「ずっと戦場で育ってきたあなたが、すぐに普通の生活をするのは、難しいでしょう」
普通の生活とは、どんなものだろうか。
目の前の医者は、俺のことを保健所の犬を見るような瞳で見つめている。
「そうですか」
普通、こういうとき人は苛々するか、もしくは傷ついたりするのだろう。
しかし、長年人の血を見て分厚くなったハートはぴくりとも揺れ動きはしなかった。
どんなことにも鈍感なのが、自分の長所だということは、最近になってやっとわかってきた。
「ですから、ブログや日記を書くことは必ずあなたの助けになるはずです」
医者は、俺の薄過ぎる反応に手応えを感じなかったせいか、どこか慌てているようにも見えた。
俺の言動には、どうやら相手をあせらせるような性質があるらしく、こういう状況は今までにも何度もあった。
俺はやや間を置いて、答える。
「普通の生活を手に入れるのは・・・尊いことですか」
「少なくとも、あなたが社会に復帰するためには、役に立つでしょう」
俯いた俺の視線はずっと、リノリウムの床をとらえているようで、なにも見てはいなかった。
それからは、俺の考えることは『普通の生活とはなんなのか』の一つに集約された。
もともと、一つ以上のことを同時にやるのは得意ではなかった。
というか、俺は基本的に家事も、社会性を強要されるようなことも、得意ではないし、これといった能力も特技もない。
戦うこと以外は。
壊すこと以外知らないし、別に知りたくもない。
洗濯物を狭いベランダに干していると、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、隣の号室に住んでいる女だった。
名前は忘れた。
戦場にいた頃は、明日死ぬかもしれない奴の名前を覚えても無意味だった。
よく知っている奴が死ぬのを、他の奴らは悲しんでいた。
人は、そいつに関わる情報が増えるとなんとなくナイーブになるんだろう。
「あの、隣に住んでいる須川です・・・」
そうだ、思い出した。
須川幹子だ。
須川幹子は、おどおどと、挨拶をすると、一言、
「お宅の台所を貸していただけないでしょうか」
と言った。
夕飯を作ろうとしたら、キッチンのガスコンロが故障していることに気づいたらしい。
俺はほとんど自炊しないので、別に台所を貸すくらいどうということもなかった。
俺があっさり承諾すると、須川幹子は、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに材料を持ちこみ、俺の部屋のまったく使われた痕跡のない小綺麗なガスコンロに鍋をのせ、器用に野菜や肉を調理し始めた。
俺は壁に寄りかかって、出来上がっていく料理をぼんやりと見つめていた。
出来上がったのはカレーだった。
須川幹子は、殊勝にも、台所を貸してくれたお礼に、とカレーをお裾分けして帰っていった。
俺は久しぶりにコンビニの弁当以外の料理を口にした。
きちんと、人の手を通して作られたもの。
カレーは、甘口で、りんごのようなチョコレートのようなまろやかさがあった。
そういえば昔、死んでいった仲間の一人にカレーが好きな奴がいた。
俺とアイツは友達だったのだろうか。
少なくとも今思い出すくらいには大きい存在なのかもしれない。
俺は、須川幹子に、漠然とだが、普通の生活というものを教えられた気がした。
今度は、自分でカレーを作ってみようとも思った。
「おかえり、ママ。ご飯出来てるよ」
「あー、ありがとう日奈子〜もう、また会社で会議が長引いちゃって・・・ったく、ほんっっと使えないんだからあの新人、空気読めよー」
お母さんは、いつも仕事から疲れて帰ってくる。
だからわたしがお母さんのために、美味しいご飯を作ってあげなくちゃならない。
お母さんが、塩をかけようと乗り出したわたしの間を勢いよく通り過ぎたので、危うくコロッケが地獄を見るところだった。
お母さんは、冷蔵庫からチューハイを取り出すと、テーブルにつく前にすぐに缶をあけた。
「もう、飲まなきゃやってらんないわ」
わたしは、すこし遅れて席に着くと、手を合わせた。
「いただきます」
「ほんとよくできた娘ねーアンタは。つくっといて良かった」
「あぁ、えへへ、コロッケどう?ちょっとしょっぱくしすぎちゃったかも」
「そう?おいしいおいしい」
お母さんはチーズが好きだから、コロッケに入れてみたんだけど、気づかない、よね。
わたしとお母さんは、お父さんと離婚してからは、ずっと二人暮らし。
たくさん働いて、大学にも行かせてくれるつもりのお母さんには、とても感謝している。
なのに、こんな気持ちになるのはなぜなんだろう。
「それ、毒親じゃない?」
お昼休み、卵焼きをつつきながら、友達の美晴は、わたしの話にそう答えた。
「え?」
どうして?
「ど、毒親っていうのは、虐待とか、子どもに過剰な期待をしたりとか、でしょ?うちのお母さんはちが」
「毒親って、別に珍しくもなんともないよ。世の中の親全員毒親とかいう話もあるけど、究極はそうでしょ。自分の子どもが結局一番かわいい。かわいい子には、幸せになってほしい、つまり自分の思う通りに生きてほしいってこと。それってれっきとした病気だよ」
「病気なんて、そんな」
「部外者だし、あたしは子ども育てたことなんかないよ。もちろん、まだ高校生だもん。ただ、友達としてひとつ言っておくよ」
わたしは、いつになく真剣な美晴の目に、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「会社の愚痴に、日奈子は関係ない。大人の愚痴は大人に聞いてもらいな」
わたしは、今までなんとなくお父さんが嫌いだった。
給料は高くないし、無神経だし、休日は昼まで寝てるし・・・
あれ?でも、
これって全部お母さんに言われたことじゃない?
わたし自身は、思い返してみれば、お父さんに直接嫌なことをされた記憶はない。
家にいる時間が少なかったのもあるかもしれないけど・・・
わたしは、学校の帰り、反対の電車に乗った。
なんとなく、真っ直ぐ家に帰るのが苦痛だったのだ。
見慣れない車窓からの風景に、小さい頃の記憶が重なる。
お父さんと二人で行った遊園地。
初めて乗ったメリーゴーランドという乗り物。
「わぁ!楽しい!」
わたしが楽しそうな姿を見て、お父さんはただ、目を細めて笑っているだけだった。
日々の生活に追われている中、忘れていたけれど、ちゃんと思い出せた。
「なんだ、わたし、お父さんのこと好きじゃん」
同時に後から後から勝手に涙が溢れてきて止まらなかった。
「好きで・・・いいんだ。わたしは、お父さんのこと。お母さんに引け目なんて感じなくていい」
あの日、お母さんとお父さんが離婚して、わたしの中
のメリーゴーランドは一度止まってしまったんだろう。
わたしは、お父さんもお母さんも、二人とも大好きなのだから。
俺は完璧だ。
自分で言うのもアレだけど、大抵のことはすこし努力すれば一番になれるし、イケメンだし、何より家は超がつくほどの金持ち。
しかし、そんな俺にも唯一手に入れることができないものがあった・・・
隣の席の馬場祥子。
決して美人とは言えない顔立ち、勉強も運動も総じて普通。
とりたてて特徴らしい個性はない。
ただ、ひとつ彼女が他と違っていたのは、そう、女子の中で唯一、俺に興味を示さない所だ。
今まで金目当てで近寄って来る女はそれ相応にいたし、そうでなくとも、俺は見た目も性格も完璧なので、大抵の女子は好きとまでいかなくとも、俺に対して何らかの好悪感情を持っているものだった。
目を見ればわかる。
好奇の目、嫉妬の目、イケメンは苦手だ、と、逆に俺に敵意の目を向ける者もいたな。
俺は生まれたときから様々な視線に晒されて生きてきた。
数多の中、馬場の目は俺を恐れるでもなく、敵視するでもなく、媚びることもしなかった。
ただ、俺の隣の席にいて、挨拶と、ちょっとした日常会話だけをしていた。
これは俺にとって今までにない経験で、そんなただ、隣にいてくれているだけの馬場に、俺は少しずつ揺れていた。
全てを持つ俺でも、恋愛感情がどんなものかは知らなかった。
沢山の人に囲まれていても、特定の誰かに心が動くことはほとんど無かったのだ。
しかし、知ってしまった。
本当の恋というものは、その安っぽい響きに似合わず、俺の想像よりはるかに重たいものだった。
こんな不毛な思いをするなんて、俺らしくない、そう思いながらも心はずっと隣の席の方を向いていた。
そんな馬場にアピールをし続けてはや一ヶ月が経つが、これが驚くほどに何の手応えも無いのだ。
お昼休み、屋上で弁当を親友の智春とつつきながら、俺はうめいていた。
「くっ!馬場の奴め、いくら俺のかっこよすぎる所を見てもまったくときめいている気配が無い・・・しかも、欲しいものがあるなら何でも買ってやるっつったら、『なにもいらない』とか言うんだよ。欲しいものぐらいあるだろ。女子高生なら特に、リップとか?パフェとか?」
俺が愚痴り終えると、智春は緩慢な動作で箸を置いた。
「でも、征也は馬場さんのそういうところが好きなんじゃないの?」
「え」
俺は目を瞬かせた。
「馬場さんはさ、要するにお前が勉強できるとか見た目がいいとか金があるとか、そういう表面的なことを見てるんじゃなくて、お前自身を見てるんだよ、きっと」
「俺自身を・・・?」
そんなことに意味なんてあるのか?
もし俺が勉強ができない、イケメンじゃない、金持ちでもない、普通の男子高校生だったら・・・
それでも、馬場は俺に話しかけてくれるのか?
「征也は、今までそういう表面的なステータスで勝負してきたから、それが通用しない馬場さんという存在が魅力的で、かつ最大の謎だと思ってるんじゃない?」
「謎・・・」
智春は、たまに恐ろしく鋭いことを言う。
俺はそんなこいつを心底信頼している。
「まぁ、いい機会じゃない?征也が自分に自信を持てるようになるには」
「自信〜?何言ってんだよ、俺ほど自信に満ち溢れた存在はいないぞ?」
「なら、さっさと告白してくればー」
ぐ、こいつ・・・本当に容赦がないな・・・
俺は、今までずっと自分を完璧だと思っていた。
十七歳の春、その確信は少しずつ、少しずつ、アスファルトの上の雪のように、崩れ始めていた。
「はぁ、はぁ」
立ち止まって、息を整える。
薄暗い路地裏は、わたしの乱れた呼吸の音以外には、満月の光がひんやりと降り注いでいるだけだった。
「なんとか巻いたかな・・・」
懐を探ると、出てきたのは控えめな装飾が施された短剣。
王宮からこれを盗み出して二日が経った。
後は亡命の手筈さえ整えば、というところまで来た。
「これさえあれば・・・この剣の力さえあれば」
この剣は、ただの短剣ではない。
知る者こそ少ないが、この剣は遥か昔、この王国の王が神々から与えられた、魔剣だ。
王国の千年をこえる歴史が紡いできた叡智が魔式としてこの小さな剣に刻み込まれているのだ。
この剣さえあれば、幾億の星々を支配することも、巨万の富も思うがままだ。
でも、わたしにはそのどれも興味がない。
わたしはただ、もう一度妹や、母さんたちと一緒に暮らせるようになりたい。
「この世界は間違ってる・・・突然隣国が介入してきたせいで、内乱まで起きて・・・国が分裂して、突然母さんや、シャーニア・・・妹にも会えなくなって・・・この世界は呪われてるんだわ」
愛する家族と共に笑って暮らせないのなら、そんなものが平和と言うのなら、わたしは、たとえ化け物に成り果てたとしても家族を守りたかった。
「お願い、剣よ、所有者の命に応えよ」
短剣で切りつけた親指から血が滴る。
その血液が一滴、また一滴と落ちると、突然夜闇を切り裂くような光にあたり一帯が包まれる。
「わ!」
“誰だ 我を呼び起こす 理知らずの愚か者は”
男とも女ともつかない声。
目の前に現れたのは、月夜に照らされ輝く白金色の髪、短剣と同じ斑模様が編まれた長い聖衣をまとった存在だった。
神、というよりは医者のように見える。
仮面をかぶっているため、顔は窺い知れないが、もし顔が見えたとしても、その心中を推し量ることはできないだろう。
そう思わせる、人間のような感情を持たない別種の生き物の雰囲気が漂っている。
なるほど、神というのは案外、人間より欠けた存在なのかもしれない。
勉強以外のことは基本的になんでも楽しい。
そして、嫌なことがあっても仲間と笑い合えば大抵忘れる。
突然泣きたくなって、次の瞬間おかしくて仕方ない。
高校生とはそういうものだ。
「卒業写真、一緒に撮ろうよ」
「あー、わたしもその変なコスプレみたいなのしなきゃダメ?」
「「「だめー!」」」
「ハイこれ、美優は猫耳ね」
「うーごーかーなーい」
桜は不思議だ。
今年は無理かも、とちょうど思ったタイミングで満開に咲き誇る。
もう無理かも、と諦める直前のわたしたちの背をそっと押すように。
「また、桜?」
よく通る声の方を振り返ると、卒業証書を肩にかつぐようにして持っている由香里の姿があった。
「「「「ゆかり!」」」」
わたしはその姿を見て、ちょっと涙ぐんだ。
由香里は、元不登校気味の生徒で、わたしたちと一緒にいるようになったのは、高二の四月のときだった。
昼休みから登校してきた由香里とわたしは、桜を見上げていた。
「なんでそんなに好きなの?桜」
このときの由香里はまだすこし、ぶっきらぼうだ。
「え?綺麗じゃん。わたし、中学までアメリカにいたから、高一のとき日本に初めてやって来て、こんっっなキレーなものがあるんだって知って・・・」
「きれいだけど、その分散ったときの惨めさ激しくない?こっちが悲しくなるぐらいだわ」
「・・・でも、桜は来年もまた咲いてくれるでしょ?自分がいつか散るって知ってても・・・それってすごく、日本語でこういうの、何て言うんだろ。noble・・・」
「気高い?」
「っそう!それ!後、ちょっと由香里っぽい。誰に何言われても、学校は行かない!嫌いだから!って感じが」
「はぁ!?」
由香里は怒るとよく、わたしのほっぺをつねる。
「いたたたたー」
由香里はそれから、ぎりぎり卒業できるくらいの出席日数を確保し、無事にわたしたちと一緒に卒業できた。
大学は、わたしとは違うけど。
春が来ると、桜を見ると、わたしは必ず思い出すんだろう。
「撮るよー3・2・1」
カシャ
「ちょっとなんで目つむんの!?」
「あはは」
「由香里もっと寄んないと画角入んないよー」
「写らない作戦だろ!」
「バレたか」
「あんたはブレすぎ」