惨夢
この惨めなものを見よ、この地面に散らばっているものの姿。彼は愚かである。全ては自分のせいだと言うのに。
彼はただ求めていたのだろう。誰かに愛されることを、誰かに必要とされることを。なんて惨めなのであろうか。彼の最期は、私しか知らない。
一人孤独に、大量の酒を飲みながら誰もいない空間で、声が出るのを抑えるために血が出る程唇をギュッと噛み締め、ボロボロと泣いて、何度も泣いて。それでも、時折抑えられず小さく声が漏れた。肩はとても惨めな程に震えていた。彼は「悲しい悲しい、苦しいもの、早くこれを消し去りたいんだ」と誰かに届くわけでもないのに一人呟いていた。「私はもっと、人の、役に立てる程、頭が良ければ良かったんだ、私は何も、何も、出来ない」
___彼は母から小さい頃からずっと「何も出来ない子」「将来役に立たない子」と言われるのが常であった。
彼はそう言うとまたボロボロと声を抑えて泣き始めた。__彼が大声をだして泣かなくなったのも、母に泣く度に怒られ続けたからである。
もう時計は23時。一通り泣き終えた後、今までつけてなかったテレビを付け、たまたま映っていたバラエティ番組を見ていた。すると今度は、笑いながら泣いた。面白くて泣いたのではない。こうして、笑いで人を幸せにできるもの、もっと言えば努力しているものを羨み、己との差を無意識に比較し、自分自身でそれが理解してないから感情が混乱し、笑い、そして泣いたのだ。「なあ……私も……努力なんて、大層なことできるのかなあ」もう既に大量の酒を飲んでたため、その目はぼんやりとし、口は震えていた。笑い声とともに、涙を流す彼は異様だ。惨めなもの、なのだろう。彼はまた数時間と泣いた。「母よ、せめてあなたが愛してくれれば!!私は!!もっと……」
深呼吸してから再び彼は「もっと頑張れば、私が頑張れば、私の、欲しいものは手に入れられたのか?」と一人虚しく呟いた。彼はもう既に限界だ。ここで、彼は遂に机の真ん中にある瓶の中にある白い薬に目線を向けた。ただの睡眠薬だが、大量摂取すれば、死に至る可能性だってある。それを分かっていた。__むしろ、望んでいた。
「私は、きっと、惨めだ」
自己否定。自己嫌悪。無価値感。彼は全てが哀れで、惨めで、情けなくて、しかし、生きようとしていたのに。それももう、諦めてしまった。
震えた手で薬を手に取る。ずっと泣いていたのに、この時だけは、穏やかな顔をしていたような気がする。
瓶から、ゆっくりと1、2、3……と薬を取り出す。
「母よ……どうして、あんな言葉を言ったのですか?私は未だに、取り憑かれてます、みんなからそう思われてるのではないかと、思ってしまいます」
その場にいない母に、彼は必死に問いかけた。
そして___どうやら、準備は出来たみたいだった。彼は考えもなしに、勢いに任せ酒で乱暴に薬を飲み込んでいった。
__24時。当然、意識は混濁してくる。ふわふわとした感覚が、少しの間だけくる。それが心地よい。しかしそれも時間が経ち、尋常じゃないほどの吐き気に襲われる。なのに、彼は笑顔だった。今までで一番、綺麗な笑顔だった。「あははあ……し……あわ……せです、かみさま、……しあわせ……こういうこと……ですか?」
呂律の回らない状態で、言った。
すると彼は立ち上がり、ベランダへと飛び出していった。平衡感覚なんてもうほとんどないのに。手すりに手をつけてから、ぐいっと頭を手すりより前に持ってく。これが、彼の最後の言葉になった。
「私、幸せ、やっぱり分かりません!愛が、愛、ほしい、欲しかったです!みなさん。さようなら」
また最後に彼は泣いた。今度は声を我慢せずに。
___この惨めなものを見よ、この地面に散らばっているものの姿。彼は愚かである。全ては自分から動けなかった自分のせいだと言うのに。
しかし、私は彼を__助けたかった。
ある日、街から音が消えた。秋の風に身を任せるように葉が優雅に舞散り、普通ならば地面に落ちればカサカサと音を立てる。しかし今はただ虚しく、音もなく地面に降り積もるだけだった。まるでサイレント映画の中にいるような、奇妙な感覚だった。音を求め街を歩く。思いっきり足を上げ、ドンと地面に叩きつけるように踏み下ろしてみた。当然、音はない。暫く歩いていると、壁のようなものにぶつかった。___その先には次へ進むための道はない。フィルムが途切れていた。
人が苦しむ姿を見るのがたまらなく嫌だ。それは、私自身の惨めさを浮き彫りにされるからだ。その痛みがまるで鏡のように、私の薄っぺらい人生を映し出す。私の足りない努力と退屈な日常が、他人の不幸の中で無言のうちに裁かれているような気がしてならないのだ。あぁ、悔しい。惨めだ。私の人生の中で、1番の幸福は死なのだろうか。そう思った瞬間も、ただ薄っぺらく、ただ空虚でどこか嘘くさい。私は何もない。人は苦しみ、努力し、乗り越えていく。だが、私にはその苦しみも努力も乗り越えるべき何かさえない。
だからこそ、眩しいほどに羨ましい。
距離
月は遠い。しかし、唯一近づける日がある。それは、満月の日。私は窓を開け月を誘い込む。壁に映る淡い輪郭。私はそれを手でなぞり、妙な感覚が指先を駆け抜ける。まるで月と一体化したような感覚に息が少しだけ浅くなる。
月は何も拒まない。揺れるカーテンの隙間から、光の滴が床を塗らし、冷たい抱擁で私を包み込む。言葉もなく、ただそこにいるだけで月は私の孤独をそっと溶かしていく。
私は頭が悪い。私の頭の中は、地図をなくした旅人のように、ずっと彷徨い続けている。酔生夢死__もし私の人生を一言で言い表すならば、これほどぴったりな言葉はない。何も成せず、死を待つだけの人生。
論理的な思考は苦手だ。難しいことを考えようとすると、忽ち霧が立ち込めるように頭の中は真っ白になり、思考の道筋が途絶えてしまう。何度も悔しくて泣いた。でも、私は馬鹿だからそれの解決策を探るどころか、ただ怒りという感情だけが先に湧いてくる。いつもいつも人と比べてしまう。それでも、どうすればいいかなんて分からない。悔しい、ただ私は他の人と同じになりたいのに。私はどうすればいいのだろうか___何度も何度も途切れ途切れになりながら考えた。それでも結局は、同じ考えに辿り着く。生きるか、死ぬか__それしかない。
あぁ、頭が良ければ、世界は違って見えたのだろうか。幸福すら、頭の良さがなければ手に入らないのだろう。……分からない。何の役にも立たないこの私は、常に罪悪感、焦燥感で苛まれ、ただ無為に時を消費するだけの存在だ。……いや、きっともっとこの私の感情を的確に表現する言葉があるのだろう、しかし私にはこれが限界なのである。ぼんやりと書きたいものが消えていく。
__さようなら。私の言葉。