小さな幸せ
幼少の頃、母のストレスのはけ口にされ、ネグレクトされ、つらい毎日だった。朝食は、夜仕事に出て朝帰る母は寝ていて、昼も寝ていて、夜、出かける前にカップ麺か菓子パンを1つ放り出していく。1日1食だった。
その出掛け、いきなり突き飛ばされたり、蹴られたりすることがあった。何が起こったか分からないまま、母は鍵をかけて出かけていく。
毎日、外に出ることもなく、ひもじい私は、アパートの一室で膝を抱えていた。幼児だから一人でシャワーを浴びる才覚もなく、汚くて臭かったと思う。
ある日、アパートのドアの鍵が急に開いて、大人が入ってきた。管理人のおじさんと、かすかに知ってるおばさんだった。「マリン!」と叫び、そして、「この子です!管理人さん、ありがとうございました」おばさんが言った。
母の母、つまり祖母だった。「マリン!こんなになっちゃって」汚い私を抱きしめて、背中を擦ってくれた。
そこから、私の人生が激変した。細かいプロセスは小さいから分からなかったが、私は祖母に引き取られ、祖父亡き後の家に引き取られた。
温かいお風呂に祖母と2人で浸かったときは、今まで知らなかった気持ちよさに、滂沱の涙を流した。「マリン」祖母も泣いて、私の手をぎゅっと握ってくれた。
出来立てのご飯を貰って食べた時は、美味しくて美味しくてまた泣いた。
それからは、そういう生活が続いて、私は祖母の下で成長した。母は1度も現れなかった。現れなくて良かったと思う。時々あの頃の生活を思い出して震えることがあったから、会ったらどうなったか想像がつかない。10代で私を産んで、母もたいへんだったのだろうけど、それは今なら思うことだ。
祖母が現れた最初の頃の感動は、小さな幸せなんてもんじゃなかった。大きな大きな幸せで、世界の色が変わった。私は救われたんだと、子ども心に理解していた。
No.151
春爛漫
だいぶあったかくなってきた。ガード下のいつものねぐらで、毛布をはねて寝ていた。ここに住んでもう5年、お気楽でいい。
家族や仕事に気を使うこともなく、起きたい時に起きて、眠たくなったら寝てる。1日に1回か2回、メシを貰うためにコンビニにへつらって店の前を掃除する、なんてことはするが、嫌なことはそのぐらいだ。
あちこちからアルミ缶を集めて売ってくる仲間もいるが、俺はやらない。やってみたことはあるが、自販機の空き缶入れから持ってこようとして警察呼ばれたし、アルミ缶だって、集まると重いんだぜ。
時々、「俺はこんなところで何をしているんだ?」と自問自答してみるが、考えるのがきらいだから、いつの間にか寝てる。
さぁ、今日は散歩に行くか!ここから少し歩くと、小さな公園がある。狭い段ボールの家でずっと過ごすと、からだに悪いかなと思い、時々そこまで行って帰ってくる。俺なりの運動だな。
今日は、本当にあったかい。歩いていたら汗が出た。だが、公園の手前からどうも人が多い。ぞろぞろと、俺と同じ方向に歩いている。なんなんだ?やりにくい。
公園に着いたら「これか!」と腑に落ちた。入り口と真ん中にある大きな木に、桜がいっぱい咲いている。おとといも来たが、気が付かなかった。桜の木だったんだ!みんな、あれを見に来たんだな。
しばらく、遠くから桜を眺めた。もっと近づくと、きれいなカッコした人に、臭いって言われると悪いからな。桜、ホントにきれいだ。なんだっけ、これ?
あー、春爛漫って言うんだったなぁ。
No.150
七色
部屋の隅で、何かがかすかに動いている。しゃがんで目を凝らすと、カミキリムシだった。そのまま、背中のところを持って、テーブルに置いた。背中の羽が七色に光って綺麗だ。
「お前、どこから来たんだ?」思わず聞いてみたが、むろん返事などしない。黙って、長い触覚をゆらりと動かす。冬だから、窓はほとんど開けないし、体長3センチはあるカミキリムシが、どこから来たのか不思議だ。
しばらく、その七色の背中を眺めていたが、ふと何を食べていたのか気になった。いつ入り込んだか分からないが、その間ずっと食べられなかったとすれば、弱っているに違いない。
調べたら木の葉や花びらを食べるようだが、男やもめの殺風景な部屋に、観葉植物など無い。
可哀想になって、外に出してやろうと思った。近くにあったクリアファイルに乗せて、顔をよく見た。
「ん?お前、寒さに弱いかな?」
小さな口をモシャモシャ常に動かしている。「ん?『枯れた草の下で越冬する』かぁ」
庭に出て、植え込みの根元のあたりに置いてみた。カミキリムシはもそもそと移動して、枯れ葉の陰に消えようとしていた。
その七色の背中を、しばらくオレは眺めていた。
No.149
記憶
私には、2歳の時の記憶がある。
まさかと思って、大きくなってから両親に確認したら、その通りだった。
暮らしていた家にL字型に土間があったこと。そこから靴を脱いで部屋に入ったこと。昔の家だから、土間をぐるりと囲むのはガタピシいうガラス戸だったこと。2部屋あって、親子3人川の字で寝ていた奥の部屋の、その奥にトイレがあったこと。家の前に竹藪があって、家の横は簡単な竹垣だが、脇は崖だったこと。反対側にあと数軒、同じ向きに戸建てが並んでいたこと。竹垣に小さなアマガエルがいたこと。土間から続く居間には囲炉裏があって、そこでニンニクやネギを焼いて、両親が美味しそうに食べていたこと。
どうしてそんなに覚えているのだろう?その後引っ越した家の記憶は、官舎だったが、隣の家の人がうちを通らないとトイレに行けない作りで、小さな引き戸を開けて入ってきたおばさんが、いつも肩身が狭そうだったことぐらい。
うちの両親は毒親だったと、前にも何度か書いている。だが、両親に暴言を吐かれたり殴られた記憶が、その頃は1つも無いのだ。
さすがに2歳の私は、不細工でも可愛い盛りだったろうし、成績も進路も健康も関係なく、思い通りにならなくて苛立つこともなかったのだろう。加えて、まだ甘い新婚の延長だった。
実は、その後父はさんざん浮気したので、ケンカも絶えなく、夫婦仲が非常に悪かったが、そのストレスが夫婦双方、そして私に向けられたのではないか?
つまりは、私にとって最高に幸せだった時期だから、幸せな記憶が強烈に残っているのだ。
No.148
もう二度と
高校生の時、先輩が「ちょっと紹介したい友だちがいるから、一緒に来い」と言う。
まぁオレも特に予定が無かったし、軽い気持ちで着いて行った。
街なかの一戸建てで、春先の爽やかな風が通る家だった。きれいに片付けられていて生活感が無い。
「岡田さん、見込みのある奴を連れてきました」先輩が、奥の部屋に居た20代の男性に声をかけた。
「おう!君はいくつ?」
真っ直ぐな目をした青年だった。じっと見つめられて、オレは少し動揺した。
「じゅ、17歳になったところです」
「そうか若いな。この窓から見える景色をどう思う?」背後の窓を指して岡田さんは言う。
「どう・・・って、普通の景色だと思います」
窓の外は、背の低い植え込みがあり、その向こうを、時々車が通り過ぎるだけだった。
「そうだね。この普通の景色を、普通に維持するのは意外にたいへんなんだよ」
「あ、はい」
「まぁ、ゆっくり過ごしてくれ」
ゆっくり過ごせと言われても、生活感の無い家は、居心地が悪かった。先輩は岡田さんと話している。それで、許可を得て他の部屋にも行ってみたが、他にあと3人居て、それぞれ壁に寄りかかったり、窓から外を見ていた。
いくつかある部屋の1つに小冊子が置いてあった。退屈だし手にとって見てみる。そこには、ニュースで話題になっている新興宗教の教祖の名前があった。
オレは、先輩と岡田さんの居る部屋に行き、「家族と約束していたのを忘れていました。帰ります」「うん、気を付けてな」先輩は岡田さんと熱心に話しているせいか、妙にあっさりしていた。
もう二度と、あの家には近寄ってはならない!本能的に感じていた。
誰も追ってこないのに、オレは小走りになっていた。
No.147