ある日の朝……。父親の伸二が出入口に貼った紙を見て、娘の由香は目を丸くした。
『誠に申し訳ございませんが、本日臨時休業とさせて頂きます』
由香の家は銭湯で、一人娘の由香はあとを継いで女将さんとなる。現在中学二年生で、クラスメートには贔屓にして貰っている。ただ……、男子の中には。
「クラスメートだから、コーヒー牛乳タダ……な」
そう言ってくる輩もいる。
材料費や燃料費の高騰が、かなり痛手になっている。しかし……。廃業だけは、なんとしても避けたい。組合で話し合った結果、持ち回りで営業してみようとなった。週に二日の休みでローテーションを組んだのである。
「悪いな。由香」
詫びた父親に、由香は笑顔で返す。
「ううん。気にしないで。私だって、今のご時世大変なの、分かっているから。じゃあ。今日は、念入りに浴場の
お掃除出来るね」
「ハハハッ。それは、お父さんとお母さんでやっておく。たまには……。放課後、思い切り遊んでこい」
「えっ! いいの?」
目を丸くして訊いた由香に、伸二は笑顔で頷く。
「もちろんだ。由香は、まだ中学生なんだ。デートくらい、してこい」
その言葉に、由香は真っ赤になって返す。
「そんな人、まだ居ないよ!」
学校に行き、由香の家の事情を知ったクラスメート。その中のひとりの女子生徒が、よく由香の家の銭湯を利用する男女を集めた。そこで、由香に感謝しようという話が出た。
「い……、いいわよ。みんな。そんなこと、してくれなくても」
照れ臭そうに訴えた由香だが、女子は全員賛成。しかも……。
「男子! 分かっているわよね?」
そう、しっかりと釘を差した。コースは、スイーツを満喫して、営業している銭湯へ……となった。スイーツの代金は女子持ちで、銭湯の料金は男子持ち。おまけに、由香の鞄も男子が持つ。
放課後……。街に繰り出した一同。スイーツ店で話が弾む女子たち。コーヒー、冷めちゃうぞ。要らぬ心配をする男子だが、由香があまりにも楽しそうなので、何も言えない。
「まあ。いいか」
目線でそんなやり取りをして、笑みを見せた。
銭湯では、出る時間を示し合わせて利用した。
銭湯を出たときには、夜になっていて、星空が満天を覆っていた。
「客として銭湯を利用するのも、いいだろ?」
「たまには……ね」
男子の言葉に、笑って返した由香。夜の空気が、風呂上がりの肌に心地好く感じられる。
「おーい! 由香! 見てみろよ! おまえの家の煙筒」
ひとりの男子の言葉に、由香も含めた誰もが前方を見た。
「すっげえ! 由香の家の煙筒から、星が溢れているみたいだ」
「綺麗……」
前方に見える、由香の家の煙筒。その筒先と天の川が、上手い具合に重なっている。まさに……。煙筒が、たくさんの星を吐き出しているようである。
お父さん! サイコーのご褒美、ありがとう! 由香は、何だか嬉しくなった。
とある家族で飼っていたポメラニアンが、寿命半ばで死んだ。正しくは、苦しみから解放してあげたのである。
麗がまだ幼いころ……。家族でショッピングに出掛けたとき……。幼い娘の麗が、ペットショップの前で立ち止まった。
「どうしたの? 麗」
母親が尋ねると、麗はある方向を指差した。ショーウインドウの中から麗を眺め、アピールするようにしっぽを振っているポメラニアン。
「飼いたいの?」
「うん! 飼いたい!」
母親の問いに、目を輝かせて頷いた麗。しかし……。
「でも……。お父さんも、お母さんも、仕事で昼間は家に居ないぞ。麗も、幼稚園があるし」
父親がそう言うと、縋るように訴える。
「お願い。ちゃんと、お世話するから。いいでしょ?」
悩む夫に、妻が話す。
「あなた。お父さんに、相談してみるわ」
妻の両親が、自宅から歩いて数分のところに住んでいる。
電話してみたところ……。費用は麗の両親が持つという条件で、世話を承諾してくれた。
ポメラニアンは、毛色から『ココア』と麗が名付けた。
麗は、ココアの世話を一生懸命やった。朝早く散歩に連れていき、幼稚園から帰ってきてからも散歩に連れていき、ココアの食事を見届けてから家に帰る。ココアも、麗に一番懐いた。飼い主とペットというより、ほとんど友達のような付き合いである。
小学校の入学式では、新しい制服を抱っこしたココアの毛で台無しにしてしまい、母親を呆れさせた。
「卒業式は、ココアを抱っこするの禁止! いいわね?」
そう約束させられた麗だが、それは果たせなかった。
麗の小学校卒業まで、あと一ヶ月。ココアの心臓に疾患が見つかった。更に……。悪いことに、肺水腫を併発してしまった。
入退院や通院を繰り返すうちに、心臓が疲労とストレスに耐えられなくなってきた。
獣医師からは、このまま苦しい思いをさせるくらいなら……と、打診された。
反対するかと思っていた麗のほうから、安楽死を願い出た。
「ココアは、どうして欲しい……って、言葉に出来ない。だから……。私は、こうすることがココアのためになる……ってこと、してあげたいの。ココアは、許してくれるよね?」
そう訊いた麗の頭を、母親は胸に抱き締め、優しく返す。
「うん。許してくれるわ。きっと……」
点滴の管が射し込まれ、生理用食塩水、麻酔、心臓を止める薬がココアの体内に入っていく。ココアが身体を横たえるまで、時間は掛からなかった。
床に膝を着いて、診察台に横たわるココアと目線の高さを同じにした麗。
「麗。ココアの瞼を、とじてあげないと」
そう言って、手を伸ばそうとした母親。しかし……。それを、夫が止める。
「お父さん。お母さん。ココア、いつもと同じ目で、私を見ている」
顔を涙で濡らしながらも、無理に笑顔を作ってそう言った麗。彼女の目に映るのは、安らかな瞳で自分を見詰めている愛犬の顔であった。
「これで、いいの?」
「うん!」
仏壇の前に座っている、母親の美月と彼女の娘の明星(あかり)。仏壇に写真を置いた母親の問いに、明星は笑顔で大きく頷いた。
写真に写っているのは、仲良く寄り添い合っている明星本人と白い大型犬。ただ……。死んだのは、白い大型犬のほうである。
前の飼い主が、犬アレルギーの女を嫁に貰う。家では飼えなくなり、共通の知人を介して美月にその話が届いた。まだ明星が生まれる前で、明星が生まれたときは犬にも特上の肉が振る舞われた。
両親は前の飼い主が付けた名前で呼んでいたが、いつ頃からか明星が『ユキ』と呼んでいた。
明星は、何を刷るにもユキと一緒であった。オヤツの半分こ。絵本を読んで聞かせたり、ユキの背中を枕にウトウトしたり。
別れは、突然にやってきた。散歩の途中……。二匹の野良犬から明星を護るため、懸命に闘ったのである。
野良犬は撃退したが……。噛まれたところが悪かったのか、白い身体を鮮血に染め、ユキは崩れ落ちるようにアスファルトに倒れた。
傷口を舐めようというのか……。懸命に、頭を動かずユキ。しかし……。四肢は動かず、舌は届かない。
ユキを中心に拡がる血の海と、その脇で座り込んで泣きじゃくるだけの明星。誰かが知らせたのか、美月が駆け付けてきた。
掛かり付けの獣医に運び込んだが、傷を診ただけで獣医師は首を横に振った。もう、助からない。そう言われた。
両親は、安楽死を申し出た。当然に、明星は反対する。
「イヤだぁ! ユキを、殺さないでぇ!」
そんな娘に、美月は言い聞かせるように話す。
「明星。ユキは、今、凄く苦しんでいるのよ。痛くて、明星の呼び掛けに返事も出来ないの。明星は、そんなユキを、ずっと見ていたいの?」
躊躇いなのか……。少し間があったが、明星は首を横に振った。
「ユキを、苦しみから助けてあげましょ」
無言で、コクッと頷いた明星。しかし……。獣医師が生理用食塩水を用意すると、泣きながら外へとび出していった。
ユキが楽になり、美月が呼びにいくと、明星は泣き止んでいたが、目は涙で真っ赤になっていた。
獣医師が懇意にしているペット葬儀の業者で、ユキを火葬して貰った。
いつも一緒に居られるように、ユキの写真を仏壇に飾るのだが。明星は、自分とのツーショットの写真を選んだ。
「この写真でいいの?」
美月の問いに、明星は笑顔で返す。
「これなら、いつも隣に居るから。ユキも、寂しくないもん」
「卓也! 居る?」
ドアチャイムとドアの開閉の音に続いて、香住の声が聞こえた。弟の卓也は、リビングのソファーにふんぞり返り、テレビを観ていた。
「大学は?」
「今日の講義は、午前だけ」
姉の問いに気怠そうに返した卓也は、そちらに視線を向けて目を丸くする。香住の背後に、一体のロボットが控えていたのである。
「何? それ……」
「何って……、ロボットよ」
弟の問いに、香住は当然のように返した。全身白色で、関節の稼働部が黒くなっている。人間の顔面を模した顔に、透明に近い瞳。額にある丸いレンズは、カメラらしい。必要以上に大きなバストと括れたウエストが、女性を模したロボット……ということが分かる。
「それは、分かっているよ。どうしてここに連れてきたのか……ってことを、訊きたいの」
その質問にも、香住の態度に変化はない。
「決まっているじゃない。あなたに、モニターを頼みたいのよ」
「ええっ!」
そんな面倒臭いこと……。そう訴えるように、大袈裟に驚いてみせた卓也。やはり……。それでも、香住の態度は変わらない。
「頭脳は、かなり高性能のAIだから。生活に不自由することは、無いと思うわ。分からないことは、彼女に訊いてね。モニターに関することだけね。それと…。ちゃんと、勉強しなさいよ」
それだけ言い残して、香住は出て言った。
同時に……。ロボットが、卓也の前に立ち、テレビを遮る。
「初めまして。R30と申します」
ペコリとお辞儀をして、綺麗な女声で話すR30。ポカーンと見ている卓也に、申し出る。
「何か、お申し付け下さい」
「う……、うん。そ……、掃除を」
ちょっと、照れ臭くなったのか。卓也は、ドキドキしながら、お約束の言葉を口にした。
卓也は、大学の四年生。但し……。二回目の四年生である。香住は、卓也と違う大学の大学院に通っている。父親は教授で、母親は准教授。どちらも、香住の通う大学院でロボットの研究をしている。
三人が理系の大学を卒業したのに対して、卓也だけは文系の大学に入った。
R30は、良く気が利き、良く働くロボットだ。朝は卓也を起こしてくれるし、卓也が帰宅すれば玄関で出迎える。
ある日……。
「うーん……」
卓也は頭を抱えていた。明日提出のレポートが、なかなか進まないのである。
「どうしよう?」
半ば諦めていた卓也の目に、掃除をしているR30が映った。彼女の頭脳なら、こんなレポート、簡単に仕上げられるのに。でも……なぁ。そんなことをしたのが、お姉さんにバレたら。
自分が頑張る……という選択肢は捨てたようで、あれこれ考える卓也。あっ! そうだ!
何かを思い付いた卓也は、R30を呼んだ。
「確か……。高性能のAIを、内蔵しているんだよね?」
「はい」
「この課題のレポート、R30ならどう作る? その辺が、知りたいんだけど。いいかな?」
「畏まりました」
課題を確認したR30が、レポートの内容を卓也に話す。それを、一字一句違わず書き込んでいく卓也。
ヘヘヘッ。これも、モニターの仕事だもんね。R30のAIが、どれだけの性能を持っているか……を調べる。
それからも……。
「R30のAIが、どれだけの性能を持っているか。もっと知りたいんだ」
何とか理由を付けて、大学のレポートをやらせていた。
しかし……。ある日、卓也はあることに気付く。
R30が来て、三週間。でも……。燃料を補給しているところを、一度も見ていない。
電気のソケットやUSBケーブルはおろか、太陽光発電のパネルも無い。
ま……まさか、ね。一抹の不安を感じた卓也は、R30に訊いてみた。
「ねぇ。R30のことが、もっと知りたいんだけど」
「はい。何ですか?」
掃除の手を止めて、そう訊いてきたR30。
「R30のエネルギーって、何?」
その問いには、少し間をおいて。
「フフフッ」
意味深な笑いで返しただけである。
「はぁい!」
ドアチャイムを鳴らされ、大きな声で変事をした雅子。しかし……。誰が来たのか、分かっているのか。特に、急ぐ様子は見られない。
玄関のドアを開けたそこに立っていたのは、大きなバッグを肩に掛けた青年。
「あら。和也くん。こんにちは」
「こんにちは。あのぅ。また……、御願い出来ますか?」
「うん。いいわよ。どうぞ」
雅子の返事を確認してペコリとお辞儀をして、中に入った和也。
「あの……。お母さんが、これを」
そう言って、タッパーを差し出した。
「ありがとう。いつも、悪いわね」
「いえ。迷惑を掛けているのは、僕の方ですから」
受け取ったタッパーの中身を、雅子は確認する。
「わぁ! 肉じゃが。助かるわ。今夜のメニュー、何にしようか迷っていたのよ」
「そう言って貰えると、助かります」
そう返した和也が、リビングに入って支度をする。
カーテンを全開にして、テラス窓のサッシも開け放つ。途端に……。身体を震わせるほどの轟音が、室内に響き渡る。
和也がバッグを開けて取り出したのは、大きなカメラ。かなり仰々しく、プロのカメラマンか……と思うほどである。ドでかい望遠レンズを取り付け、立てた三脚にそれをセットした。
ここは、アメリカ空軍基地を見下ろせる高い場所にある住宅街。雅子の住むマンションも、そこに建っている。
しかも……。雅子の住まいからは、米空軍の滑走路を真っ正面に眺めることが出来るのである。
マンションの窓は防音サッシになっており、閉め切っていれば音もそれほど苦にならない。
和也は、隣の住人で、かなりのミリタリーオタク。大学に通うか、自宅で過ごすか、雅子のところで米軍機にカメラを向けているか。生活パターンは、この三つのうちの繰り返しである。
「わぁ! すっげぇ!」
「うわっ! いいアングル、逃した」
「やった! バッチリ!」
一喜一憂しながら、尚も米軍機をカメラで撮っていく和也。雅子がコーヒーを出しても、返事すらしない、そんな彼を見て、クスクス笑う雅子。
しばらくして……。ドアチャイムが、鳴らされた。相手は、かなり慌てているのか、ドアを乱暴にドンドンと叩く。
「はぁい!」
「サブさんですよ。きっと……」
和也の言葉に、雅子は……。
「仕様がないわね。まったく」
呆れた笑みを浮かべながら、玄関へと移動する。
ドアを開けたそこに立っていたのは、いかにもその筋と分かる背広姿の男である。
「あら。どうしたの? サブちゃん」
「雅子さん。済まない。これ、ちょっと預かってくれないか? ガサ入れ、入りそうなんだ」
そう言ったサブが、雅子に差し出した……いや、突き付けたもの。それは、小さな四角い紙包みである。
可愛らしい紙と綺麗なリボンで、丁寧にラッピングされている。しかし……。受け取った雅子が重さを調べる仕種を見せたことから、中身が安易に想像出来る。
「また、危ないことに、足を突っ込んで……。駄目よ。京子を困らせちゃ」
雅子の呆れた言葉に、サブは……。
「申し訳ございません。このお礼は、キッチリさせて頂きます」
それだけ言って頭を下げ、足早に走り去っていった。
歩いて数分のところに、その筋の事務所がある。京子は、雅子の同級生で親友。その筋の組の姐さん……と言う、オマケまで付いている。
そんな訳で……。面倒ごとがあると、雅子のところに駆け込んでくる。
ただ……。そのせいか、雅子は夫にブランド物ねだったことがない。
夕方……。和也も母親が呼びにきて居なくなり、入れ替わりに夫が帰ってきた。
「どうだった? 今日は」
背広の上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめて、そう訊いた夫。そんな彼に、雅子はビールとグラスを出して返す。
「いつもどおりよ」