ぽちゃん。それは跳ねずに汚泥に沈んだ。音もなく、終わりもないに等しい時を水底で過ごす、星宿す蒼玉。
それが僕だと、二対の細い翅を震わせ妖精は囁く。一見水溜りに見える場所のほとり、柔らかな萌黄の芝生に座り込むフィスチェの前で、少女の掌ほどの大きさしかないそれは水の睫毛を伏せる。
『とどのつまり浄化剤、ってことか』
「浄化……剤?」
『人間がこぞって濁らせた水を元の透明に戻したんだ、濾した訳じゃねぇから濾過っつーより浄化だろ』
眉を顰めるフィスチェの両腕に抱かれるぬいぐるみの言葉にこそ妖精は頷き、さざめき一つない鏡の水面へと目を向ける。
『もうずっと長い間いたからね、そろそろいいかなって』
「いい、って?」
『ここから出てもいいんじゃないかな、って思ってる』
かつては何も芽吹かぬ不毛の大地だった一帯は、幾つもの巨木を内包する森であり、それらの自然は循環している。だから、と、妖精がフィスチェに向ける眼差しは真剣に、されど隠しきれぬ緊張で震えている。
『僕は僕を助けられない。だから、あなたにお願いしたい』
そこで漸く、合点がいった。水が形作っているような妖精の体では、恐らく水底に沈むという妖精の蒼玉を拾い上げることができないのだろう。
妖精の言い分は理解した、助けたいとも思う。ただ。すぐそばの水溜りを覗き込み、フィスチェの心は快諾を踏み留まる。見えないのだ、水底が、妖精の蒼玉が。ただただ暗い、光を知らない水の色がフィスチェとぬいぐるみと映すばかり。
「もし」
素朴な疑問が口を突く。
「きみがここからいなくなったら、どうなるの?」
『何も起こらないよ……きっと』
祈るように続いた言葉は、祈りのよう。
『蒼玉とやらを拾わない限り、どうなるか分からないってことか』
『その通り』
ぬいぐるみの指摘に頷き、妖精は水面に触れた。だが、波打つものは何もない。
『僕はこれと同じもの、というよりこれが僕と同じになったんだ。水は水を触れない』
眼帯に閉じ込めた右目で、フィスチェはそっと妖精と水溜りのようなそれを見比べた。赤い右目は、妖精の告げる通りだと、感覚を以て告げる。
『巻き込んだとは思ってる。けれど、もう誰もいない場所に人が来ることなんてなくって』
沈む眼差しの彩度は、底見えぬ水底に似ている。
妖精には助けて貰った恩がある。可能であれば返したいのがフィスチェの気持ちだが、一方で右目でも視認しない蒼玉の存在を考えると恐怖が勝る。なにせ、水だ。呼吸ができない水の中へ、いつまで潜ればいいのか分からない場所へと踏み込むのに止まるのは自然なこと。
「うーん」
踏ん切りの付かない気持ちが、そのまま唸り声として出てしまった。恐る恐る、鏡のような水面に顔を映し、物は試しと手を伸ばす。右目は勿論のこと、腕の中のぬいぐるみが止めないので大丈夫だろう。
掬い上げれば揺らめいた水面も、掌から零れ落ちる雫の一滴まで、清らかに。妖精の言葉が真であれば、この水は長いであろう年月を重ねて美しくなった、或いは戻った。ならば、浄化のために投げ込まれたという妖精の蒼玉はなるほどお役御免となる訳で。
何か。助けたいと思う気持ちにもう一押し、何かあれば踏み込めそうなのに。あっという間に凪いだ水面に、フィスチェの手に残っていた雫が一滴、戻るように滑り落ちた。
【雫】
4/22/2023, 6:35:04 AM