神奈崎

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 律儀にありがとうございます、と告げて乗合馬車を降りるが、辺りは何もない。かろうじて残る轍に沿う形で生える緑は強く、周囲の舗装など勿論されていない。
 頬に触れる空気の瑞々しさに、水源の近くをティティは言葉通り肌で感じるが、それに気付けないベルは外套の内側にしまい込んでいた地図を取り出す。大陸東側の全体図、その中央で色褪せた青が南北に広がる。
「えぇと、スウェー湖を大回りして東、だったよね?」
「そ。……南経由で行くの」
 古びた地図を広げる両手は細く、しかし柔らかかった筈の指先は随分と荒れて固くなった。指摘せず見るに留め、ティティは黒いポニーテールを長々と靡かせながら先導する。二人が乗ってきた馬車は本来もう少し西で折り返すものだったが、他の客がいないのをいいことにティティが代金上乗せしてここまでと願い出たのだ。
 大陸を横断する場合、縦に割くような巨大湖を迂回する必要がある。渡ることが出来ればいいが、あの湖自体が水に愛される民の住まいなのだ。居住地の天井に橋が渡るのは誰だって嫌だろう。
「それじゃあ、早速行きましょうか」
「うん」
 地図を一瞥し、ティティは南へ爪先を向けた。見ずとも大体の地理は頭の中にある、あとは。
「……会えるかなぁ」
 丁寧に地図を畳み外套の上から優しく撫でるように押さえるベルのやわい頬は、隠し切れない期待に緩んでいる。
「どうかしらね。見かけたって情報も一年は前だし」
 期待が外れた時の悲しみは、大きければ大きいほど後々に支障が出る。それこそ、生死に関わるほどに。何せ今のベルの心を支えているのは、父との再会ただ一つ。それ以外はただの過程。
 丁寧に釘を差し、うんと伸びをして、ティティは軽く振り向く。
 甘やかな顔立ちやふわふわとした金色の髪――旅立ちに際しばっさり断ち切られたのが惜しい――は母親譲りだが、陽光を受けても氷解せぬ薄氷かくやの眼差しだけは父親譲り。同じ眼差しの、翳り凍る男のそれを思い出し、ティティは心の中でそいつをタコ殴りにしておいた。父を焦がれる娘の前で実際にそんなことはでき、いや一発横っ面殴るくらいなら許されたい。
「ティティ、大丈夫?」
「は? なにが?」
 いつの間にか、ベルに顔を覗き込まれていた。特段不調はないが、聞けば険しい顔をしていたらしい。感情が面に出るとは、まだまだ未熟だな。胸中でひとりごち、ティティは首を振り意識して背を伸ばす。
「なんでもないわ。さーて、サクッと行きましょうか」
「うん」
 やわやわとはにかむ笑みに心癒されたのは、ここだけの秘密。

【生きる意味/父を探して三千里少女と随伴者】

4/28/2023, 9:32:57 AM