メダカを解剖したのは、確か小学校の理科の授業でのことだっただろうか。
生き物が、どのような仕組みでどのように生きているか、大きく括ればそんなようなことを知るためのものである。無論、たかだか一度こんなに小さいメダカの体を解体したくらいでは、命の一端を理解することも出来ず、ただただ教科書に載っている事項を確認するだけの時間であったと、その時の僕も今の僕も、そう感じている。
焼き魚がよく食卓にあがる家庭であったからだろうか、魚の身がほぐされていくのは見慣れたもので、焼いてあるか生であるかという違いはあるが、概ねそれは想定の範囲内の光景であった。中には、泣き出してしまう子や、そもそも解剖に参加しない子もおり、もしかしたら彼らは、最中に食事風景を思い浮かべてしまう蒙昧な僕とは違い、この小さな命が喪われていく光景が、はっきりと見えていたのかもしれない。
なんて、そんな10年以上前のことを思い出しながら、正確にはその頃の詳細な事なんて憶えてはいないので、現在から勝手に解釈した架空かもしれない思い出を振り返る僕の目の前には、大きなイカがいる。
最初にツアーの内容を見たときは、怪しい話だなと感じた。しかし、その直感はいつの間にか薄れ、右往左往した挙げ句、何故か僕はこの深海探索ツアーに参加している。
随分、昔のことだったと思うが、深海に沈没船を観に行くツアーなんてものが行われたことがあり、しかしその旅は道すがらにミイラ取りがミイラになったことで大問題になった。
その結果、それ以後の深海に関わる様々な事業は、民間企業が行うには許可が厳重になり、気軽に手頃に宇宙に出られる時代となった昨今ですら、肝心の足下のことは未知に包まれたままであるのが、この現代である。
そんな中、何故、僕が今、深海にいるのか。円グラフにするならば、騙されたという理由が40%、泳いでいる大王イカが見たかったという理由が40%、こんな堂々と詐欺が横行するはずがないという未だに何かを信用する気持ちが10%。
そして、最後の10%は、「小さな命」になりたかった、である。
「政府公認!絶対後悔させない天上の旅(深海だけど)を貴方に!」という怪しさ以外のものが見つからない広告を見て応募した過去の自分の気持ちは、一ミリも理解できない。けれど、応募してしまったものは仕方ないので、気持ちを切り替えて、未知への旅を楽しもうと集合場所へ向かった。
そこで目にしたのは、バック・トゥ・ザ・フューチャーよろしく、まるで未来にでも行きたいのかという様相の潜水艦だった。現実時間では一瞬でも、脳内では久遠の逡巡が繰り広げられた後、意を決して船の下へ足を進めた。
船に乗り込む直前、今回の同乗者たちは、ツアー責任者という肩書の男から旅の詳細を聞かされ、互いに挨拶をし合う一幕があった。
船長と呼ばれたその男は、終始「コンニチハ」「大丈夫、マカセテ」「ソノ気持チ分カリマス」「大船ニ乗ッタ気デイテクダサイ!小サイ船ダケドネ!ハッハッハッ」の四つの言葉しか話していなかったことを、今更ながらに思い出す。
他には三人、僕と同じ立場のはずの人間がいるが、あまり僕とは同じ立場とは思いたくない風貌であった。
一人目は、自称海洋研究家の男である。自称というのは、どう考えてもその出で立ちが、昔テレビでよく姿を見た、魚の帽子を頭に被り、特徴的な語尾で話す人間そっくりであったから、僕の脳内がこの自称という文字を無意識に取り付けたのである。彼は今も目の前の光景に「うお〜!!!」と叫んでいる。
二人目は、袈裟のような服装に、目元以外は見えない被り物、数珠のようにクロスが連なった首飾りを首に着けた、何もかもが不詳の人間である。挨拶の際には、非常に流暢な関西弁を話していたから、つい今の今まで気安い友人のように錯覚していたが、大王イカが現れてからというもの、生まれてこの方、聞いたことのない、どう考えても地球在来ではない外来の神に向け一心不乱に祈りを唱えている。
三人目は、白銀の鱗のように艶のあるブラウスと、生気のない目玉のような黒く艶のないロングスカートをまとった女である。この女は、挨拶の際にも一言も喋らず、誰もそのことに口を出さないようだったのでスタッフの一員かと思っていたが、さも当然のことのように船に搭乗し、僕の隣に座った。そのことに、誰も何も疑問を感じていないようだったので、宗教家との会話に忙しかった僕は、特に言及することもなくここまできてしまった。
深海に向け下降するにしたがって、まるでポルターガイストのようにミシミシという音は大きくなり、救急車と消防車と緊急地震速報を混ぜこぜにしたかのような、どう考えても非常事態を知らせるベルが何度も鳴った。その度に船長は「大丈夫、マカセテ」「ソノ気持チ分カリマス」「大船ニ乗ッタ気デイテクダサイ!小サイ船ダケドネ!ハッハッハッ」という三語をローテーションしてベルを止め、ニッコリ僕らに笑いかけてくるが、喉には「泥舟の間違いだろ」という言葉が常駐待機しており、そろそろ我慢も限界かと思ったその時、前触れもなく突然それは現れた。
最初は、それが何なのか分からなかった。小さな丸い窓の全面を占める黒いもの。何故なのか、不意に脳裏に浮かんだのは、その昔解剖する僕のことをジッと見つめてきた、メダカのあの目だった。
そこからというもの、あまりの騒々しさとあまりの動揺に、細かい記憶は残っていないのだが、それでも一つだけ印象に残っていることがある。
事態に呆然とする僕の顔を見つめていたかと思うと、すぐに窓に振り返り、深海を幽雅に泳ぐ大王イカを見つめ、静かに、それでいて尊い何かを慈しむように微笑む、女の横顔であった。
深海の旅は、急な機体不良ということで大王イカと出会ってすぐに引き返すことになった。すぐといっても、人間を水圧0の世界に戻すためにはそれなりの時間をかける必要があり、それなりの期間を経て、僕らは太陽の日を浴びることになった。
水中での待ち時間、すっかり仲良くなった我々四人は、旅を終えた今でも定期的に会い、理由の分からない会話で盛り上がる友人となった。
そして、この四人に含まれないあの女は、大王イカから逃げ去る道中の中、いつの間にか姿が消えていた。
他の三人に聞いても、一体何を言っているんだ、と言わんばかりの顔をされるが、確かにあの時この目に写した微笑む女の姿は、記憶の中に鮮明に残っている。
僕たちは、何を持って命の大きさを測るのだろうか。小さい体に宿るそれは、果たして小さい命なのだろうか。
今でもふとした時に、あの大きな黒い目玉が、僕を見つめている気がしてならない。
「あい らぶ ゆー。」
いきなり、後ろから肩を叩かれて、そんな言葉を言われたのは、初めてだった。しかも、六つも年下の女の子に。
「え、っと。ありがとう」
とりあえず、どうにかこうにかと口の中から言葉をはき出す。
「いいえ、こちらこそ、です」
そんな飾り気のない言葉を、涼しい顔で言いのけるわりに、両耳は真っ赤に染まっている。よく見ると、目線は決してこちらに合わせないで、グルグルグルグルと私を中心に円を描いている。
「こんな踏切の真ん中で話すのもなんだからさ、ちょっと座って話さない?」
天下の往来で見世物になるのはゴメンだと、瞬時に道路の向かい側にある閑散とした公園を発見した私の脳みそ。そちらを指差し促すと、彼女はロボットのごとき直角運動で、公園に向かい歩き出す。
前を歩く彼女に顔を見られないのをいいことに、今更になって身体が熱くなるのを感じる。きっと、今の私は両耳どころか、首まで紅葉しているだろう。
公園には、少し塗装の剥げたベンチがあり、そこに二人で並んで座る。
「こうして、ちゃんと話すのも久しぶりだね。元気にしてた?」
我ながらテンプレートな質問だとは思うが、彼女と会うのは本当に久方ぶりで、前回会ったのはもう半年前だろうか。この半年でずいぶん伸びた後ろ髪は、髪飾りでくくられ、ポニーテールと呼ぶには少し低い位置で結ばれていた。
「元気かといわれると、あまり元気ではありませんでしたが、今は元気です」
なんだか、答えになっているのだか、いないのだか。煙に巻いたような回答が、正面を向いたままの彼女から返ってくる。まぁでも、今現在は元気ということなら、それはそれで良しとしよう。
「その髪飾り、使ってくれてるんだね。嬉しいな」
彼女の髪をくくるそれは、私が半年前に誕生日プレゼントとして、贈ったものだ。そのときは、まだ彼女の髪も短く、使うのもだいぶ先だろうな、と考えていたことを思い出す。というか、そもそもすぐに使えない物をプレゼントするなよ、と今更ながら過去の自分に苦言を呈す。
「部活を引退したばかりのころはダメでしたけど、最近になって、ようやく着けても様になる長さになってきたんです」
丁寧に手入れをしていることがうかがえる黒髪は、彼女の生真面目さをよく表しており、思わず手のひらでそっと撫でたくなる。
「撫でてくれても、いいんですよ。昔みたいに」
私の気持ちを知ってか知らずか、こちらに向き直った彼女の口元は、からかいと本音の狭間のような、なんとも言えない角度で笑いかけてくる。
「子どもあつかいされるのをあんなに嫌がっていたのに、ずいぶん大人になったね」
悪戯心でそう返すと、一転フグのように頬を膨らませ、ムッとした表情になる。普段はあまり表情の変化を見せない彼女だが、昔からむくれた顔だけは見事なものだ。この可愛らしい変化を見るために、ついついからかいが過ぎてしまう。
「ごめん、ごめん。本当に大人になったと思っているんだよ。その髪飾りもよく似合っているし、目の前にこんなに可愛い女の子がいきなり現れたから、私も戸惑っているんだ」
そう伝えると、彼女の顔が、首から順にグラデーションのように染まっていく。これはフグではなくタコだな、なんて戯言は飲み込む。
「 」
口は動いているけれど、言葉は出ない。そんな逆パントマイムをしばらく見ていると、落ち着くためだろうか、彼女が数度深呼吸を繰り返す。
「ご、ごめんね。なんか、その、ごめん」
こんな反応をするとは思わなかったものだから、兎にも角にも先手で謝っておくのが吉だろう。
「べ、別に全然、ごめんじゃないです、悪くないです。こちらこそ、その、いきなりごめんなさいです。さっきも出会い頭に変なこと言って」
俯きながら言葉を紡ぎ出す彼女の表情は、半年前とちがって、前髪に隠れてしまってよく見えない。
「いや、さっきも言ったけど、ありがとう、というか嬉しいのは本当だよ。嘘じゃないよ」
可愛い女の子から、愛してる、なんて言われて嬉しくないなんてことは、あまりないだろう。そこに込められた意味は置いておくとして。
「私、もう三月だから、卒業してどこか遠くに行っちゃう前に、とにかく次に会ったら言おうと決めてたんです。愛、してるって。」
「英語だったけどね」
「それは緊張しすぎて!だって、全然心の準備出来てないのに!いきなり目の前にいるから!」
「それは、うちのアパートと大学の間の通学路だから、いきなりってこともないと思うけどね」
そう言いながら、そういえば最近、卒業前の締めの大掃除で、大学に行くのも久しぶりだったな、と思い当たる。一部屋しかないはずのアパートの部屋から、信じられないほどの段ボールの山が運び出される光景は、まるでマジシャンの帽子から次々飛び出す鳩のようだった。
「言語がちがっても、想いが同じならいいんです!気持ちが大事なんです!」
「うんうん、そうだよね。その通りだ。ありがとう」
「また!そうやって、はぐらかす!」
はぐらかしているつもりはないんだけれど、なんと言うのが適切なのか。わかりかねていると、今度はしっかり正面に瞳を向けて、彼女は言葉を紡ぐ。
「だっていつも私には、君は誰からも愛される良い子だって言ったり、愛されていて幸せだねって言ったり、そう言ってくれるけど」
はっきりと、しっかりと、言葉を繋ぐ。
「でも、愛されているのは、先輩だって同じだよ!少なくとも、私は愛してる!先輩は私に愛されてるから、幸せになれるんだよ!」
顔を背けたい、だけど彼女の瞳からは目をそらすことが出来ない。
「だから、生きて!ちゃんと私のこと見てて!もっとこの髪飾りが似合うようになるまで、ずっと!」
私も、前髪が長ければ、この止めることの出来ない涙も、まともに言葉を紡げない震えた唇も、恥ずかしい全部を、隠せたのだろうか。
「・・・・・・・・・・・・うん。ありがとう。」
ようやくしぼりだせた言葉は、私も、彼女も、少し幸せにさせてくれた。
改めて振り返ってみると、そりゃあ踏切の真ん中でずっと佇んでいる人間を見れば、彼女じゃなくとも驚くし、声をかけずにはいられないに決まっている。
私にとって幸運だったのは、やってきたのがぼうと待っていた電車ではなく、可愛い可愛い彼女だったことだろう。
明日も明後日も、何もわからない人生だけど、とりあえず、立つ鳥跡を濁さずとリサイクルショップに売り払った大量の段ボールたちを取り戻すことから始めよう。