「誰ですか、あの男は」
「え?なにっ?」
職場のエレベーターの中。
同期が降りて2人きりになった途端に角に追い詰められた。頭の両側に彼の手が置いてあって逃げ道がない。
急な接近を処理できていない私に構わず彼が質問する。
「彼氏の目の前で堂々と浮気ですか」
「浮気、なんて...」
同期が去り際に私の肩をトンと叩いたことを言っているのだろうか。『頑張れよ』とただそれだけの事を。
「アナタに指一本でも他の男が触れるのは許せない」
「なっ...に言って、んぅ...」
強い独占欲に文句を言おうと上げた顔をガシっと骨張った手で掴まれて、荒々しく唇が合わさった。キスというより噛み付くような、咎められているような獰猛さで息ができない。
ようやく離れた顔を見ると酷く荒いキスをしていた人だとは思えないくらい彼の顔は情けない程に悲しそうだった。
「アナタが好きすぎて、辛い。居なくなってしまうのではないかと不安になってしまうんです....。だから、証が欲しい。アナタが、俺だけのアナタだという証が...」
そう言うと私の左手を取ってじっと見つめる。何だろうと思ったのも束の間、薬指、そこに噛みつかれた。
「痛、っ‼︎」
咄嗟に手を引き戻したと同時にポーンとエレベーターが目的階へ到着した音がした。
彼は私の指についた歯形を見て嬉しそうに顔を歪めた。
「ああ、いいですね...」
そして私の頬をひと撫でして空いた扉へ足を踏み出した。
【開】のボタンを押したまま外に出た彼がああそれから、と一言いう。
「今晩、そんな数時間で消えるものではなく、そこにちゃんとした輪をつけてあげます。そのつもりでいて下さい」
#別れ際に
下駄箱を出ようとして気づいた。
「え...」
ポツポツと雨が降っていた。音がしないぐらい少しなのだけれど、駅まで30分程度はあるから、この中傘をささずに行くのは些か躊躇われる。
今朝、いつも見るニュース番組の気象予報士は晴れだと自信満々に言っていたからそれを信じて傘を持ってこなかったのに。
「わっ!?」
一瞬視界が真っ黒になって何事かと一歩下がると、目の前に開いた傘を差し出されていた。私が持っているのよりなんだか大きく見える黒い傘。
「ん」
「え?いいよ、君が濡れちゃうよ」
「俺は男ですから濡れても良いんです。先輩どうぞ」「悪いよ」
「いいですから」
「でも────」
言い終わる前に傘は私の足元に置かれ、彼は薄い鞄を傘がわりに走って行ってしまった。置かれた傘を手に取るとやはり大きい。足元に置いていってしまうなんて。
「カンタかよ...」
某アニメの毬栗坊やを思い出してふふっと笑みが漏れる。さて、彼の行為を無駄にしないように、帰ろうと一歩踏み出して気づく。
「雨、止んでる...」
彼、服大丈夫かな、濡れてないかな。雨、止んで良かったな。
そう思いながら少し熱った顔を撫でた。傘返さなくちゃ。
今まで見ているだけだった彼に話しかける理由ができたことに胸を躍らせた。
#通り雨
「あははは」
声がした。鈴を転がすような声。
そちらを見なくても、その声が誰のものかわかる。
2階のこの教室の窓際の席からは校庭がまるっと見えた。
そこの端に彼女はいた。授業中だろうに木陰に座って友人と笑い転げる彼女を見てみると、こちらまで楽しくなって、笑みが漏れる。
不意に彼女が上を見上げた。すぐに弧を描く目。振られる小さい手のひら。
「せーんぱいっ」
授業中なのを忘れて振り返した手が教師によって掴まれる。
「お前なぁ...彼女が可愛いのはわかるけど、受験生なの忘れんなよ」
後5ヶ月。それでこの学校を卒業する。彼女と一緒に過ごせる期間も後少ししかない。
窓の外を見下ろす。
愛しい彼女は自分が遠くの大学に行く予定だと知ったら泣くだろうか。それでも良いと、遠距離恋愛というのをしてくれるだろうか。ひどく寂しがり屋の彼女。もしかして、別れを切り出されるかもしれない...
窓から入ってくる風は先週より少し冷たくなったような気がする。
季節は夏から秋に変わろうとしていた。
季節の変わり目に、彼女との関係にも変化が訪れそうだ。
#窓から見える景色・秋
目の前にいる女をそっと後ろから抱きしめた。
ビクッと肩が跳ねて体に力が入ったのがわかる。
彼女の肩口に、頭を預けて額を擦り付けると柔らかい掌が私の髪を梳くように撫でた。
体を強ばらせておきながら余裕を見せるその行為は妬ましくもあり、経験の差を見せつけられたようで、ギリギリと気持ちが軋む。
『お見合いする事になったんだよね』
数分前の彼女の言葉を思い出す。
大したことでも無いと言うようにさらっと言ってのけやがって。
少しは理解しろ、自覚しろ。
ここに男がいるだろう。その男はいつもアナタをどうやって扱っていたか。
大切にしていただろう、それはそれは懇切丁寧に。
それがアナタだけにしていると、アナタも分かっているだろう。
その男を前にして、お見合いをするだと?
私がアナタを愛していると知っているくせに。
ああ、そうか....この女は私を試している。
「遠回しな言い方をせずに、素直に言えばいいでしょう」
「別に何も....」
────連れ去って、一緒に逃げてほしいと言え。
アナタが望むのなら、今すぐにでもそうするのに。
何も言わないアナタが何を考えているのかわからない。だがそうであってほしいと願ってしまうのだ。
私を求めて、私に縋って、私と一緒に居たいと言ってくれ。
胸の内は文字に形容することができない。
アナタの心が見えないことがこんなにも悔しい。
文字に起こさなくてもいいから、せめて色形だけでも解ればいいのに。
アナタの私に対する心が、燃えるように真っ赤で、ハートの形をしていれば、こんなに嬉しい事はないのに。
#形の無いもの
ソレに登った記憶はどれぐらいあるだろう
それこそ小さい時は何度か登った記憶があるが、昨今の何でも規制の時代で、それは最近どの公園でも姿を見なくなったような気がする。
ソレで遊んでいる子供たちを想像すると、やはり初めに思いつくのは“落ちると危ない”である。
だから規制する。時代と共に今後ソレは益々廃れていくだろう。
だが思い出して欲しい。
ソレに初めて登った日のことを。
一歩一歩、踏み出したことを。
ギュッと手のひらに力を入れて、全身を使って、時には腕や膝裏を絡ませて、上へ上へと目指したではないか。
そしてやっとその頂の上に立った時、どれだけの達成感があったか。
どんな景色だったか。
胸の奥から染み出してきた高揚感を、満足感を、興奮を。
下から見ていると大した高さではない、と思うだろう。
だがそれは全く違う。
ソコから初めて見下ろす景色は、ただありのままの姿ではない。
ソレ本来の高さに自身の身長を合わせて思ったよりも高く見えるのだ。そして恐怖を感じながらも己の力だけで登ってきたのだという自信で、そこからの景色はそれは素晴らしくキラキラと光っているのだ。
安全は勿論大事だと分かっている。どうか、怪我をしないで欲しいといつも願っている。
だのに、ふと思う。
子供たちが経験値を得るはずだった機会を失って欲しくはないな...と、ただ思うのである。
この気持ちに折り合いをつけるのも親の務めなのだろうか。
#ジャングルジム