宝物
桃太郎は、鬼ヶ島に乗り込んで、大勢の鬼たちを犬、猿、キジの協力を得てやっつけた。鬼たちは都に行っては、街を荒らし家を荒らし、人々の命や宝物を奪った悪者集団だからだ。
さて鬼たちを屈服させたあと、桃太郎御一行様は、鬼たちが奪った宝物を奪い、凱旋した。「心配して待っていたおじいさんやおばあさんと幸せに暮らしましたとさ」
っておいっ!その宝物は、都の人々から奪ったものだから、それで幸せに暮らしたらいけなくないか?
昔から気になっている、オレの疑問。
キャンドル
揺らぐ炎と、流れる水の音、ちょっと湿った土の匂い、どれも安らぐし癒やされる。何か、人間の本能に訴えかけるものが有るのだろう。
決して、蛍光灯や電球の灯りではない。焚き火やキャンドルの炎が揺らぐのは、なんとも美しいし、いつまでも見ていられる。
ましてや、好きな子と手を繋いで歌いながら見つめたキャンプファイヤーの炎は、もう10年も前の話だが今でも忘れられない。
彼はイケメンとまではいかないがとても優しい目をしていた。キャンプファイヤー直前のフォークダンスのとき、私が次に控えているのを知ってこちらを向いて微笑んだ顔に萌え、私はたった数秒で彼が好きになった。
最初の印象と同じで、彼は限りなく優しかった。その優しさによりかかり、わがまま放題に過ごした私は、と言うか二人は、卒業と同時に憑き物が落ちたように別れた。今思い出しても惜しい気がするが、流れでそうなったのだからしょうがない。
キャンプファイヤーの、炎の魔法にかかってしまっていたのかも知れない。
たくさんの思い出
行きてきた中で、いろいろな場面でいろいろな思い出ができた。良いことも悪いことも、抱えきれないほどのたくさんの思い出。さて、この思い出をどうしよう。
あの世というものに行って、戻ってきた人に会ったことがないので、人の記憶がどうなっているのか分からない。死んでしまったら、今までの記憶どころか、魂すらも消えて跡形もなくなるのか、この世から消えるだけで、いつでも知り合いや家族のところに行けて、様子を見られるのか。後者なら思い出もそのままなので、懐かしんで語り合う相手はいなくても噛み締めることは出来る。
そう言えば人の記憶は、とにかく一度見たり経験したことは、全部脳に残るそうだ。あとは、その引き出しをどうやって開けるのか。3割程度しか覚えていないし、引き出せない思い出だそうだ。
それが、あの世に行ったら全部蘇るのなら、死ぬのも悪くない。悪い思い出は、出てきてもさっさと捨てて、毎日いい思い出を反芻してニヤニヤして暮らすのだ。
冬になったら
冬になったら、前回の冬の終わりにバーゲンで手に入れた、真っ白なコートを着よう。雪のように白いから、雪が多いこの地方では映えるよね。大切にクローゼットで眠っているあの白いコートを。
そう思って、雪を楽しみにしてたんだけど、街が一面の雪に覆われたら、私のコート姿は全然目立たない。
雷鳥は、夏の間茶色ベースの斑だけど、冬になると真っ白になる。それは、雪の中で外敵に見つけられにくくするためだった。
真っ赤なコートにすれば良かった!
はなればなれ
昔は、芝居や講談、浪曲で有名だった国定忠治という大親分がいた。要するに、今でいうヤクザさんで、博打や侠客として名を馳せていたのだから自慢できた話ではないが、人情家で子分思い、天保の大飢饉のときには私財をなげうって人々を救ったと言われている。
その一派が、赤城山まで官憲に追い詰められ、ついに最後のとき、忠治が子分たちに言ったのだ。
縄張りや国も捨てて、赤城の山とも、お前たちとも、今夜がはなればなれになる門出となる。お前たちも頑張れよ!この刀が(と、愛用の刀に)俺の生涯の相棒だった!
という内容のセリフを言うくだりは、芝居でも講談でも、たまに映画で描かれても、大喝采の山場だったという。
群馬の人々には自慢の大親分で、静岡の清水次郎長と一二を争っていたらしい。
ただ、時代も時代、今はヤクザさんを称賛するのもねぇ、という流れで、人々の心からも、もう、はなればなれになってしまっているのはしょうがない。