僕らの目の前には、大きな大きな、一本のつららがあった。
「つららって、どんな味するん?」
「えー、水だし、味とかないんじゃない?」
「じゃあ、砂糖かけたら美味しいかな」
「いや、水に砂糖入れても対して美味しくなくない?」
「ん〜、じゃあシロップとかかける?かき氷の」
「それならもう、普通に削ってかき氷にしたらいいじゃん」
つららは、ちょうど背を伸ばしたら、そのさきっぽに指先が届くかどうかという高さにある。
「でもこれ、そもそも取れなくない?」
「大丈夫だよ。ほら、こうやって…えいっ」
「おぉ〜、………全然ダメじゃん、ノーコンピッチャー」
「だって、高すぎて狙いづらいんだよ〜」
「ほら、こうやってやるんだよ…ほいっ」
「おおっ!………あぁ~、当たったけど、全然ビクともしやいね」
「ちょっと大きすぎるなー。石でも当てないと折れないんじゃないか」
「えー、石はやめようよ。なんか美味しくなさそうだし」
「そんなに食べたい?」
そうこうしているうちに、太陽は頂点を通り過ぎようとする。雲ひとつない、快晴。
「あ。なんか光ってない?」
「どれどれ、どこが?………あ、なんか濡れてきてる?」
「みてみて!さきっぽに貯まっていく!」
「これなら、もうちょっとしたら壊せるようになるんじゃ、っておい!なにしてんの!?」
「あ〜〜〜、んっ」
綺麗な、綺麗な、一粒の雫が、口の中に吸い込まれていく。ナイスキャッチ。
「おまえ、お腹壊しても知らないよ〜」
「大丈夫、大丈夫、だって冷たくて美味しいよ!」
「なんだ、それ」
まっさらの純情な雪が、すっきりと澄み渡った空が、しっとりと艷やかなつららが。
僕たちの日常に、とけ込んでゆく。
時はVR MMO RPG全盛期。ゲーム世界の中で、何もかもが手に入る時代であった。
現実と同様の感覚をゲーム世界で味わうことが出来るこの世の中で、最早ここはもう一つの現実であり、ゲーム内に延長された身体感覚は、どちらが元の世界なのか時より迷ってしまうほどリアリティに溢れていた。
本来、現実世界では生命を維持するために、食事や睡眠が必要になる。だかしかし、狂った一部のプレイヤーたちは、仮想現実内にも関わらずその必要性に錯覚を起こしてしまい、ゲーム内で食事を取らなければ、空腹を感じるようになり、睡眠をとらなければ、頭が働かなくなる、そんな感覚に陥ってしまうようになった。
何が現実で、何が虚構か。この世界で起こっている事、という観点で見れば、ゲームの中の物事であろうと、夢の中の物事であろうと、それは生きている人間が感じている事であるからして、すべて現実であるだろう。
一部が陥った狂気はやがて伝染し、多くの人々がゲーム世界で一般生活を送るようになった。ゲーム外での身体は、無数のチューブに繋がれ、食事や排泄などはすべて自動化された。意識の大半はゲーム内にあり、時たま機械のメンテナンスの際にだけ、彼らは夢から醒めるように、いや、一時の夢を見るかのように、元の世界へ戻ってくる。
やがて、ゲーム内の世界こそが『現実』と呼ばれ、元々の世界が『リアルワールド』と呼ばれる時代がやってくるだろう。
何をするにしても、その意思一つで、自由に思うままにすることができたはずの『何もいらない理想のゲーム世界』は、そこに何もかもがあるようになってしまったがために、『何かしらが必要不可欠な現実世界』となった。
いつか、その現実から目覚める人が出てくるのだろうか。命一つで、自由に思うままに何でもできる、この『リアルワールド』に還ってくる人間が。
『もしも未来をみれるなら』
押入れの中にしまい込んであった万華鏡の側面には、そんな落書きが書いてあった。
未来というと、現在42歳の私にとっては、だいたい残りも40年ほどになるだろうか。寿命の折り返し地点に来た所感は、まず何よりも「体力がない」である。
思えば、運動部に所属していた学生時代は、何故あそこまで何も考えずどこまでも走れたのだろうか。いや、どこまでも、というのは少しばかりの誇張表現だ。泣かず飛ばずのベンチウォーマーであった私では、走って行けてもせいぜい十数キロが限界である。しかも、走り終わった後にはひどい嗚咽と痙攣が待っているだろう。
話がそれたが、ともかく、そんな「体力がない」私の思いつく残りの余生の姿は、元気満々とは程遠い省エネ志向の姿であるだろう。それをわざわざ怪しげな万華鏡を覗き込み観察したいかというと、遠慮の方が少し勝つだろう。
無論、未来に興味がわかないわけではない。もしかしたら、今後数十年で、身体が劇的に若返る薬が発明されて、未来の私は元気に外を駆け回っているかもしれない。これまでの四十年あまりを振り返ると、科学技術の進歩は著しく、悲観的になるのはまだ早いのかもしれない。
では、もし今、この現時点で未来がみれるとしたら、その未来は絶対なのだろうか。
確定的な未来を見た場合、正直それは幸せの前借りになろうが、既定路線の確認になろうが、悲劇の覗き見になろうが、あまりいい気分になるものではないだろう。決まり切った未来を知るというのは、現在への大きな束縛である。
だが、もしも、未来は確定していないもので、これからの行動次第では変えられるような柔軟性を持ち合わせていたとしたら、どうだろう。無論、確定していないということは、もし幸福な未来を目撃しても、それは糠喜びになる可能性をはらんだものになるため、素直にその喜びを享受することはできないだろう。反対に、悲劇的な未来を目撃した場合は、それを一つの目印として、努力により、それとは離れた未来に帰着することもできるため、人生の道標ともなるだろう。
確定している未来を見た場合、致命的な悲劇の檻に閉じ込められる可能性がある。対して、確定していない未来を見ることに、そこまでのデメリットはないが、少しのメリットを享受することはできるだろう。
問題は、果たして未来が確定しているか否か、その判断は、未来を目撃した後でないとわからないということだ。
そんなこんなで、古ぼけた万華鏡を眺めながら、柄にもなく適当な理屈をこねくり回した未来考察をしてみたが、そんなことを考えたところで、特に意味なんてない。この万華鏡も、きっと遠い昔に私が適当な落書きをして、そのまま押入れに投げ込んでいたものだろう。なんてことはない、意味も理由もなんにもない、子どもの悪戯だ。
久しぶりに頭を使ったら疲れた。こんな時はなんにも考えず、綺麗なものを眺めて癒やされよう。
そう考えて、万華鏡を目に当て、天井の光にかざした時、思い出した。
私はこの光景を見たことがある。
「実は、僕は君の目を見つめたいと、ずっと思っていたんだ」
「うん」
「だけど、それが叶わないのは分かっている。どうしようもないのは分かっている。だけど、それでもどうしてもこの気持ちは抑えられないんだ」
「うん」
「だから、これがもう最後かも知れないけれど、ぼくは自分の意志で、そうなるよ」
「うん」
「君に責任はまったくない。それだけは覚えていてほしい。そして、もしも、君が憶えていてくれるというのなら、ぼくの最後の言葉も、心の何処かに、置いておいてくれると、嬉しいな」
「うん」
「じゃあ、そろそろ、その目を開けて、こちらを見てくれないかい。大丈夫、どうやら最初は手の先、足の先から変化していくようだし、少し余裕はあるよ」
「うん」
「それじゃあ、これでお別れだ。ありがとう」
そうしてぼくは、ゆっくりと開いていく、彼女の双眼と目を合わせた。
「やっぱりだ。やっぱり君の瞳は、どんな宝石よりも綺麗に光り輝いている。君は女神なんかより、ずっと、ずっと美しい………」
自分たちで未来の芽を摘み取ってしまうほど著しく進歩したこの世界には、いつの間にかどんな未来も石に変えてしまう奇病が流行した。
『ゴーゴンシンドローム/石蛇症』
感染者の瞳を見た者は、次第に身体が石に変化していき、最後には彫像のようになってしまう。
それ故に、病に侵された者は、その後一生、目を開けることが許されない、非情の病。
現状、現代科学の粋を集めて、病の打倒を目指しているが、成果は乏しく、治療方法は見つかっていない。
だが、打つ手のない感染者に対して、副次的に生み出される『生きた石像』は、ついぞ人類の手が届かなかった『永遠の命』への手がかりとなり、そこには病的なまでの信仰が生まれた。
狂信者たちは、『永遠の命』を生む者たちを『とわの女神』として崇め、奉り、そして教会へ閉じ込めた。
これは、神にされてしまった少女と、『永遠の命』たちの物語。
好きじゃないのに。
そういう言葉が脳裏に浮かんでしまった時、それはもう恋への片道切符が手の中に握られているのだ。
往復分の切符は、どこに向かっているかも分からない、行方知らずの列車の中で、運良く出逢った車掌さんから買い求めるか、もしくは到着したその先で見つけ出すしかない。
探しても探しても、見つからない時は大丈夫。もとのあの場所へは戻れないかも知れないけれど、今度は別の場所へ迎える片道切符が、いつの間にかその手の中に握られているから。
「切符、拝見いたします」
そう言って、四人がけのボックス席に独りで座る乗客へ、いつものように声をかける。呼び声に反応し、俯いていた顔がこちらを見る。透き通った水のような、そう、水道水のような瞳の少女だ。人の手によって、綺麗であるように作られ、悪い何かが蔓延らないように仕組まれた存在。
「ねぇ、この切符、行き先が書いてないんだけど、どこまで行けるの?」
ポケットのたくさんついた茶色のオーバーオール。その一つから切符を差し出しながら、少女は私に質問をした。
「それは私にも分かりませんね。乗り始めには、どこに向かっているのか分からないんです。何事も」
私の役目は切符を切ること、それだけだ。誰がどこに行くのか、どこから来たのか、そういったことは何も知らない。ごくたまに、最初から行き先の書いてある切符を持った人もいる。しかし、彼らは共通して、窓の外、遠く遠くをただ見つめるだけで、こうして話しかけてくることもない。
「じゃあ、どうやったらもとの場所に帰れるか、分かる?」
少女は窓の外を流れていく風景に目を移し、尋ねる。
「それには往復用の切符が必要ですね」
「それはあなたから買うことができるの?」
「ええ、そうですね。ですが、切符を買うには貴女がどこから乗ったのか、それが分からなくてはお売りできません」
そう言うと、彼女はどこかホッとした表情を浮かべた。しかし、それをすぐに鳴りを潜め、澄ました顔つきに戻る。
「そうなんだ。じゃあ、どこから来たのか分からない私は、戻らなくていいんだね」
そう応答したきり、彼女は口を閉じてしまった。確認した切符を返すと、それをいちべつもせずオーバーオールのポケットのいずれかに放り込む。もう、その紙片には興味がないかのように。
どういった席にどのように座るのか。そんな些細なことが、人の心の一端を示してくれる。彼女は、進行方向とは逆向きに座り、後ろに流されていく景色をジッと見つめている。もう過ぎ去ってしまうそれを、名残惜しそうに思うのか、それとも遠くへ離れるにつれ安堵を覚えるのか。少なくとも、彼女は前者ではないだろう。リズムをとるように、かすかに揺らす白いスニーカーが、それを教えてくれた。
列車はいつの間にか止まり、外へのドアが開かれる。ボックス席の彼女は、勢いよくホームへ降り立った。ググっと大きく背伸びをし、胸いっぱいに息を吸い込む。そして、振り返りもせず、何処かへ向かって、大きく一歩を踏み出した。
出発を知らせるベルが鳴る。一斉に閉まるドアの間をすり抜けるようにして、ひとつの影が車内に滑り込む。
今度はどんな人がやってきたのか。何にせよ、私がすることは一つだけ。
「切符を拝見いたします」