「誰ですか、あの男は」
「え?なにっ?」
職場のエレベーターの中。
同期が降りて2人きりになった途端に角に追い詰められた。頭の両側に彼の手が置いてあって逃げ道がない。
急な接近を処理できていない私に構わず彼が質問する。
「彼氏の目の前で堂々と浮気ですか」
「浮気、なんて...」
同期が去り際に私の肩をトンと叩いたことを言っているのだろうか。『頑張れよ』とただそれだけの事を。
「アナタに指一本でも他の男が触れるのは許せない」
「なっ...に言って、んぅ...」
強い独占欲に文句を言おうと上げた顔をガシっと骨張った手で掴まれて、荒々しく唇が合わさった。キスというより噛み付くような、咎められているような獰猛さで息ができない。
ようやく離れた顔を見ると酷く荒いキスをしていた人だとは思えないくらい彼の顔は情けない程に悲しそうだった。
「アナタが好きすぎて、辛い。居なくなってしまうのではないかと不安になってしまうんです....。だから、証が欲しい。アナタが、俺だけのアナタだという証が...」
そう言うと私の左手を取ってじっと見つめる。何だろうと思ったのも束の間、薬指、そこに噛みつかれた。
「痛、っ‼︎」
咄嗟に手を引き戻したと同時にポーンとエレベーターが目的階へ到着した音がした。
彼は私の指についた歯形を見て嬉しそうに顔を歪めた。
「ああ、いいですね...」
そして私の頬をひと撫でして空いた扉へ足を踏み出した。
【開】のボタンを押したまま外に出た彼がああそれから、と一言いう。
「今晩、そんな数時間で消えるものではなく、そこにちゃんとした輪をつけてあげます。そのつもりでいて下さい」
#別れ際に
9/28/2022, 12:20:39 PM