酔生

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保健室にはAくんがいる。教室には来ない。クラスの奴らはAくんのことを「関わったら頭がおかしくなる」と言っていた。だから、Aくんがいる保健室には誰も近づこうとしない。だから保健室は実質“隔離部屋”。
けれど、僕は今そこにいる。体育の授業の最中に転んで、足を怪我してしまったからだ。ベッドの隣には噂のAくん。寝返りもせず、天井だけを見ている。僕はすることもないので、退屈しのぎに、ぼんやりとその横顔を眺めていた。

「……人は生きてても楽しいのだろうか?」
不意に、Aくんが喋った。声は驚くほど静か。それでいて、どこか深く冷たいところに触れるようだった。僕の返事も待たず、続けざまにこう言う。
「いいかい。君。悪いことをしたやつは、死んだら地獄に堕ちる、なんて言われているだろう?だがね、それは違う。この、この世界が既に地獄なのだ。我々は地獄に生きている。死ぬことは、むしろ脱出だ。」
非常に奇天烈なことを言い始めた。なるほど。確かに噂通りの人だ、と思った。でも、それだけじゃなかった。彼の言葉に、僕は共感出来てしまう。まるで今までどこか思っていたモヤモヤを、勝手に代弁されたような気持ちになって、何だか腹が立った。
「ふーん。君はそういうことを考えるのが好きなのか?」
彼を小馬鹿にしたような言い方をしてみる。ほんの少しでも彼を揺さぶってみたくなった。けれど、彼が動じることはなかった。
「はっ。君もそうは思わないか?戦争、病気、鬱、孤独、差別、貧困、家庭崩壊……他にもまだまだある。そんな世界が地獄じゃないと、本気でそう思ってるなら、その方がおかしいと思わないか?人なんてね、そもそも何か目的を持って生まれたわけじゃない。希望?使命?馬鹿か?そんなもの、存在しない。これは罰だ。アダムとイブの犯した罪を、再び私達が“代わりに”償わなくてはならないのだよ。」
彼は表情一つ変えずに、そう言いきってしまう。やはり、彼はおかしい、のかもしれない。
僕は何も言い返せず、暫く黙りこくる。その沈黙を破ったのは、彼の大きな声だった。「日頃を何も考えずに幸せに生きられる人々!嗚呼、なんと哀れなこと!なんと愚かなこと!あなた方はまだ気づけていない……早くその幸せは偽物と、気づきなさい!地獄はここだ。君たちはもう、とっくに堕ちている。」
僕は絶句した。人と会話をする気がないのだ。彼は。それに、先程からずっと、恍惚な表情を浮かべ、何かに酔ってるかのように両手を大きく広げ、顔は天井を見つめている。クラスの子達が言っていたことは間違ってないと確信した。
「では。質問しよう。君。君は人と付き合ったことがあるかね?」
恍惚な表情のまま、素早く僕の方に視線を向けてくる。彼の行動に圧倒され、僕は答えることしか出来なかった。
「……あった。」
「あった、ということは今は違うのだね?」
僕はあの時のことを思い出し、心臓の鼓動が早くなって。思わず視線を逸らすことも出来ず、何も言えなくなった。そんな様子を見て彼は言う。
「気にする事はない。この世は地獄だ。辛い感情も、君のせいじゃない。分かるかね……?人が感じる、胸の締め付けられるような苦しさだって、全て……。全て罰なのだ……。この世では狂ったものが唯一、正常だ。」

4/13/2025, 3:53:34 PM