[真夜中]
暑さを冷やそうとベランダに出る。今日みたいな日には夜の風は心地良い。の、だけれど夜も更けた静寂の中で帰宅する酔っ払いの話し声がやたらと耳につく。
(うっるさ……)
良い気分だったのに耳に付く奴らの話し声に段々と気分が悪くなり溜息が溢れる。ビールを一口飲みながらさっき別れた君を思い出す。
「もう会いたくなるなんて……」
真夜中はどうにも人が恋しくなる。
人肌の温もりや、声が。
スマホを取り出してLINEの通話ボタンを押す直前で指が止まる。
(深夜の1時に、迷惑だよなぁ……)
ふ、と画面を閉じようとした瞬間、通知が鳴る。
君からのメッセージじゃない。見覚えのある番号からのSMS。
『会いたい』
「………………」
1年前に別れた元カノからの一言だけのメッセージ。彼女は別れた後も時々こうして俺にメッセージを送ってくる。頼る人が俺以外の誰も居ない孤独な女性だった。優しさを愛と勘違いして縋りついてくる弱い女性だった。可哀想な女性だった。
「……どうして俺は君を、見捨てられないんだろうな」
いつものように『大丈夫か』と返信すると、少しして通知が鳴る。
『ごめん』
『気にするな』
それ以降彼女からのメッセージが来ることはない。彼女が出来たと伝えて以来彼女とはこういったやりとりしかしてない。君は「優しくしてあげて」と言ってくれたが、君に不誠実なことはしたくなかった。
恋人に不誠実なことはしたくないのに、家族も友人もいない彼女を、別れてしまっても俺しかいない彼女を、どうしても見限ることなんて出来ない。中途半端な俺の優しさがどちらも傷付けているのにも気付いてる。
「はぁぁ……んっ」
ビールを飲み干して満点の空を見上げると、一際星が綺麗に見える。美しさに見惚れるとまたスマホが鳴る。今度はLINEの通話の通知。
「どうした?」
『眠れなくて。何してた?』
「……君のこと考えてた」
『なにそれ』
楽しそうな君の笑い声。いつの間にか酔っ払いの声は聞こえなくなって静寂の中で君の声だけが聞こえる。あれだけ静寂を切り裂く声に苛立っていたのに君の声はこんなにも心地良い。
真夜中は否応無く人の弱さを引き出していく。
きっと、誰の心も平等に。
[愛があれば何でもできる?]
「兄さんは愛さえあれば人間って何でもできると思う?」
「急に何だよ」
「友達が言っててさ。愛さえあれば人間は何でもできる、それが人間の強さだって。兄さんはどう?」
ズズッとコーヒーを啜りながら妹は兄に問いかけ、兄は手元の本から視線を外さずに淡々と答える。
「Noだな」
「なんで?」
「確かに良い面だけを見てたら大抵の人間がYESと答えるだろうけど、それは『例外』を作った状態での話だろ」
「例外ってなんかある? だって愛があれば人は限界を超えて努力できたりするのに」
「じゃあ妹よ、その愛する対象に『殺して』って言われたらお前は殺せるか?」
「あ……」
「大抵の人間が『希望はある』とか綺麗事を言いながら止めるはずだし、自分の手を汚すことはしないはずだ。そいつが心の底から求めていたとしても、殺すか逃げるかの選択を迫られた時どれだけの人間が前者を選択できる?」
「……少なくとも私だったら止めても無駄だとして、それでも殺してくれって迫られたら逃げちゃうかな」
「そうだ、人間なんてもんは基本的に身勝手な生き物でしかない。そう言い続ける奴らの愛は『自分が想像しえる犠牲しか払わない』という限定的な考えが根底に存在している」
「愛を信じてる人を全て敵に回すような発言しちゃってない?」
軽く苦笑して妹はまたもコーヒーを啜る。
「家族同士のただの雑談だ。誰に聞かれるでもない、敵に回すような奴はここにいないさ」
「確かに」
「愛する対象に殺してと言われてお前が真っ先に思いつくものは何だ?」
「引いたり、可哀想だな、身勝手だー、とか?」
「そうじゃなくて実行に移す想像をして自分に影響を及ぼすもので」
「……刑務所とか、逮捕、とか」
「ああ。愛する対象の望みよりもまず先に自分の人生を考えないか?『この人がいなくなったら自分はどうすればいいのか』『もし望みを叶えたとして殺人犯になってしまってからの人生は?』とかな」
「あぁ、……考えてしまう、かも?」
「今の世の中、人を殺して簡単に逃げおおせられるほど甘くはないし、運良く逃げられたとして、愛を信じきってる奴は実行に移したとしても罪悪感で押し潰されるか自首するかだろ?どの道未来は閉ざされたも一緒だ」
「兄さんは凄い極端に物事を考えるよね」
「そうか?」
「そうだよ」
兄は口元に軽い笑みを浮かべてそれきり黙る。時計の音がカチカチと部屋に響く。
「兄さんは、もし私が殺してって言ったらどうする? 止める?」
ページを捲る手が止まる。
「どうしても辛くて、それを求めてしまうほど終わりを願ってしまったら……」
「なに馬鹿なこと言ってんだ」
「馬鹿なことかな?」
「ああ」
「本当にお前がこの世に希望を見出だせなくて絶望したなら」
「したなら?」
「……唯一の兄妹だもんな」
そう言って兄はようやく目線を妹に合わせ、柔らかく微笑む。
「心中でもなんでもしてやるよ」
[後悔]
誰も理解できないという彼の言葉を否定したかった。そんなことない、と言ってあげたかった。
でも私自身が彼の言葉が本当であることを知っている。彼が私を理解出来ないように私もまた彼を本当の意味で理解することは出来ない。
だってそれが私達『人間』だから。
絶望に打ちひしがれる彼は昔の私と同じ。余所者だと部外者だと蔑まれてきた私と同じ。だから私には彼の痛みが痛いほど分かるけれど、それと同時に私の言葉は彼にとって何の慰みにもならないことも知っている。
「……仕方がないんだ」
掛ける言葉は目の前で蹲る彼に対してではない。
窓を開けると新鮮な空気が部屋に入り込む。憎らしいほどに青い空を眺めながら、自分を納得させるための言葉を吐く。
「理解したつもりになっているのが人間なんだから、きっと誰も本当の意味での理解者なんて得ていないんだ」
「……君は?」
「私はもう諦めているんだ。私が私自身の一番の理解者で唯一の共犯者でいることで決着をつけただけ」
「唯一の、共犯者……」
言葉を返さない代わりに瞳の中に君を捉え、微笑む。
この言葉の裏側にある悲しみを悟らせないように。
この言葉の裏側にある淋しさを悟らせないように。
この言葉の裏側にある孤独感を知らせないように。
私は孤独を選ぶことで今まで煩わされていた人間関係を断った。それはとても気楽で今までのことに比べたら凄く幸せだけど、これはとても孤独で勝ち目のない永遠に続く戦いのようなものだ。
社会の輪にいた頃は一人でいたいと願っていても、実際に一人でいることを選ぶと嫌になるほど人は一人では生きていけない生き物だと思い知る。
それは単純な生活の問題ではなく、精神面の問題だと愉快になるほどに悟ってしまった。人を恋しく思う気持ち、誰かの理解を得たいと、人の温もりを求める強い欲求。
生存本能よりも強くおぞましく、醜く穢れた感情の数々。
拭い切れない死への恐怖心と同じように、生きている限り切り離せない、私にとっては何よりも忌避したい欲求。
こんなにも他者との繋がりを求めてしまう感情を、私は孤独を選んで初めて知った。
「君は、強いんだね」
「何度もそう言われてきたけど、私は全然強くなんてないよ。必死になって弱い自分を守っているから強いように見えているだけだよ」
「でも、僕は君と同じようにはなれない。絶望しても、理解が得られないとしても、人との繋がりを断つことは出来ない」
「……それでいいんだよ。君は、それでいい」
同じになる必要なんてどこにもない。君には君の選択があって、人生があって、未来があるんだから。
それに何よりも。
君には私と同じ孤独の道を歩んでほしくない。そこがどれだけ茨の道であっても、こんな道だけは選んでほしくないと願うんだ。
(もし、私が君みたいに強かったら)
私は、全てから逃げ出す道以外を見付けられたのだろうか。
孤独ではない、この道以外を歩むことが出来たのだろうか。
そんな意味の持たない後悔に、私はまた空を見上げる。
[風に身をまかせ]
鳥を羨ましいと思ったことがある。
風に吹かれて自由に飛んでいける鳥に羨望を向けたことが一体何度あっただろう。
ああなりたいと今まで何度思っただろう。
あの青空に何度手を伸ばしただろう。
空(そら)を掴めなくて空(くう)を切るこの短い手に何度絶望しただろう。
私はあの青く澄み切った空を手に入れたかった。
手に入らないものだと理解していても心はあの空だけを求め続けた。ヒューと音を立てて一際強い風が吹き、私はまた手を伸ばす。俗世から離れた空に近い此処からだと私と空を遮るものがなくて、今だけこの空は正真正銘私だけのもの。
『どうして空に焦がれるの』
そう問いかけてきたのは誰だったっけ。
真正面に空が見える。
雲一つない蒼天は今日の門出に相応しい。
何よりも尊くて何よりも愛しい私の『空』。
風が強くて凛と腕を伸ばせない、あなたに伸ばす最後の手なのに。
あなたに伸ばす最初の手になるのに、触れられない。
ずっと生きて、ようやく私はあなたのものになれるのに。
何故、涙が出てしまうの?
空に焦がれ続けた私の人生。晴れやかな青空も、雲に憂いた空も雨に泣いた空も、満点の夜空だって何時いかなる時だって私はあなたを想っていた。愛し続けていた。
『魂に刻まれた“愛”だからだよ』
あぁ、ようやく私の願いが叶う。
嬉しい。私はあなたに還ることが出来るんだ。
あなたに焦がれたこと以外何もない人生だったけれど、最後に私はこの世で何よりも尊い愛に抱き締めてもらえる。
これ以上の幸福なんて、この世にありはしないでしょう?
――叶うと、いうのに。
(どうして……)
あなたの姿が段々と遠くなってしまうの……?
どうしてこんなに、…………。
「い、やだ」
嬉しいはずなのに涙が溢れる。
幸せなはずなんだ、私は幸せなんだ。
なのに、溢れる言葉と想いはあなたに触れられる幸福を拒絶するものばかりで。
ねぇ、私は間違えたの?
私が求めていたものはこれじゃあ、なかったの?
違う、違う。
私は『空』を求めていた。
青く輝く青空を、澄み切った貴方を私は確かに求めていた。
「わたし、まだ――」
『私、空が好き。友達じゃなくて、恋人に、なりたい』
『あ、……、お、れは……―――、――――――』
本当に焦がれた者の名前を口にする前に。
本当に焦がれた者の名前を思い出す前に。
―――私は地へと叩き落される。
[おうち時間でやりたいこと]
「なぁに見てんの」
「録り溜めしてたドラマ消化してるー」
そういやレコーダーにドラマめっちゃ入ってたな、と俺はドサリと彼女の隣に腰掛ける。
「そういや今日って帰んの?」
「帰るよ」
「明日休みじゃん。泊まればいいのに」
「やだ」
「なんで」
「我慢出来ないから」
「できるよ」
「君じゃなくて私がってこと。今日はちょっと、うん」
「別に俺は大歓迎なのに」
「こっちが我慢してるのに誘ってこないで」
「はいはい、悪かったよ。いやぁ、でも本当にお前の考え方には一周回って尊敬するわ。結婚前に肉体関係は結ばないって奴お前くらいなもんだよ。でもさぁ、それに付き合ってる俺も偉いと思わん? 従順な愛する彼氏に少しくらいご褒美くれても良いと思うんだけどー。んーっ」
「口突き出されてもちゅーしないよ」
「もー、そんな塩対応されちゃうと他の女の子のとこ行っちゃうよー? いいのー?」
「………………っちゅ」
ドラマから目を離して、ほんの少しだけ頬を膨らませて一瞬だけ押し付けられるだけのキスが降り、照れるように視線をドラマに移す。…………可愛すぎん?
「明日朝一で来るから」
「ん。楽しみにしてるわ」
こんなんで絆されるとは、俺もチョロくなってしまったもんだ。
恋愛において肉体関係は切っても切り離せない関係性だとずっと思ってたし、正直今だってそう考えてる。勿論身体の相性だけが全てでもないだろうが重要な要素の一つであることに変わりない。だからこいつに告白して『恋人になっても肉体関係は結ばない』って宣言された時はアホか?となったし、上手く言い包めたら簡単に抱けるだろとも考えてた。まぁ、全然無理だったけど。
でも、『おうち時間』なんてものが推奨されてマトモに外でデートだって出来なくなって、こうして家に籠もって何をするでもなく二人でダラダラと過ごす時間も悪いものじゃないのかもしれないと彼女と付き合うようになって思った。
「なっ、明日なにする?」
――3年後――
「まさかお前と結婚すると思ってなかったわ」
「そう?」
「うん、今だから白状するけど付き合いたての頃お前といるのつまんなかったし」
「抱けなくてもいいって言ったの誰だったっけ?」
「だからって本当に彼女を抱けないで終わるって誰も思わんって」
膝の間にお前を抱えながら喋り続ける。結婚式も済ませてそのまま来た新婚旅行の夜。正真正銘の『初夜』。
「この日をずっと待ってたはずなのになんか気恥ずかしいな」
「そう?」
「お前違うの?」
「うん。嬉しい気持ちのほうが大きい」
そう言って俺の方を振り向いて笑いかけてくる。……はー、可愛い。
「でもよく4年も待てたよね。待たせた側が言うことじゃないけど。よく私と結婚したね」
「それは、……『おうち時間』のお陰?」
「疑問形なの?」
「うーーん……、あの時ずっと一緒にいたじゃん。二人でだらだらだらだら過ごしてた時間が当たり前になってさ、それが妙に心地良くて、そんで「今でもこうして楽しく過ごせてんなら結婚しても何も変わんないな」って思ったんだよね」
「…………………………っ」
「どした?」
なんか俯いてぷるぷるしてる。かわいい――
「へっ?」
と思ったらベッドに押し倒されてた。
「そんなこと言われたら我慢できるわけないよ。もう我慢しないからね!」
「うわ〜、俺の奥さんかっこい〜」