奥の部屋でソファーに身体を横たえ、男は苦しそうに息をしている。それを心配そうに見詰める、何人もの男女。
「ゲイル……」
男に寄り添う女が声を掛けたが、彼は尚も苦しそうに息をしながら女に視線を向けただけである。
しかし……。
「た……、大変だ! ま……、また、奴らが! 今度は凄く大きな闇で、ビルを次々と飲み込んでいる」
慌てて駆け込んできた男の叫びに、苦しそうに息をしながらも、ゆっくりと身体を起こした。
「駄目だよ! ゲイル。その身体じゃ。無理だよ」
女の言葉に、彼は無理に笑顔を作って返す。
「誰かが、やらなきゃ……な」
「駄目だよ! 死んじゃうよ」
その言葉にも、ゲイルは……。
「闘って死ぬのは、我慢出来るけど。梨里の作るホットドッグが食えなくなるのは、死んでもイヤだね」
笑ってそう返し、ソファーから立ち上がった。
いつの頃からか……。この世界を支配しようとする闇からの使者が、この街の平和を脅かし始めていた。
逃げ隠れして暮らしていた住民たちも、もはやこれまで……と諦めていた。そこで現れたのが、流れ者のゲイルである。
彼は、この街に留まり、闇からの使者を撃退してきた。その闘いも、既に半年に及んいた。
無機質なビル街を、迫り来る闇に向かって歩くゲイル。神憑り的な力を持っているのか……。右腕を天に伸ばすと、その手に握られる形で剣が浮かび出た。
あちらこちらから、闇の獣が隙を窺っている。しかし……。それらにはかまわず、ゲイルは闇に向かって剣を振り下ろした。その軌跡が、光の刃となって闇に突っ込んでいった。
青白い光を放ち、爆発を起こした闇。左右に別れるように消滅して、そこに佇んでいたのはひとりの女。身に纏う黒衣が、肌の白さを際立たせている。
「ラスボスの登場……って訳か」
「わらわは、暗闇女帝。何故、わらわの邪魔をする?」
女帝の問いに、ゲイルは素っ気なく返す。
「気に入らないからだよ。そっちのやることが」
「何? それは、愛か? それとも、平和か?」
女帝の問いを、ゲイルは他人事のように突っ跳ねる。
「ヘヘッ。愛とか平和とか……。そんな大義名分を、振り翳すつもりはないし。そっちの講釈も、聴きたくないね」
「では……、何故?」
そう問い詰めた女帝は、ゲイルの回答に驚きの表情を見せる。
「ホットドッグが、美味いからさ」
「な……、何だと?」
「パン屋の娘の梨里が作るホットドッグ、最高に美味いんだぜ。それを、ビルの屋上で、空を流れる雲を眺めながら食べる。もう、最高だぜ。だから……な」
そこで一呼吸おいたゲイルが、声を大にして叫ぶ。
「そんな時間を邪魔するヤツが、許せないんだよ!」
剣を両手で握り、身構えるゲイル。しかし……。女帝は、闘う姿勢を見せない。
「どうした?」
ゲイルの問いに、女帝は静かに返す。
「分かった。今回は、身を退こう」
「な……、何?」
「しかし……。憶えておくがいい。人間は、愚かだ。この世界の支配者だと分かれば、また邪魔者を排除しようと争いを起こす。わらわのような魔物が、その心に付け入ってくる」
女帝の言葉に、ゲイルも笑って返す。
「そのときは、また俺みたいなヤツが現れるさ。ヘヘッ」
「その言葉、忘れないぞ。フフフッ」
不気味な笑みを残して、女帝は空間に溶け込むように消えていった。
それを確認したゲイルが、崩れ落ちるように倒れた。
「ゲイル! 大丈夫?」
彼に駆け寄る、梨里と何人もの住民。
「ゲイル……」
心配そうに声を掛け、ゲイルを抱き起こした梨里。ゲイルは、無理に笑顔を作って返す。
「ホットドッグ、食べたいな。でっかいソーセージで……」
彼のその言葉に、梨里は笑って続ける。
「マスタードは、抜き……でしょ?」
ある日の夕方……。私は、控え室でメイクを整えていた。そこへ……。ドアが開いて、ママさんが顔を覗かせる。
「睦実ちゃん。メイク中、ご免なさい。あなたに、お客さんよ」
「えっ! まだ、開店前ですよね?」
ママさんの言葉に、キョトンとしながら返した私。しかし……。
「それが……、女の人なのよ」
その言葉に、何かを思い出した。私は、鏡に視線を戻し、鏡の中に映るママさんに伝える。
「二十分、お待ち下さい。そう伝えて下さい」
「に……、二十分って。そんな!」
驚くママさんに、私は静かに返す。
「そのくらい待つ覚悟があるから、わざわざ訪ねてきたんじゃないんですか?」
「わ……、分かったわ」
それだけ返して、ママさんはドアを閉めた。
二十分後……。私は、メイクや髪型それにドレスを整え、店のホールに出た。隅のボックス席で、ひとりの女が待っていた。半ば忘れていた顔も、その面影が記憶を蘇らせる。
「三鷹睦実……と申しますが。私にご用があるのは、あなた様ですか?」
歩み寄って訊いた私だが、その前に相手の女は私を睨んでいた。
「私がここに来た理由、分かるわよね? 村野高雄くん」
私が席に着くと、挨拶もせずに罵りの言葉を吐いてきた相手の女。私は、惚けた表情で返す。
「私の本名は、確かに村野高雄ですが。その前に、どちら様ですか?」
「ふざけるのも、いい加減にしなさい! あなたが中学のときに教育実習でその中学校に行っていた、今井裕子よ!」
修羅の形相でそう言った裕子だが、私は飽くまでも惚ける。
「はて? どうでしたか?」
馬鹿にするように返した私だが……。実際、忘れたくても忘れられない。私の想いを、踏みにじったのだから。
「これ、あなたの仕業よね?」
そう訊いた裕子が、テーブルの上に一冊の本を置いた。それは、アダルト書籍で、頭のお堅い人には、変態の読み物として映る雑誌である。
「これは……、また。変わったご趣味を、お持ちのようで」
「ふざけないで!」
茶化すような私の言葉を断ち切った裕子が、雑誌のあるページを開いて私に突き付けた。
「これ、あなたが書いたんでしょ?」
私は、目を通すフリだけした。内容はすべて分かっているし、発売前に雑誌社から一冊頂戴している。つまり……。これは、私が書いたものである。
タイトルは、『犯罪者の娘.今井裕子』となっている。
小学校の校長をしている裕子の父親が、汚職事件で逮捕されてしまった。その父親を娑婆に出すために、保釈金貸付業者を頼った。しかし……。その貸付業者は、業界でも有名な高利で貸し付ける業者だった。
借金を返すために、裕子は性風俗に手を出し、転がり堕ちるように淫乱な牝になっていく。
ベタな顛末だが……。小学校の校長と汚職事件、それに登場人物の名前はノンフィクションである。
作者の名前は、『佐倉真琴』となっている。もちろん……。こんな雑誌に、筆名を使わずに投稿するバカはいない。どうせ、採用される訳がない。そう思ったから、書きたいことを思い切り書けた。
「なるほど。面白い内容ですね」
笑顔で言った私に、裕子は罵るように返す。
「ふざけないで! どうして、こんなことをするの?」
「はて? 私がこれを書いた……という証拠でも? 私には、このような才能はありませんよ」
そう返した私は、腕時計を見るフリをして、席を立った。
「そろそろ、お店を開ける時間です。私ひとりサボる訳にも、いきませんので」
裕子に背中を向けたら私は、静かに口を開いた。
「今井先生」
「何?」
「その小説は、ともかく。私は、凄く悔しかったんです。こっちは、勇気を出して告白しました。それなのに……。あんな酷い手口で。人を、ストーカー扱いして」
「あんな昔のこと……」
「あなたには、とうの昔に過ぎ去った過去でしょう。でも……。私には昨日のことのようで、今でも頭から離れません。今、私がニューハーフクラブで働いている理由。あなたには、分からないでしょうね」
そう言い残して、私はその場をあとにした。
「そ……、そんな!」
非情な言葉を吐かれた細道は、ソファーから立ち上がり、呆然とした表情を見せた。
彼の隣では……。ソファーに掛けている由実が、俯けた顔を上げられないでいる。
一年前……。交通事故に遭い、入院を余儀なくされた奥野細道。その病室の掃除を担当していたのが、清掃会社から派遣されていた岡野由実である。
同室の患者が、次々と退院していく。とうとう、細道ひとりになってしまった。
「暇そうね?」
テレビも飽きたのか。ベッドで仰向けになり、天井を眺めていた細道。
ギブスで固定されて吊るされている左脚を除けば、まったくの健康体。無気力になるのも、分からないでもない。
そんな細道を見て、モップを動かす手を止めた由実。半ばからかうような笑顔で、そう訊いた。
しかし……、細道は。何も返さず、チラッと彼女を見ただけ。すると……。
「痛い!」
由実は、モップの柄で彼の頭をコツンと叩いた。
「何、するんだよ? いたぁ~」
痛さを大袈裟に表現しようと、顔をしかめて両手で頭を庇う仕種を見せる細道。
「フッフフフ」
由実は、そんな彼を見て、可笑しそうにクスクス笑う。
顔を合わせるたびに、夫婦漫才みたいなやり取りをして、ふたりの仲は縮まっていった。
由実は、細道より五歳年上。若くして結婚したが、夫とは離婚して、ひとりで小さな子供を育てている。
ただ……。許されない結婚だったらしく、両親とは疎遠になっている。
交際を申し込んだのは、細道のほう。それに対して由実は……。
「●月●日までに退院したら、デートしてあげる」
そう返した。細道は、嬉しそうな笑顔で訴える。
「デートスポット、選んでおいて」
約束の日よりも早く退院して、デートを実現させた細道。他人の関係でなくなるまで、それほど日数は掛からなかった。
「まだ、駄目よ。もうちょっと、待って。お願いだから」
不安そうな表情と口調で、細道を諭す由実。結婚を前提としてのお付き合いの挨拶を、両親にしたい。そう細道が、訴えたのである。
しかし……。細道は、どうしても……と引き下がらない。その結果が、これである。
ろくでもない男と結婚して、離婚という目に遭った由実。今度は、こんな若造を連れてきた。そう親の目に映っても当然である。
細道自身……。若輩者と罵られるのは、覚悟していた。彼が、怒りを覚えたのは……。
「何処の馬の骨とも分からない若造が、娘と結婚……だと? ふざけるのも、いい加減にしろ!」
いきなり、父親にそんな罵声を浴びせられたことである。
「これで、身を退いてくれ」
由実の父親が、テーブルの上に一万円札の束を三つ置いた。
「これは?」
訝しげな表情で訊いた細道に、由実の父親は嘲りの口調で返す。
「分からないのか? 手切れ金だよ」
その言葉に、細道は冷めた表情と口調で否定する。
「手切れ金? 違うな。あんたが俺の前に置いたのは、賄賂だ。嫌がる由実に、俺がしつこく付きまとった。そう言う話に、しておきたいんだろ? そんな金を喜んで受け取るほど、俺は堕ちていない」
それだけ言った細道が、無言でリビングをあとにした。
「待って!」
外に出た細道が、由実に呼ばれて足を止めた。振り向いた細道と対峙した彼女。何か言いたそうだが、それを戸惑ってい様子である。
「楽しかったよ。夢をみせてくれて、感謝するよ」
そんな捨て台詞を残し、何か言いたそうな由実を無視して、細道は足早に歩き出した。
「あっ! し……、しまった!」
独り暮らしのマンションに帰ってきた細道。玄関の前に立ち、一張羅の背広のポケットに手を入れて、絶望の表情を見せる。玄関の鍵が、無いのである。合鍵はあるが、それはドアの向こう。
どこかで、落としたのかな? 何て日なんだ? まったく!
八つ当たりなのか。ドアを思い切り蹴った細道。
「こらっ! 近所迷よ」
その言葉に、ハッと階段のほうに視線を向けた。大きなバッグを両手で持った由実が、階段から上がって姿を見せたのである。
「忘れ物。玄関に、落ちていたわよ」
歩み寄った由実が、呆れ顔でそう言いながらバッグを置いて、細道にカードキーを差し出した。
「ゆ……、由実さん」
唖然とする細道に、由実は笑顔で言う。
「親に言われて、あなたとの仲を反古にする。私も、そこまで堕ちていないわよ」
「由実さん」
嬉しそうに名前を言った細道に、彼女は笑顔で続ける。
「夢を見させてくれて、ありがとう。そう言ったわよね? じゃあ。今度は、あなたが夢を見させて。たとえ、悪夢でも……ね」
由実の言葉に、細道は子供みたいに怒って返す。
「ば……、馬鹿にするな!」
あの日の夜も、月が出ていたと思う。寒い夕方、ところどころ凍っているアスファルト。そんな悪条件の中を、俺は自転車をこいで恋する相手が住む家に向かっていた。
相手の名前は、今井裕子。教育実習で中学校に来た、先生の卵だ。
ただ…。『犯罪者の娘』という、オマケが付く。小学校の校長をしていた父親の貞夫が、汚職事件で世間を騒がせたのだ。
悪いヤツのところには、悪いヤツが集まるのか。それとも…。甘い汁を吸わせて貰った連中からの、御礼なのか。保釈金が支払われたらしく、すぐに娑婆に出てきた。
もちろん…。そんなことは、どうでも良かった。…という以前に、忘れていた。
しかし…。俺は、その犯罪者の血筋を思い知らされることになる。
裕子の家に着いたのは、辺りが暗くなったころ。ハンドルを握っていた手が、かなり冷たくなっていた。それでも…。勇気を出して、ドアチャイムを鳴らした。
小さな和室に通され、ふたりきり。アポ無しの訪問だったから、慌てて暖房を入れてくれたが、暖かいとは言い難く、コタツの中で懸命に両手を擦り合わせる。
「今井先生が…、好きなんです」
年頃の女に対して、こちらはまだガキだ。叶わね恋と分かっていても、それでも…と、精一杯自分の想いを訴えた。
「憧れなのかな?」
諦めの言葉を俺に言わせようと言うのか、そんな言葉ではぐらかしに掛かる裕子。
同じ言葉しか言えず、同じ言葉しか返さず、ムダな時間だけが過ぎる。
しばらくして、裕子の母親が顔を覗かせた。冬の夜道だから、これ以上遅くなると危ない…とのことだ。
今度会ったら、ちゃんと言わなきゃ! そう自分を奮い立たせ、あちらこちら凍っているアスファルトに注意しながら、自転車をこいで家に帰る。
帰宅すると…。予想外のことが、待っていた。
「どこへ、行っていた? 父さん、謝ってこなきゃいけないじゃないか!」
裕子の父親の貞夫は、俺の父親の恩師に当たるらしい。それで、お叱りの電話があったというのだ。
俺と裕子の問題だ! そんなに、自分の顔が大事か?
そう訴えたくても出来ずに、これでもか…というくらい、俺は殴られ続けた。
初恋なんて、上手く叶うモノだとは思っていない。それでも、俺は勇気を出して告白した。その見返りが、この仕打ちとは…な。何故、自分の口で言ってくれない?
犯罪者の娘も、所詮は犯罪者なんだな。人の思いを、何の躊躇もなく踏みにじる。それも、姑息な手で。自分に都合の良い人間の言葉にしか、耳を貸してはくれない。そんな悪いヤツが教師になれるって、本当に思っているのかな?