思牢(しろう)
「思考の枷は日に日に重く、魂は次第に沈みゆく。ワタクシは囚われ肉体にあらず。思考の牢獄、自身の思に囚われ幾度も巡る問いの数々。……先生、ワタクシ、不安ですの。」
以前、そんなことを言ってきた患者がいた。彼女は、自身の思考に囚われていると言うのだ。彼女はそれをこう言っていた。思考の牢獄で、思牢。
彼女は、時々私に「ワタクシ、また囚われてますの。……今度は、“昨日”の思考に。」と言ってきていた。そういう日は、大抵紙とペンを持ってきて、日が暮れるまで紙に昨日の思考を__というより、昨日の記憶の中の思考を書いていた。字は小さく、細く、隙間なく詰められていて、ガタガタな字で、支離滅裂な内容を書き連ねていた。それは本当に奇妙な、不気味なもので、数字が羅列され、哲学的な言葉が一部引用され、唐突に花言葉が挿入されていた。決まって書き終わると彼女は、唐突に眉間に皺を寄せ、切羽詰まったような表情になる。そうなると、必ず「昨日のアタクシは嘘をついている。これは、ワタクシなんかじゃない。」という言葉を今まで書いた文字の上に、大きく太く書くのだ。
毎回、その後の彼女はとても穏やかな表情になる。それで、こう言うのだ。
「これでやっと、今日のワタクシを取り戻せましたの。昨日の嘘つきは、もういないのですからね」と。
その後は、ベッドに横になり、満足気に深い眠りに入る。
私は、彼女が常に悩みの種だった。到底、私には理解できないことだと思っていたから。
けれど。違かったのかもしれないと、真っ白で気がおかしくなりそうな天井を見つめながらそう思った
保健室にはAくんがいる。教室には来ない。クラスの奴らはAくんのことを「関わったら頭がおかしくなる」と言っていた。だから、Aくんがいる保健室には誰も近づこうとしない。だから保健室は実質“隔離部屋”。
けれど、僕は今そこにいる。体育の授業の最中に転んで、足を怪我してしまったからだ。ベッドの隣には噂のAくん。寝返りもせず、天井だけを見ている。僕はすることもないので、退屈しのぎに、ぼんやりとその横顔を眺めていた。
「……人は生きてても楽しいのだろうか?」
不意に、Aくんが喋った。声は驚くほど静か。それでいて、どこか深く冷たいところに触れるようだった。僕の返事も待たず、続けざまにこう言う。
「いいかい。君。悪いことをしたやつは、死んだら地獄に堕ちる、なんて言われているだろう?だがね、それは違う。この、この世界が既に地獄なのだ。我々は地獄に生きている。死ぬことは、むしろ脱出だ。」
非常に奇天烈なことを言い始めた。なるほど。確かに噂通りの人だ、と思った。でも、それだけじゃなかった。彼の言葉に、僕は共感出来てしまう。まるで今までどこか思っていたモヤモヤを、勝手に代弁されたような気持ちになって、何だか腹が立った。
「ふーん。君はそういうことを考えるのが好きなのか?」
彼を小馬鹿にしたような言い方をしてみる。ほんの少しでも彼を揺さぶってみたくなった。けれど、彼が動じることはなかった。
「はっ。君もそうは思わないか?戦争、病気、鬱、孤独、差別、貧困、家庭崩壊……他にもまだまだある。そんな世界が地獄じゃないと、本気でそう思ってるなら、その方がおかしいと思わないか?人なんてね、そもそも何か目的を持って生まれたわけじゃない。希望?使命?馬鹿か?そんなもの、存在しない。これは罰だ。アダムとイブの犯した罪を、再び私達が“代わりに”償わなくてはならないのだよ。」
彼は表情一つ変えずに、そう言いきってしまう。やはり、彼はおかしい、のかもしれない。
僕は何も言い返せず、暫く黙りこくる。その沈黙を破ったのは、彼の大きな声だった。「日頃を何も考えずに幸せに生きられる人々!嗚呼、なんと哀れなこと!なんと愚かなこと!あなた方はまだ気づけていない……早くその幸せは偽物と、気づきなさい!地獄はここだ。君たちはもう、とっくに堕ちている。」
僕は絶句した。人と会話をする気がないのだ。彼は。それに、先程からずっと、恍惚な表情を浮かべ、何かに酔ってるかのように両手を大きく広げ、顔は天井を見つめている。クラスの子達が言っていたことは間違ってないと確信した。
「では。質問しよう。君。君は人と付き合ったことがあるかね?」
恍惚な表情のまま、素早く僕の方に視線を向けてくる。彼の行動に圧倒され、僕は答えることしか出来なかった。
「……あった。」
「あった、ということは今は違うのだね?」
僕はあの時のことを思い出し、心臓の鼓動が早くなって。思わず視線を逸らすことも出来ず、何も言えなくなった。そんな様子を見て彼は言う。
「気にする事はない。この世は地獄だ。辛い感情も、君のせいじゃない。分かるかね……?人が感じる、胸の締め付けられるような苦しさだって、全て……。全て罰なのだ……。この世では狂ったものが唯一、正常だ。」
人間の記憶が「データ」として管理されるようになった。そのデータは保存できる容量に限りがあり、そこで政府は「忘却税」という制度を導入し、国民は定期的に記憶を消去しなければならなくなった。人々は月に一度、政府指定の「記憶整理センター」に赴き、不要な記憶を選んで削除することができる。幼少期の些細な記憶、かつては好きだったあの人の記憶、昨日食べたご飯の味___そうした「価値の低い記憶」を消すのが一般的である。辛い記憶は消すことが出来る。だから人々は、口々に言う。「幸せ」だと。
_でも。私は時々思う。本当に幸せなのだろうか?以前の人々はすべての記憶を保持し、辛かったことも、嬉しかったことも、忘れたいことも、全部そのまま抱えて生きていた。そんな彼らは不幸だとでも言うのだろうか。
もし、記憶が私という存在を形作るのなら、私という存在はどこまで「私」でいられるのだろうか?
簡単に悲しみを消せる。簡単に消したいものを消せる。けれど、その悲しみを消して、良い記憶だけを残していったら、それはもう自分じゃないような、チグハグで空っぽな何かになってしまう気がしてしまうのである。
かつて愛したものの記憶を消したら、それは「愛した」と言えるのだろうか……。そんなことを考えてしまうのだ。
もし幸福が、記憶の上に成り立つのだとしたら、私たちは最早本当の意味での幸福を知ることは出来なくなった。
幸せとは、苦しみの不在ではなく、苦しみと共にあるのだとしたら____。私たちは幸福になる度に、幸福を失ってしまっている。
……私は今、絶望を感じた。もうこの記憶は消そうと思う。
ぐる。ぐる。目は天井を真っ直ぐ捉えようとしてるのに、ぐらぐらとして、なかなか捉えられない。ぐる。ぐる。まわる。時計の音しか聞こえないこの静寂に包まれた空間で、ジリジリと焦燥感が迫る。畜生。このロープじゃ、ダメなのか。
「あぁどうして……生きろというのですか」
私はもう限界だった。涙はもうでない程、泣いた。以前から何もない人生だった。幼い頃からどこか心が虚しくて、なにかしようとすればそれを否定され、努力を笑われる。「ほら、だっから言ったじゃない」よく言われた言葉だ。あの怒鳴り声の時の、甲高く不愉快な音も覚えている。時々夢に出てきて、耳元で叫んでくる。その度、私はごめんなさいごめんなさいと謝り続けていた。
この夢は一ヶ月に一度程度だった。しかし、それは段々と増えた。一ヶ月に3回程度から、2週間に一度。遂には3日に一度になっていった。怒られるだけなら、まだ良い。近頃は、他のトラウマも出てくるのだ。それは、父と母の喧嘩で、父は包丁を持ち、もう片方はそれにも関わらず挑発するようにおどけたポーズをしている。そして私はいつでも逃げれるようにと、ドアを少し開けたまま、寒さに耐えずっと待っていた。
(何時間……何時間……耐えればいい?いつ、父は来るのだ?)
そう思った矢先、遂に襲いかかってきた時。私は必死に挑発を続ける母を引っ張って外まで逃げた。もちろん私は裸足で、それで、それで、私は後ろを振り返ると……。
____いつもここで夢は終わる。
私はまた、繰り返す。この夢を
WHO?
2025 年 3 月 3 日
宇宙人は存在する。今の時代、宇宙人を否定する方がおかしいと思わないかい?
さて。 僕は宇宙人だ。だからと言って、 所謂“侵略”なんてする気ないし、 安心して欲しい。
ただの趣味で人間になっているんだ。『若きウェルテルの悩み』って知ってるか?簡単に言
っちゃえば、 主人公が悲劇的な終わりをする物語だ。 私は人間の書いたもので、 初めて感動
したよ。だから僕も真似して親愛なる君へ、 主人公のように書いてみたいと思う。 赤裸々に
ね。
ところで。僕にとっては、感情というのも、
一つの変わった「習慣」だと思ってる。朝起
きて、ご飯を食べる。君たちはそうやって日々を繰り返し、なんとなく毎日を生きている。
感情も、それと同じだと思うんだ。たとえば、君は誰かを失い、悲劇の中、ドラマチックに
泣くとするだろう。でも、それは最初から備わっていなものじゃない。最初の「悲しみ」は
ただの反応だったはずだ。けれど、何度も繰り返すうちに君は「悲しみ方」を覚え、やがて
習慣になる。涙を流し、何かを思いながら、胸を痛ませ、言葉を詰まらせることが、まるで
ルールのようになっていく。 親愛なる友よ、 僕は君の悲しみを真似した。 初めのうちはただ
の模範。何も感じないし、分からなかったが、徐々に僕は本当に悲しみを “感じている”の
かもしれないと思うようになってきた。
じゃあ。今日はここまでとしよう。また明日手
___
紙を送るね。
3 月 4 日
昨日、君が公園のベンチで俯いてるのを見たよ。 それと、 僕が渡した手紙をくしゃくしゃ
にしてゴミ箱に捨ててたのも。君、僕の手紙読んだんだよね?でも無視した。ねえ、僕が今
感じているこれは、 悲しみだと思うんだ。 なんでこんなことをするのか、 知りたくて仕方な
い。でも、これも君にとってはただの習慣なんだろうね。「無視」するという行動も、君の
中ではもう既に習慣化されてるんだ。 覚えているかな、 僕は 3 月 3 日よりも前から、ずっと
君に手紙を渡していたこと。 僕の手紙を無視するのも、きっと何度も繰り返されてきたこと
なのだろう。それは君にとって日常の一部になっている。でも感謝している。 君のおかげで、
僕は悲しいという感情を覚えたんだから。 僕は、 多分人間に近づいていると思う。 君が無視
を繰り返すことで、 僕は人間らしさを感じられる。これは、 君の習慣が僕の中でひとつの学
びとなっているからだろう。
3 月 5 日
「君は、 誰だ?」だって?僕は君の親友の佐藤くんに完全に成り代わったと思っていたの
に。でも、確かに僕は誰なんだろう。僕は宇宙人で、それで、趣味で人間に成り代わってい
る。 なら、 本当の僕はなんなのだ?もしかして、 僕には名前すらなくて、ただの「何か」 ___
。
それは、僕の体験を通して学んだこと、模範してきたこと、そして感情を感じるために積み
重ねてきた「習慣」の集まりに過ぎないのかもしれない。……君。親愛なる君? 僕は分か
らなくなった。