「世界が壊れるってなんだろうね」
頭蓋の隙間からするりと落ちてきたような一言は、どこか遠くに逃げていた意識をあるべき場所へとすとんと落とした。
並んで見ているテレビの中、いつも淡々と話しているアナウンサーが、目頭を押さえながら緊迫した声で非現実的な出来事を読み上げる。
ある日突然世界に空いた穴はついに太平洋の大部分を飲み込み、もうあと一週間ほどで本州に到達する勢いだそうだ。
SNSでは恐怖と諦念の奔流があちらこちらで噴出し、神に救いを求める人、見たこともない穴の中に夢を見る人、手当たり次第に怒りをぶつける人で溢れかえっている。誰も彼もが日常から切り離されて宙ぶらりんになってしまった感情を持て余していた。
「明日からどうしようか」
「映画ならたくさんあるよ」
緊張感のない言葉に二人して吹き出す。
初めて世界に穴が空いた日。小さな小さなそれを皆が面白おかしく騒ぎ立てていて、その例に漏れずどこか非日常に浮かされていた自分たちが買い込んだものだ。
ラインナップにもそれが色濃く映し出されていて、世界滅亡系やら、酷評されていたものやら、いわゆるZ級映画やらでまともなものは数本しかない。
「もっとちゃんと選んどきゃよかった」
「ちゃんと選んだじゃん」
「どこがだ」
「止めないのが悪い」
隣の頭に軽くチョップを振り下ろせば、暴力反対と大袈裟に痛がる素振りをする。追撃すればそれを見切ったように躱し、パッケージにサメが描かれた映画を取り出すと再生機に入れた。
「電気が通ってるうちに全部見るから覚悟してね」
テレビの画面がニュースから切り替わる。
ちらりと見えたアナウンサーの頬には涙の筋ができていた。
二人でいるとまるで平穏な日々の中にいる感覚に陥る。だが一瞬の静寂にそこが既に崩れてしまった場所なのだと思い知らされる。
もう手が届かない日常は沈み、一週間だけの小さな非日常は進んでいく。
じっと画面を見つめる横顔に置いて行かれまいと、ふと息を吐き出し、画面の中の世界へと一つ踏み出した。
「先輩、もう卒業ですね」
「うん」
窓を開ければ今にも綻びそうな蕾の青い匂いの風がカーテンを揺らす。
春めいた柔からな日差しが私達二人を包み込むように優しく照らしていた。
いつになく穏やかな時間は嫌でも別れのときが近いことを意識させられる。
「寂しいです」
「電話するから」
素直に溢せば、優しく笑って宥めるような言葉が返ってくる。
それが寂しい。
からかいと呆れの装飾が外された振る舞いは、よく知っていたはずの彼を遠くの存在に感じさせる。
心臓から目頭へと熱が込み上げてきて、今にも涙に変わってしまいそうだ。
「お前も来るか」
多分これが最後のチャンスなのだ。
言葉を変えて何度も差し出されてきた、別れを遠ざけることができる選択。
わかっているのに動けない。
首をほんの少し動かすだけでいいのに、まるで冬が帰って来てしまったかのように冷たい日差しが私を縫い留める。
「なんてな」
「私には夢がありますから」
何度も返した言葉を吐き出す。
いつものように返せただろうか。
彼を見ていることができなくて、ようやく動けるようになった体で窓の外、どこか遠くを見やる。
「電話くださいね」
「うん」
「待ってますから」
「うん」
「メールもチャットも……手紙だってほしいです」
「全部送るよ」
優しい言葉はさよならにしか聞こえなくて、速くなる鼓動が目から涙を押し出した。
ぼやけて何もかもが混ざり合う景色の中で、よく知っている手の温かさだけが私が縋れるすべてだった。
金曜日が満月だったら月を見よう。
月を見ることを言い訳にして、ただ二人でだらだらと夜を過ごす日。
学生時代は毎月の恒例行事だったが、お互い社会に出てしまい平日の夜更かしができなくなったことで、半年に一度開催できるかどうかの頻度になってしまったそれが今日である。
会社からの帰り道、少し良いお酒とおつまみを買って帰宅ラッシュの電車に乗り込む。
人混みでうんざりする心も今日ばかりは手にぶら下がる重みによって少しだけ浮き足立つ。
いつも何をするかは決めていない。本当に月を見る日もあれば適当に映画を見る日、ゲームをする日、お互いが別々に好きなことをする日もある。
ただ決まっているのは空が明るくなって、月が完全に見えなくなるまで起きること、もし相手が寝てしまったら叩き起こすこと、それだけ。
防音性がそこまで優れていない部屋で、月明かりだけを頼りに夜を越す。まるで一日だけの秘密基地だ。
ポケットに入れていたスマホが震える。
メッセージアプリを開いてみれば、どうやら相手も仕事が終わったようだ。
続いていくつかの写真が送られてくる。
お酒とお菓子と何かのアナログゲーム。そういえば最近気になっていると言っていた気がする。
今夜のお供が決まったところで、電車のドアガラスの向こうを見れば東の空に月が掛かっているのが見えた。
まだ低い所にある丸い大きな月に、少しでも長くこの夜が続いてほしいと願わずにはいられなかった。
夢と夢が移り変わりるその隙間。無意識に開かれた瞼をカーテンから漏れた光が撫でた。寝起きでぼやけた世界は、一度強く目を閉じると見知らぬ部屋へと変わる。
白いシーツはさらさらとしていて、ルームウェアは少しごわついている。背中側が温かく、ベッドが自分以外の重みで沈んでいる。
それがどういうことなのか。都合良く忘れてしまえるほど酔っていた訳ではなかった。
寝起きの頭が昨日の記憶を突きつける。
やけに喉が乾いているその意味を。
ずっと見ないふりをしていた感情を。
背中の重みがゆっくりと撓む。
続いて聞こえたくぐもった声に逃げられないことを悟った。
幾年前からやってきたどこかの星の微かな光だけに照らされた宇宙船内。重力を忘れた私はただその船内をプカプカと浮いて、窓の外の星を見ていた。
たぶん私が地球にいた頃に見ていたはずの星もあるのだろう。
一度目をつむり、眠ってしまった家族を起こさないよう、静かに望遠鏡を覗き込んだ夜を思い出す。
開けるのにコツがいる建て付けの悪い窓を開けば、ひんやりした夜風が肺を満たす。揺れるカーテンを横目にゆっくりと筒の先端へと目を近づけた。
けれどそこには何もなかった。
黒い丸の中にあった沢山の白い点。それらがどんな風に輝いていたのか。
風に靡いたカーテンの色。
静かに窓を開けるコツ。
眠っていた家族の顔。
無理矢理思考を断ち切って目を開く。黒い丸窓では星々が輝いている。息を吐いて今の寂寥を胸から追い出した。
持っていけなかったものはあまりにも多い。一つ一つを悲しんでいては、悲しみの澱で体が重たく沈んでしまう。
何もない船内にアラームが鳴り響く。
無重力の空間を泳ぐようにして、床近くの重力スイッチをオンにする。途端に体が重さを思い出して、ドサリと床に倒れ込んだ。
起き上がってアラームを止めれば食事が出てくる。仕組みも原理も忘れたが、この小さいキューブを食べ続ける限り明日が続いていく。
それを一口で放り込んで、飲み込んだ。
それから椅子に座り日報を書き始める。
昨日のデータを振り返り、日付と地球を出てからの日数を確認し、機械的にそれに一を足した。
昨日は日付の後はその日に目に映ったものについての記述が続いていた。
今日もそれに倣って書こうとして手が止まる。
どうして日報を書いているのかわからなくなってしまった。書いたところで誰が読むのだろうか。
もう戻れない場所にいる誰かか。
顔も思い出せなくなった家族か。
いるともしれない宇宙人か。
沈み込みそうになった思考を引き上げる。先ほどの記憶に引きづられているようだ。
これ以上何かを考えてはいけないと警鐘が鳴る。
一つ息を吐き出した。
止まっていた手を無心で動かし始める。
今日は唯一の読者に向けての言葉を綴ることにしよう。
××××年×月×日
地球を出て××××日目
おやすみなさい
また明日