ルー

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「そ……、そんな!」
 非情な言葉を吐かれた細道は、ソファーから立ち上がり、呆然とした表情を見せた。
 彼の隣では……。ソファーに掛けている由実が、俯けた顔を上げられないでいる。 

 一年前……。交通事故に遭い、入院を余儀なくされた奥野細道。その病室の掃除を担当していたのが、清掃会社から派遣されていた岡野由実である。
 同室の患者が、次々と退院していく。とうとう、細道ひとりになってしまった。
「暇そうね?」
 テレビも飽きたのか。ベッドで仰向けになり、天井を眺めていた細道。
 ギブスで固定されて吊るされている左脚を除けば、まったくの健康体。無気力になるのも、分からないでもない。
 そんな細道を見て、モップを動かす手を止めた由実。半ばからかうような笑顔で、そう訊いた。
 しかし……、細道は。何も返さず、チラッと彼女を見ただけ。すると……。
「痛い!」
 由実は、モップの柄で彼の頭をコツンと叩いた。
「何、するんだよ? いたぁ~」
 痛さを大袈裟に表現しようと、顔をしかめて両手で頭を庇う仕種を見せる細道。
「フッフフフ」
 由実は、そんな彼を見て、可笑しそうにクスクス笑う。

 顔を合わせるたびに、夫婦漫才みたいなやり取りをして、ふたりの仲は縮まっていった。
 由実は、細道より五歳年上。若くして結婚したが、夫とは離婚して、ひとりで小さな子供を育てている。
 ただ……。許されない結婚だったらしく、両親とは疎遠になっている。
 交際を申し込んだのは、細道のほう。それに対して由実は……。
「●月●日までに退院したら、デートしてあげる」
 そう返した。細道は、嬉しそうな笑顔で訴える。
「デートスポット、選んでおいて」

 約束の日よりも早く退院して、デートを実現させた細道。他人の関係でなくなるまで、それほど日数は掛からなかった。
「まだ、駄目よ。もうちょっと、待って。お願いだから」
 不安そうな表情と口調で、細道を諭す由実。結婚を前提としてのお付き合いの挨拶を、両親にしたい。そう細道が、訴えたのである。
 しかし……。細道は、どうしても……と引き下がらない。その結果が、これである。

 ろくでもない男と結婚して、離婚という目に遭った由実。今度は、こんな若造を連れてきた。そう親の目に映っても当然である。
 細道自身……。若輩者と罵られるのは、覚悟していた。彼が、怒りを覚えたのは……。
「何処の馬の骨とも分からない若造が、娘と結婚……だと? ふざけるのも、いい加減にしろ!」
 いきなり、父親にそんな罵声を浴びせられたことである。
「これで、身を退いてくれ」
 由実の父親が、テーブルの上に一万円札の束を三つ置いた。
「これは?」
 訝しげな表情で訊いた細道に、由実の父親は嘲りの口調で返す。
「分からないのか? 手切れ金だよ」
 その言葉に、細道は冷めた表情と口調で否定する。
「手切れ金? 違うな。あんたが俺の前に置いたのは、賄賂だ。嫌がる由実に、俺がしつこく付きまとった。そう言う話に、しておきたいんだろ? そんな金を喜んで受け取るほど、俺は堕ちていない」
 それだけ言った細道が、無言でリビングをあとにした。
「待って!」
 外に出た細道が、由実に呼ばれて足を止めた。振り向いた細道と対峙した彼女。何か言いたそうだが、それを戸惑ってい様子である。
「楽しかったよ。夢をみせてくれて、感謝するよ」
 そんな捨て台詞を残し、何か言いたそうな由実を無視して、細道は足早に歩き出した。

「あっ! し……、しまった!」
 独り暮らしのマンションに帰ってきた細道。玄関の前に立ち、一張羅の背広のポケットに手を入れて、絶望の表情を見せる。玄関の鍵が、無いのである。合鍵はあるが、それはドアの向こう。
 どこかで、落としたのかな? 何て日なんだ? まったく!
 八つ当たりなのか。ドアを思い切り蹴った細道。
「こらっ! 近所迷よ」
 その言葉に、ハッと階段のほうに視線を向けた。大きなバッグを両手で持った由実が、階段から上がって姿を見せたのである。
「忘れ物。玄関に、落ちていたわよ」
 歩み寄った由実が、呆れ顔でそう言いながらバッグを置いて、細道にカードキーを差し出した。
「ゆ……、由実さん」
 唖然とする細道に、由実は笑顔で言う。
「親に言われて、あなたとの仲を反古にする。私も、そこまで堕ちていないわよ」 
「由実さん」 
 嬉しそうに名前を言った細道に、彼女は笑顔で続ける。
「夢を見させてくれて、ありがとう。そう言ったわよね? じゃあ。今度は、あなたが夢を見させて。たとえ、悪夢でも……ね」
 由実の言葉に、細道は子供みたいに怒って返す。
「ば……、馬鹿にするな!」
 

3/8/2023, 12:50:46 PM