好きじゃないのに。
そういう言葉が脳裏に浮かんでしまった時、それはもう恋への片道切符が手の中に握られているのだ。
往復分の切符は、どこに向かっているかも分からない、行方知らずの列車の中で、運良く出逢った車掌さんから買い求めるか、もしくは到着したその先で見つけ出すしかない。
探しても探しても、見つからない時は大丈夫。もとのあの場所へは戻れないかも知れないけれど、今度は別の場所へ迎える片道切符が、いつの間にかその手の中に握られているから。
「切符、拝見いたします」
そう言って、四人がけのボックス席に独りで座る乗客へ、いつものように声をかける。呼び声に反応し、俯いていた顔がこちらを見る。透き通った水のような、そう、水道水のような瞳の少女だ。人の手によって、綺麗であるように作られ、悪い何かが蔓延らないように仕組まれた存在。
「ねぇ、この切符、行き先が書いてないんだけど、どこまで行けるの?」
ポケットのたくさんついた茶色のオーバーオール。その一つから切符を差し出しながら、少女は私に質問をした。
「それは私にも分かりませんね。乗り始めには、どこに向かっているのか分からないんです。何事も」
私の役目は切符を切ること、それだけだ。誰がどこに行くのか、どこから来たのか、そういったことは何も知らない。ごくたまに、最初から行き先の書いてある切符を持った人もいる。しかし、彼らは共通して、窓の外、遠く遠くをただ見つめるだけで、こうして話しかけてくることもない。
「じゃあ、どうやったらもとの場所に帰れるか、分かる?」
少女は窓の外を流れていく風景に目を移し、尋ねる。
「それには往復用の切符が必要ですね」
「それはあなたから買うことができるの?」
「ええ、そうですね。ですが、切符を買うには貴女がどこから乗ったのか、それが分からなくてはお売りできません」
そう言うと、彼女はどこかホッとした表情を浮かべた。しかし、それをすぐに鳴りを潜め、澄ました顔つきに戻る。
「そうなんだ。じゃあ、どこから来たのか分からない私は、戻らなくていいんだね」
そう応答したきり、彼女は口を閉じてしまった。確認した切符を返すと、それをいちべつもせずオーバーオールのポケットのいずれかに放り込む。もう、その紙片には興味がないかのように。
どういった席にどのように座るのか。そんな些細なことが、人の心の一端を示してくれる。彼女は、進行方向とは逆向きに座り、後ろに流されていく景色をジッと見つめている。もう過ぎ去ってしまうそれを、名残惜しそうに思うのか、それとも遠くへ離れるにつれ安堵を覚えるのか。少なくとも、彼女は前者ではないだろう。リズムをとるように、かすかに揺らす白いスニーカーが、それを教えてくれた。
列車はいつの間にか止まり、外へのドアが開かれる。ボックス席の彼女は、勢いよくホームへ降り立った。ググっと大きく背伸びをし、胸いっぱいに息を吸い込む。そして、振り返りもせず、何処かへ向かって、大きく一歩を踏み出した。
出発を知らせるベルが鳴る。一斉に閉まるドアの間をすり抜けるようにして、ひとつの影が車内に滑り込む。
今度はどんな人がやってきたのか。何にせよ、私がすることは一つだけ。
「切符を拝見いたします」
3/25/2024, 2:36:16 PM