MAI

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『もしも未来をみれるなら』
 押入れの中にしまい込んであった万華鏡の側面には、そんな落書きが書いてあった。

 未来というと、現在42歳の私にとっては、だいたい残りも40年ほどになるだろうか。寿命の折り返し地点に来た所感は、まず何よりも「体力がない」である。
 思えば、運動部に所属していた学生時代は、何故あそこまで何も考えずどこまでも走れたのだろうか。いや、どこまでも、というのは少しばかりの誇張表現だ。泣かず飛ばずのベンチウォーマーであった私では、走って行けてもせいぜい十数キロが限界である。しかも、走り終わった後にはひどい嗚咽と痙攣が待っているだろう。
 話がそれたが、ともかく、そんな「体力がない」私の思いつく残りの余生の姿は、元気満々とは程遠い省エネ志向の姿であるだろう。それをわざわざ怪しげな万華鏡を覗き込み観察したいかというと、遠慮の方が少し勝つだろう。
 無論、未来に興味がわかないわけではない。もしかしたら、今後数十年で、身体が劇的に若返る薬が発明されて、未来の私は元気に外を駆け回っているかもしれない。これまでの四十年あまりを振り返ると、科学技術の進歩は著しく、悲観的になるのはまだ早いのかもしれない。
 では、もし今、この現時点で未来がみれるとしたら、その未来は絶対なのだろうか。
 確定的な未来を見た場合、正直それは幸せの前借りになろうが、既定路線の確認になろうが、悲劇の覗き見になろうが、あまりいい気分になるものではないだろう。決まり切った未来を知るというのは、現在への大きな束縛である。
 だが、もしも、未来は確定していないもので、これからの行動次第では変えられるような柔軟性を持ち合わせていたとしたら、どうだろう。無論、確定していないということは、もし幸福な未来を目撃しても、それは糠喜びになる可能性をはらんだものになるため、素直にその喜びを享受することはできないだろう。反対に、悲劇的な未来を目撃した場合は、それを一つの目印として、努力により、それとは離れた未来に帰着することもできるため、人生の道標ともなるだろう。
 確定している未来を見た場合、致命的な悲劇の檻に閉じ込められる可能性がある。対して、確定していない未来を見ることに、そこまでのデメリットはないが、少しのメリットを享受することはできるだろう。
 問題は、果たして未来が確定しているか否か、その判断は、未来を目撃した後でないとわからないということだ。

 そんなこんなで、古ぼけた万華鏡を眺めながら、柄にもなく適当な理屈をこねくり回した未来考察をしてみたが、そんなことを考えたところで、特に意味なんてない。この万華鏡も、きっと遠い昔に私が適当な落書きをして、そのまま押入れに投げ込んでいたものだろう。なんてことはない、意味も理由もなんにもない、子どもの悪戯だ。
 久しぶりに頭を使ったら疲れた。こんな時はなんにも考えず、綺麗なものを眺めて癒やされよう。
 そう考えて、万華鏡を目に当て、天井の光にかざした時、思い出した。

 私はこの光景を見たことがある。

4/19/2024, 1:54:32 PM