「今一番困っていること、相談したい内容をお書きください」
私は問診票を書いてる途中、このような質問を目にし、手が止まった。本当は、沢山ある。しかし、こう言われると何を書けば良いのか分からなくなる。けれど、一瞬深呼吸をしてから、慣れた手つきで私はこう書いた。
「私は、存在する理由が分かりません」
もう慣れたものだ。何回も通院する病院を変え、その度に同じ言葉を書き続けてきたのだから。ペンを持つ手も、心の中の虚無感も、何も変わらない。今までの病院は、私のこの心を完全には理解してくれなかった。だから何度も何度も、場所を変えた。それでも、私が求めてる答えは未だに見つからないままだった。
……ここは、どうだろうか、と思いつつ問診票に最後まで目を通した瞬間だった。目に飛び込んできたのは、これまでの病院で見たことのない、奇妙な質問だった。
「2分間だけ亡くなることができる薬を希望しますか?」
「失礼ですが、いくらならあなたの名前を私に売ってくれますでしょうか?」
この雑踏の中、突然一際目立つ小汚い男が話しかけてきた。
「何言ってるんです、貴方は。いくらだって売りませんよ」
私は露骨に怪訝な顔をし、答えた。なぜなら私はこのような小汚い男が大嫌いだからである。しかも名前を売ってくれだと?この私に対して、あまりにも無礼だ。心の中で何度も男を罵る。そうしていると、この男は洗ってないと見られるコートの中から、のそのそとお金を取りだした。
「あなたの名前はきっと高く売れる。何がなんでも、手に入れたいんです、お願いしますどうか」
懇願する男の手に握られている紙幣に視線を移す。私はまたムッとした。なんてくしゃくしゃで汚い紙幣なんだ。こんなもの、誰が受け取ってやるものか。
「いえ。名前は大切な親がつけてくれたもので、売るためにある訳じゃないので」
私は丁寧に、(だからさっさとその汚い紙幣を引っ込めて、私の目の前から消えてくれ)という意味を込めて言った。
「なるほど、立派なお考えだ」
男は一瞬頷いたかと思うと、口元に奇妙な笑みを浮かべてこう言った。
「しかし、だがね、名前はそんな純粋なものではないですよ。特にあなたのお名前はね」
妙に癖のある男の口調に煽られ、私はつい苛立った。
「は、どういう意味です」
また男は奇妙な笑みを見せる。不気味で、腹が立つ顔をしていて……なんて……なんて……私の神経を逆撫でする男なんだ。しかし次の瞬間、男の口から衝撃の言葉が伝えられた。
「あなたの名前は、もう何度も使い古されてる中古品なんですよ」
「……何、言ってるんですか」
私は苛立ちながら問い返した。けれど、その苛立ちの裏には妙な不安が潜んでいる。
「かつて、何人もの人間がその名前を使い、同じように生きてきた。その度に、名前には彼らの業や記憶が染み付いていく」
男は口早に続けて言う。
「そうすると、どんどんとこの名前を使うものは性格が歪んでいく。周りから人が離れ、最終的にみんな同じ最後を迎えるのです。さて、聞きますが。まだ名前を売ってくださらないのですか?」
惨夢
この惨めなものを見よ、この地面に散らばっているものの姿。彼は愚かである。全ては自分のせいだと言うのに。
彼はただ求めていたのだろう。誰かに愛されることを、誰かに必要とされることを。なんて惨めなのであろうか。彼の最期は、私しか知らない。
一人孤独に、大量の酒を飲みながら誰もいない空間で、声が出るのを抑えるために血が出る程唇をギュッと噛み締め、ボロボロと泣いて、何度も泣いて。それでも、時折抑えられず小さく声が漏れた。肩はとても惨めな程に震えていた。彼は「悲しい悲しい、苦しいもの、早くこれを消し去りたいんだ」と誰かに届くわけでもないのに一人呟いていた。「私はもっと、人の、役に立てる程、頭が良ければ良かったんだ、私は何も、何も、出来ない」
___彼は母から小さい頃からずっと「何も出来ない子」「将来役に立たない子」と言われるのが常であった。
彼はそう言うとまたボロボロと声を抑えて泣き始めた。__彼が大声をだして泣かなくなったのも、母に泣く度に怒られ続けたからである。
もう時計は23時。一通り泣き終えた後、今までつけてなかったテレビを付け、たまたま映っていたバラエティ番組を見ていた。すると今度は、笑いながら泣いた。面白くて泣いたのではない。こうして、笑いで人を幸せにできるもの、もっと言えば努力しているものを羨み、己との差を無意識に比較し、自分自身でそれが理解してないから感情が混乱し、笑い、そして泣いたのだ。「なあ……私も……努力なんて、大層なことできるのかなあ」もう既に大量の酒を飲んでたため、その目はぼんやりとし、口は震えていた。笑い声とともに、涙を流す彼は異様だ。惨めなもの、なのだろう。彼はまた数時間と泣いた。「母よ、せめてあなたが愛してくれれば!!私は!!もっと……」
深呼吸してから再び彼は「もっと頑張れば、私が頑張れば、私の、欲しいものは手に入れられたのか?」と一人虚しく呟いた。彼はもう既に限界だ。ここで、彼は遂に机の真ん中にある瓶の中にある白い薬に目線を向けた。ただの睡眠薬だが、大量摂取すれば、死に至る可能性だってある。それを分かっていた。__むしろ、望んでいた。
「私は、きっと、惨めだ」
自己否定。自己嫌悪。無価値感。彼は全てが哀れで、惨めで、情けなくて、しかし、生きようとしていたのに。それももう、諦めてしまった。
震えた手で薬を手に取る。ずっと泣いていたのに、この時だけは、穏やかな顔をしていたような気がする。
瓶から、ゆっくりと1、2、3……と薬を取り出す。
「母よ……どうして、あんな言葉を言ったのですか?私は未だに、取り憑かれてます、みんなからそう思われてるのではないかと、思ってしまいます」
その場にいない母に、彼は必死に問いかけた。
そして___どうやら、準備は出来たみたいだった。彼は考えもなしに、勢いに任せ酒で乱暴に薬を飲み込んでいった。
__24時。当然、意識は混濁してくる。ふわふわとした感覚が、少しの間だけくる。それが心地よい。しかしそれも時間が経ち、尋常じゃないほどの吐き気に襲われる。なのに、彼は笑顔だった。今までで一番、綺麗な笑顔だった。「あははあ……し……あわ……せです、かみさま、……しあわせ……こういうこと……ですか?」
呂律の回らない状態で、言った。
すると彼は立ち上がり、ベランダへと飛び出していった。平衡感覚なんてもうほとんどないのに。手すりに手をつけてから、ぐいっと頭を手すりより前に持ってく。これが、彼の最後の言葉になった。
「私、幸せ、やっぱり分かりません!愛が、愛、ほしい、欲しかったです!みなさん。さようなら」
また最後に彼は泣いた。今度は声を我慢せずに。
___この惨めなものを見よ、この地面に散らばっているものの姿。彼は愚かである。全ては自分から動けなかった自分のせいだと言うのに。
しかし、私は彼を__助けたかった。
ある日、街から音が消えた。秋の風に身を任せるように葉が優雅に舞散り、普通ならば地面に落ちればカサカサと音を立てる。しかし今はただ虚しく、音もなく地面に降り積もるだけだった。まるでサイレント映画の中にいるような、奇妙な感覚だった。音を求め街を歩く。思いっきり足を上げ、ドンと地面に叩きつけるように踏み下ろしてみた。当然、音はない。暫く歩いていると、壁のようなものにぶつかった。___その先には次へ進むための道はない。フィルムが途切れていた。
人が苦しむ姿を見るのがたまらなく嫌だ。それは、私自身の惨めさを浮き彫りにされるからだ。その痛みがまるで鏡のように、私の薄っぺらい人生を映し出す。私の足りない努力と退屈な日常が、他人の不幸の中で無言のうちに裁かれているような気がしてならないのだ。あぁ、悔しい。惨めだ。私の人生の中で、1番の幸福は死なのだろうか。そう思った瞬間も、ただ薄っぺらく、ただ空虚でどこか嘘くさい。私は何もない。人は苦しみ、努力し、乗り越えていく。だが、私にはその苦しみも努力も乗り越えるべき何かさえない。
だからこそ、眩しいほどに羨ましい。