神奈崎

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4/28/2023, 9:32:57 AM

 律儀にありがとうございます、と告げて乗合馬車を降りるが、辺りは何もない。かろうじて残る轍に沿う形で生える緑は強く、周囲の舗装など勿論されていない。
 頬に触れる空気の瑞々しさに、水源の近くをティティは言葉通り肌で感じるが、それに気付けないベルは外套の内側にしまい込んでいた地図を取り出す。大陸東側の全体図、その中央で色褪せた青が南北に広がる。
「えぇと、スウェー湖を大回りして東、だったよね?」
「そ。……南経由で行くの」
 古びた地図を広げる両手は細く、しかし柔らかかった筈の指先は随分と荒れて固くなった。指摘せず見るに留め、ティティは黒いポニーテールを長々と靡かせながら先導する。二人が乗ってきた馬車は本来もう少し西で折り返すものだったが、他の客がいないのをいいことにティティが代金上乗せしてここまでと願い出たのだ。
 大陸を横断する場合、縦に割くような巨大湖を迂回する必要がある。渡ることが出来ればいいが、あの湖自体が水に愛される民の住まいなのだ。居住地の天井に橋が渡るのは誰だって嫌だろう。
「それじゃあ、早速行きましょうか」
「うん」
 地図を一瞥し、ティティは南へ爪先を向けた。見ずとも大体の地理は頭の中にある、あとは。
「……会えるかなぁ」
 丁寧に地図を畳み外套の上から優しく撫でるように押さえるベルのやわい頬は、隠し切れない期待に緩んでいる。
「どうかしらね。見かけたって情報も一年は前だし」
 期待が外れた時の悲しみは、大きければ大きいほど後々に支障が出る。それこそ、生死に関わるほどに。何せ今のベルの心を支えているのは、父との再会ただ一つ。それ以外はただの過程。
 丁寧に釘を差し、うんと伸びをして、ティティは軽く振り向く。
 甘やかな顔立ちやふわふわとした金色の髪――旅立ちに際しばっさり断ち切られたのが惜しい――は母親譲りだが、陽光を受けても氷解せぬ薄氷かくやの眼差しだけは父親譲り。同じ眼差しの、翳り凍る男のそれを思い出し、ティティは心の中でそいつをタコ殴りにしておいた。父を焦がれる娘の前で実際にそんなことはでき、いや一発横っ面殴るくらいなら許されたい。
「ティティ、大丈夫?」
「は? なにが?」
 いつの間にか、ベルに顔を覗き込まれていた。特段不調はないが、聞けば険しい顔をしていたらしい。感情が面に出るとは、まだまだ未熟だな。胸中でひとりごち、ティティは首を振り意識して背を伸ばす。
「なんでもないわ。さーて、サクッと行きましょうか」
「うん」
 やわやわとはにかむ笑みに心癒されたのは、ここだけの秘密。

【生きる意味/父を探して三千里少女と随伴者】

4/27/2023, 9:51:52 AM

 かれこれ三日は連絡が付かないの。共通の知人に言われ楓が通い慣れてしまった他人のアパートでは、ボサボサの金髪三つ編みの幼女もどきが国宝の前でマスクと手袋をした姿でとろけきっていた。
「はぁぁぁぁ……やっぱりガレリアッゾの作品はたまらないなぁぁぁ……この造形美……配列……最高……」
 合鍵で入って来るのは一人だけだからか、無防備に椅子に座りつつも机の上に頬をぺたりと乗せ、真っ赤なサテンのクッション上に鎮座する美術品かくやのティアラを眺めている。……かくや、ではなく、本物、なのだが。
「アニエス……お前シャワーは」
「手袋とマスクは半日で替えてるよ」
「シャワーしろ!」
 体格差にものを言わせ小柄な娘をシャワールールに押し込み、楓は改めて机上にあるものを見た。煌めく石の数々、美麗な配列のティアラが、彼女の持つ図録にそっくりそのままの姿で鎮座している。曰く付きの作家が手がけた作品の一つが、美大生のだだっ広いリビングルームに鎮座する姿は違和感の一言に尽きる。
 何故美術館の図録に乗る国宝が一個人の室内にあるかといえば、返却予定はあるが無断拝借、とどのつまり泥棒である。楓は作家の持つ噂――曰く一度だけ願いを叶える――に頼るため、アニエスは俗に言う『推し』作家の作品を堪能するため、犯罪の自覚を持ちながら綱渡りの所業をしている。
「半年、か……」
 犯罪の片棒を担ぐ変人との約束を思い出し、椅子に腰掛け背もたれに頬杖を付く。神仏に縋るより毛ほどマシな噂にやはり縋る楓の願望が叶わずとも、犯罪行為は一年限り。何せ留学期間が一年なのだ、経済事情を鑑みれば長い方である。
 これからを考えると憂鬱の一言に尽きる。重い気持ちに引っ張られ項垂れてからのけぞれば、烏の行水並みの速さでシャワーを終わらせてきたアニエスが逆さまに映った。
「やっほー楓クン。何か食べる?」
「俺が適当に作るから、お前は髪をちゃんと乾かして来い」
 美大生のくせして、いや逆に美大生だからか、アニエスは食にさほど頓着してない料理しか生み出せない。お決まりとなった「ふわふわくるくるの卵焼き待ってる!」と明るく告げシャワールームへ戻る小柄な背を見届けたが、すぐ顔を出す。
「今夜返しに行くね」
「あぁ」
 簡潔な報告を受けて、楓は改めて返却秒読み盗品を眺める。こんな、犯罪までして願い事が叶うなら、どれだけいいか。


【善悪/奇跡レベルの願望を持つ青年と美術史専攻娘】

4/26/2023, 9:58:04 AM

「ヴェーダくんは今夜の流星群にどんなお願いをするの?」
 雑多な一角の良好な日当たりを一身に受けるパン屋のお姉さんが、ガラス棚の向こうから問いかける無邪気な声で、ヴェーダ少年は今夜がそうだと久々に思い出した。
「流れ星って要するに燃えカスじゃん。興味ないよ」
「ロマンがないなぁ」
「ロマンじゃお腹は膨れないから」
「そうだねぇ」
 のほほんと返してくれるお姉さんは、今日もブリオッシュのように柔らかい茶色の髪を肩の上で踊らせながらガラス棚の上から身を乗り出す。そうでないと、正面ではなく影になる曲がり角で廃棄されたものを無断で食べてるヴェーダが見えないのだ。お姉さんは優しいので告げ口しないでくれているし、ヴェーダの片腕に抱っこされたバケットはこのパン屋で購入したので大目に見てもらいたい。
「私は君くらいの時に見たことあるんだけどね」
 固くなっている白パンをしっかり齧って飲み込み、また齧ったところで、お姉さんことクラリスが指し示すのが流星群だと気付く。
「たくさんの流れ星が夜空に広がるの。とっても綺麗だったのよ」
 うっとりと伏せられた目の奥で、口にした光景を再生しているのだろう。クラリスの表情はほんのり柔らかくて、寂しそうで。
 まなうらにいると思わしき兄貴分に小言の一つでも投げたくなったが、ヴェーダは両手に抱くのが正式な手段で購入したパンのみにしてから、ガラス棚の正面に立つ。
「願い事はしないけど、起きれたら見るよ」
「あっ、無理しないでいいのよ?」
「別に。無理じゃないし」
 不貞腐れたような声になったけど、クラリスには気付かれたくなくて、ヴェーダは「じゃ。今度こそアニキ引っ張ってくるから」と早口で言い捨てる形で馴染みのパン屋を後にしてしまった。
 なにかとじれったい誰かと誰かが結ばれるのであれば、星に願いも一興。

【流れ星に願いを/パン屋のお姉さんは訳アリ少年の保護者と何かと縁深い】

4/25/2023, 9:57:59 AM

 ゴミ収集は五の付く日、深夜から早朝の掃除は禁止、コインランドリーは地下一階が便利だが安さを求めるなら東に十分歩いたところが一番まとも。
 食器はここ使っていい箪笥はここ、それから寝るのは当分ここだと美人らしい細くも節のある指で指し示したのは合皮が死にかけているソファ。
「夜六時以降は外に出るんじゃねぇぞ」
「早っ」
「ミンチで夜明け見たかねぇだろ?」
「あーい」
 美麗なご尊顔を御自ら崩す青年ジィンに、ヴェーダ少年は律儀に挙手した。雨風凌げる上に床で寝なくていいなら合格点、冷蔵庫の中見てもいいー? と言って返事も聞かず開けながら、ヴェーダはふとした疑問を告げる。
「飯どうすんの?」
「適当」
「だめじゃん。美人は中身、つまり食いもんからだよ、アニキ」
 もう少し手入れをしたら目を見張るであろう美貌に頓着してない青年は忌々しく顔を顰めたが、ヴェーダも負けじと顔を顰めた。ミネラルウォーターと調味料以外何も入ってないんだけど。
「とにかくまずは買い出しだなー」
 声に出して主張したタイミングで、玄関から物音がした。一人暮らしを想定したアパートゆえ、ドアのノック音はよく響く。
「……言い忘れてたことがある」
 今までの雑さが嘘のような、緊張感さえ孕むジィンの声が、小さく落ちる。
「マダムミイラには気をつけろ」
「は?」
 ドンドンドン、ドンドンドン。単独ステージ状態のノック音は暫く続き、不意にピタリと止まった。
「それから」
 身構える青年の顔は今にも冷や汗でいっぱいになりそうなほど、張り詰めている。
「玄関が勝手に開いたら……」
 がちゃ。ぎぃ。ジィンの言った通りの現象が目の前で起こる。想定外の現象にすっかり怯えるヴェーダ少年が見るドアの向こう、静かに顔を出したのは一人の老婆。
「先月の家賃、未納はあんただけだよジィン」
「げ」
 だいたい十歳の割には様々な地に引っ張り回されている故、ヴェーダ少年はすぐさま勘付いた。
「家賃払ってないのはダメだと思う」
「ウルセェ」
 付いて行く相手を間違えたと初めて思った。


【ルール/泥棒泣かせと拾われた少年】

4/24/2023, 9:48:14 AM

 何事も捗らぬ日は存在する。綴ろうと持った万年筆の先が乾くのではないか、と思うほどの時間を、西院曜介は御膳の前で座して過ごしている。外は生ぬるい曇天、原稿用紙に一割だけ埋まる重々しい筆致は深く突き抜ける青。
 意識を置かねば閉じた唇から自動で吐き出されるであろう嘆息を飲むのは幾度目か。特段、急く必要はない。担当と打ち合わせ設定した締切は当分先、執筆に必要な資料やメモは傍らで開かれる時を待つようにも見える。
 息抜きではないが、こぢんまりとした四畳半の窓辺から空を軽く見上げる藤色の存在を見とめる。鮮やかな着物を纏い膝を折って畳に座っている、ように見えて握り拳一つ分浮いてる存在は、風無しで靡かせる長い藤色の髪の向こうで薄い吐息を吐く。
 視線に気付いたのか、それは振り向き微笑一つ。
「見てください、曜介さん」
 何を、とは問わず沈黙で続きを促す。
「今日の空は曜介さんのようです」
「……そうか」


【今日の心模様/隠居気味作家と藤花の精】

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