痛みを堪える面差しを僅か残しているくせに、なんてことはないと言わんばかりの振る舞いが鼻につく。思ったことをそのまま唇に乗せてやれば、横に腰掛ける綿雲めいたピンク髪の偉丈夫からは苦笑の御回答。
「君は僕をよく見てるね。嬉しいけど恥ずかしいや」
「茶化さないでちょうだい」
ぴしゃりと誤魔化しを断てば、芽吹く春の森に似た眼差しに漸く感情が追い付いた。
「君の言い分はごもっともだよ、ミーミア」
馴染んできた共同生活の場、巨木の切り株をそれぞれ机と椅子に加工した居間の空気は、机上で湯気を消さないカップのハーブティーも手伝って柔らかく凪いだもの。大きな両手の指をカップに添え、唇に近づけつつも触れず、ハイネは意を溢す。
「僕はただ逃げているだけ。あの時の判断は正しかった、って思いたくて、信じたくて」
彼は、故郷のため未来のためと、同胞を殺した。生きたまま火炙りにした、と淡々と細やかな事実を告げた時の無表情を知るは自分だけだと思いたい。
「ただまぁ、事実からは逃げられないかな」
「そうね。大量虐殺には違いないわ」
真実の在処や有無はさておき、事実は事実でしかなく。否定や慰めを与えたところで無意味であり、だからミーミアは事実を述べる。標のように、楔のように。忘れるなと打ち込むのは己のみであれと、横柄な感情を伏せながら。
案の定、発言は性分由来だと判断しているハイネは柔らかく笑みを綻ばせた。
「僕、君のそういうところが好きだなぁ」
「あたしは貴方のそういう素直なところは嫌いじゃないわね」
【たとえ間違いだったとしても/終わりの魔術師と共犯者】
ぽちゃん。それは跳ねずに汚泥に沈んだ。音もなく、終わりもないに等しい時を水底で過ごす、星宿す蒼玉。
それが僕だと、二対の細い翅を震わせ妖精は囁く。一見水溜りに見える場所のほとり、柔らかな萌黄の芝生に座り込むフィスチェの前で、少女の掌ほどの大きさしかないそれは水の睫毛を伏せる。
『とどのつまり浄化剤、ってことか』
「浄化……剤?」
『人間がこぞって濁らせた水を元の透明に戻したんだ、濾した訳じゃねぇから濾過っつーより浄化だろ』
眉を顰めるフィスチェの両腕に抱かれるぬいぐるみの言葉にこそ妖精は頷き、さざめき一つない鏡の水面へと目を向ける。
『もうずっと長い間いたからね、そろそろいいかなって』
「いい、って?」
『ここから出てもいいんじゃないかな、って思ってる』
かつては何も芽吹かぬ不毛の大地だった一帯は、幾つもの巨木を内包する森であり、それらの自然は循環している。だから、と、妖精がフィスチェに向ける眼差しは真剣に、されど隠しきれぬ緊張で震えている。
『僕は僕を助けられない。だから、あなたにお願いしたい』
そこで漸く、合点がいった。水が形作っているような妖精の体では、恐らく水底に沈むという妖精の蒼玉を拾い上げることができないのだろう。
妖精の言い分は理解した、助けたいとも思う。ただ。すぐそばの水溜りを覗き込み、フィスチェの心は快諾を踏み留まる。見えないのだ、水底が、妖精の蒼玉が。ただただ暗い、光を知らない水の色がフィスチェとぬいぐるみと映すばかり。
「もし」
素朴な疑問が口を突く。
「きみがここからいなくなったら、どうなるの?」
『何も起こらないよ……きっと』
祈るように続いた言葉は、祈りのよう。
『蒼玉とやらを拾わない限り、どうなるか分からないってことか』
『その通り』
ぬいぐるみの指摘に頷き、妖精は水面に触れた。だが、波打つものは何もない。
『僕はこれと同じもの、というよりこれが僕と同じになったんだ。水は水を触れない』
眼帯に閉じ込めた右目で、フィスチェはそっと妖精と水溜りのようなそれを見比べた。赤い右目は、妖精の告げる通りだと、感覚を以て告げる。
『巻き込んだとは思ってる。けれど、もう誰もいない場所に人が来ることなんてなくって』
沈む眼差しの彩度は、底見えぬ水底に似ている。
妖精には助けて貰った恩がある。可能であれば返したいのがフィスチェの気持ちだが、一方で右目でも視認しない蒼玉の存在を考えると恐怖が勝る。なにせ、水だ。呼吸ができない水の中へ、いつまで潜ればいいのか分からない場所へと踏み込むのに止まるのは自然なこと。
「うーん」
踏ん切りの付かない気持ちが、そのまま唸り声として出てしまった。恐る恐る、鏡のような水面に顔を映し、物は試しと手を伸ばす。右目は勿論のこと、腕の中のぬいぐるみが止めないので大丈夫だろう。
掬い上げれば揺らめいた水面も、掌から零れ落ちる雫の一滴まで、清らかに。妖精の言葉が真であれば、この水は長いであろう年月を重ねて美しくなった、或いは戻った。ならば、浄化のために投げ込まれたという妖精の蒼玉はなるほどお役御免となる訳で。
何か。助けたいと思う気持ちにもう一押し、何かあれば踏み込めそうなのに。あっという間に凪いだ水面に、フィスチェの手に残っていた雫が一滴、戻るように滑り落ちた。
【雫】
まっさらなシーツの上で丸くなって眠る少女の腕が抱えているのは、広げた両手を漸く折り返す年頃には似合いの真っ黒なぬいぐるみと、似つかわしくない黒革の鞄。だだっ広く真新しくさえ思える空間で窮屈な寝息を立てる少女のベッドサイドに腰掛けず、すぐそばで膝を折ったシェスターナーは、そっと声をかける。
「息苦しくありませんか?」
『……動けたらそうしている』
宵闇からの返答は、少女の腕がしかと捉えるぬいぐるみから。獅子を模したそれは、あからさまな不快感で愛らしい筈の相貌に皺を寄せてシェスターナーを睨め付ける。
『暫くはこのままだろうな』
まるで、それさえあれば事足りると訴えるように、眠る筈の少女の腕に力がこもる。
「自ら決意したとはいえ、貴方の話を聞く限り強制でしたよね?」
ならば、この年頃で親元から離れるのはさぞ辛いだろう。シェスターナーにはその経験がないが、想像は付く。追い立てられ急き立てられ、不安に染めた顔が此処へ転がってきた数刻前を思い出す。
きつく閉じた唇、無意識に寄せられる眉間。水分を含んだ睫毛の向こうから、新たに一筋雫が赤い顔を横切る。
「さて。どうしたものでしょうか」
『さぁな。決めるのはこいつだ。……まぁ、寝て少し食ったらもう少しはマシになるだろ』
密やかな会話は闇に溶ける。少女の道行を案じるように、けれども多難であろうそれを示唆するような静寂が、再び訪れた。
【何もいらない】