に描きたいと思ったのでした。

 ゴム靴を穿き、女は川岸に立ちました。
 ごうごうと濁り流れる川の流れを見ていると、思わず体が引き込まれそうな感覚になり、女は慎重に足元を踏みしめました。
 女の目には激しい水面の動きと飛沫が全て、絵筆で払い描かれる絵の具の線のように見えていました。
 その筆跡の隙間に、何かが見えました。
 始めは木の枝かと思いましたが、波に弄ばれるそれは、ぬらりと奇妙な輝きを見せました。
 女は吸い寄せられるように荒れる川に踏み入りました。濁流に押された体が大きく傾きます。それでも女は、胸まで水に浸かりながら、輝く小さなものを逃すまいと必死に捕まえました。

 それは青緑色の鱗に包まれた小さな竜でした。



 暖炉の前に置かれた陶器のボウルには、やわらかなリネンが詰められ、その真ん中に竜は眠っていました。
 揺れる暖炉の火が鱗に映り、ちらりちらりと煌めきました。
 女は自分の身体を乾かしながら、その様子に魅入られていました。
 トカゲに似ていましたが、金属で出来た精巧な置物のようでもありましたし、何よりトカゲと違うのは折りたたまれた背中の翼の存在でした。
 体が小さく上下し、竜が呼吸をしていることが分かりましたので、女は安心しました。

 女は死んだ大叔母から、少女の頃竜に出会った事があると聞いたことがありました。大叔母の語った竜は、彼女を丸呑みに出来そうだったという話でしたが、この竜にその心配は無さそうでした。

 女は竜の体を心配しながらも、竜を捕まえたその瞬間から頭の中は「絵」でいっぱいになっていました。
 翡翠色の絵の具に粗く砕いた貝殻を混ぜれば竜の鱗の色を完璧に描き写せると考え、心臓が高鳴りました。
 女は気持ちを落ち着かせようと、震える手で机の上のティーカップに熱い紅茶を注ぎ、いつもは入れない白砂糖を茶匙に山盛り三杯も入れました。
 すると突然、竜が半身を持ち上げ、女のほうをキッと振り向きました。
 竜の瞳がパレットナイフのようにギラリと光りました。

 次の瞬間、薄い膜状の翼がパリッと乾いた音を立て開いたかと思うと、竜はもの凄い勢いで女に向かって飛んできました。
 女は咄嗟に身を守る動作をしましたが、竜が目指したのは机のティーカップでした。
 音も立てず小さな爪で縁に捕まると身を屈め、湯気の立ちのぼる紅茶をしあわせそうにピチャピチャと飲み始めました。
 竜の細い腹がみるみる膨らみ、小さな鱗と鱗の隙間が開いていきました。
 
 竜はあっという間に紅茶を飲み干すと、溶けずに底に残った砂糖もぺろぺろと舐めました。
 全て舐め取り終えると、竜は満足そうにティーカップの中に丸まり、また静かに眠り始めました。
 女はふうーっとひとつ深い息を吐いて、スケッチブックに竜の寝顔を描きました。
 竜の舌が何度か名残惜しそうに、カップの底をぺろっと舐めました。
 竜の舌先って、本当は二又に割れて無いんですね。



『ティーカップ』
 

11/11/2025, 2:01:06 PM