遠くの山から、近くの木から他の音をかき消すようにミンミンと声が降り注ぐ。おかげで首から下げた虫かごの中はセミの抜け殻でいっぱいだ。
こちらに背を向けるようにして咲いたひまわりがかろうじて日陰を作ってくれているが、それでも8月初めの暑さの前では汗が流れるのを止めることはできない。
そんな暑さの中、僕はただまっすぐ伸びる何もない道をひたすらに走っていた。
ポケットにはお手伝いをして貯めた10円玉が7枚。両手にはおじいちゃんに持っていけと言われたお酒の瓶を2本抱えている。汗で滑って落としてしまわないよう、ぎゅっと握り締めている。
外に出る前におばあちゃんが被せてくれた麦わら帽子は、走るうちに頭から外れてしまって今や首からぶら下がるだけ。汗でびしょびしょになってしまった頭を撫でる風が気持ちいいからそのままにしていた。
途中で枝分かれした道を曲がると、そこにはお目当ての駄菓子屋がある。
店の中へと転がるように駆け込んで、息を切らせたまま駄菓子屋のおばちゃんに半ば突き出すようにお金と瓶を渡す。
「おばちゃん、ラムネちょうだい」
「はいよ」
おばちゃんはそれらを受け取ると、裏から氷水でよく冷やされたラムネを取り出して、タオルで軽く拭いてから渡してくれた。
「ありがと」
ガラス瓶に入ったラムネは、普段目にするプラスチック製のそれより少し重い。それが嬉しくて、息を整える間もなく店の外にあるベンチへと向かう。
座ったベンチは太陽に温められ、思ったよりも熱かった。一度座り直してから、逸る気持ちを抑えて握りしめたラムネを見る。
少しずんぐりとした形の瓶を太陽に翳せば、陽の光が反射して輝く。透明な瓶が青色に染まって、小さな空が手の中に収まっているみたいだ。
ガラス瓶はひんやりとしていて、おでこにあてるだけでも気持ちいい。
でもこのままだと温くなってしまうから、惜しく 思いながらもおでこから離し、太ももで固定してピンクの蓋でビー玉を力いっぱいぐっと押した。
勢いのいいプシュッと少しくぐもったカランが聞こえた後、シュワシュワと泡が立ち昇る音がする。
音が聞こえなくなってから手をどけて、ラムネに口をつける。
手で温められて少し温くなっていた瓶の口から、よく冷やされたラムネが流れ込む。口の中にピリピリと突付かれるような刺激とスーッと澄んだ甘さが広がる。
傾ける度にビー玉がカラコロと鳴るのが楽しくて、夢中で飲んでいればあっという間にラムネはなくなってしまった。
飲み終わったら瓶は返さないといけない。本当は持ち帰りたくてたまらないが、それがルールだと言われた。
だからビー玉だけでも欲しいが、自分の力では飲み口を外せないのだ。今日は一人で来てしまったから、一度持ち帰らないと取り出せない。
「おばちゃん」
どきどきしながら駄菓子屋に戻りおばちゃんに声をかける。
なんだい、とおばちゃんが優しく聞き返してくれたのに背中を押されるように、言葉を続ける。
「瓶返すの、ビー玉取ってからでもいい?」
「はいよ、おじいちゃんに頼みな」
おばちゃんが笑って、また買いに来なね、と手を振ってくれる。それに手を振り返して、行きと同じように走って帰る。
手に持った瓶からビー玉がカランコロンと音をたてる。ラムネみたいに透き通ったビー玉が手のひらに乗るのが待ち遠しい。
ひまわりの青々とした匂いとセミの声を聞きながら、僕は浮足立った足のまま思い切り地面を蹴り上げた。
今なら夏の空に手が届きそうだ。
21時を過ぎる頃。
にゃおんという鳴き声と共に、何か柔らかいものが窓ガラスにぶつかる音が鳴る。
もうそんな時間かと、何となく眺めていた動画サイトを閉じ、早足で音の鳴る方へ向かった。
カーテンを開けるとそこには1匹の白い猫が澄ました顔で佇んでいた。
首輪こそしていないが、綺麗な毛並みと人慣れした様子から飼い猫なのではないかと予想している。
だがどこの誰に飼われているか等はさっぱりわからない。ただ、私がこの家に引っ越してきた当初から毎週金曜のこの時間になぜかやってくる謎多き猫なのである。
カラカラと窓を開けると、まるで挨拶するように猫がひと鳴きする。
「おかえり。帰らないんなら帰らないって連絡してよね、心配したんだから」
怖がらせないよう心がけながら少し怒ったような声で話しかける。
先週のこの猫は怪盗だった。帰り際に私の心を盗んでいったということになっている。
その前は友人。さらにその前は相談相手。他にも恋人、家族、好きな俳優、見ていたドラマの主人公等々。そのときの気分と勢いで猫と私の関係は決まる。
週に1回の一方的な関係。
喋る人のいない一人暮らしがそこまで寂しくないのは、この時間のおかげなのかもしれない。
ちなみに今週は外泊ばかりする同居人である。
「まあ無事だったからいいけど。ちょっと待ってて水取ってくるから」
そう言って私は一度部屋に戻ると、水入れと天然水のペットボトルを持って窓辺へと戻った。
カリカリを用意しようかと思ったこともあるが、推定どこかの家の飼い猫に勝手にあげていいものか悩んだ末、給水所となっている。
「よく買い置きしてた水ってこれでいいんだよね? 違ってても文句言わないでよ」
にゃおと鳴く声は返事をしているようにも、早く寄越せと言っているようにも聞こえる。
当たり前だが水は私が勝手に用意しているものである。インターネットによると猫には中性の軟水が良いらしいので、南アルプス産の水をあげている。
会話しているようなその声に笑ってしまった表情を引き締め、とくとくと水を注ぐ。あくまで私は中々帰ってこないこの同居人を心配しつつ怒っているのだ。
水を注いで猫の前に置けば、待ってましたとばかりに器に顔を寄せはじめる。
「ねえ今回はどこに行ってたの?」
「明日友だちとご飯行くんだけどさ、服が決まらないんだよね。スカートにすべきかパンツにすべきか」
「最近本当に暑くない? もうじめじめして嫌になっちゃう」
他愛ないことを適当に喋っている私を無視して、猫は水を飲み続けている。これもいつものことである。
どうやら猫は私をうるさいだけで無害と判断したようだ。ちらりともこちらを見ない。
ただしこのときに触ろうとしてはいけない。一度あまりにも大人しい様子につい手を伸ばしたら逃げられてしまったのだ。
しばらくしてもう十分なのか猫が顔をあげる。気まぐれな猫は機嫌がよければこの後触らせてくれるが、今日はどうだろうか。
期待を込めて見つめていたが、猫は立ち上がりくるりとこちらに背を向ける。
「あ、もう行っちゃうの」
猫は残念そうな声をあげた私を一瞬振り返り、にゃあとひと鳴きし走り去ってしまった。
「ちゃんと帰ってきてね」
夜に消えてしまった今日限定の同居人に声をかけ、水入れを回収する。
去ってしまった背中を寂しく思いながら、それでも私は来週のあなたが何になるのかを考えると楽しみでしょうがないのだ。
「飴、どうぞ」
カラカラとキャスター付きの椅子が近づく音が側で止まると、スマートフォン片手にお昼ご飯を食べていた私の前に飴が差し出された。
ピンクと金色の小花柄の包装紙に包まれた四角い飴だ。
「ありがとう。あ、この飴昔よく食べてました」
様々な花に彩られた黒いパッケージは、子どもの目には少し背伸びをした可愛さとして映り、よく親に買ってとせがんでいたのを覚えている。
子どもの頃は、今目の前にあるものと同じ、甘いバター味が好きだった。自分で買うような年齢になると、それより少しさっぱりしたヨーグルト味を好んで食べるようになっていた。
思い出したら食べたくなってきた。今日の帰りにコンビニにでも寄って買って帰ろう。
「この飴大好きで、切らさないように家に絶対1つはストックしてたんですけど」
背もたれを抱えるようにして座る彼女は、そこでこちらの反応を窺うように言葉を切る。
思わず少しだけ身を乗り出した私に、彼女は深刻そうな表情で告げた。
「生産終了しちゃったんです」
「ええっ」
手元のスマートフォンに商品名を打ち込むとサジェスト欄に生産終了の文字が表示されている。
一縷の望みをかけて検索ボタンを押すと、そこには数ヶ月前に生産終了した旨の情報が並んでいた。
「どうりで最近あんまり見かけなかったんだ」
思わず頭を抱えてしまう。もうあの味を食べることができないなんて。
「本当にこれもらっちゃっていいんですか? 貴重な1個なんじゃ」
「いえ、生産終了のお知らせが出たときにまとめ買いしてるんで大丈夫です」
彼女はわざとらしくきりっとした表情で、飴を返そうとした私の動きを押し留めた。
それならばと絶対に噛まずに舐めきることを心の中で誓い、飴をポーチに仕舞った。別れを惜しむのは家に帰ってからゆっくりとしよう。
「今いろんな人にこの飴配ってるんですよ。そうすれば思い出してくれるじゃないですか」
彼女はもう一つ飴を取り出すと、包みを開いて口に入れた。
じっくりと味わうように一度目を瞑る。手元は小花柄の包装紙についた皺を丁寧に伸ばすよう動いていた。
しばらくして、呟くように言葉を続ける。
「似たような味の飴は確かにありますよ。でも同じではないんですよね。形とか、溶け方とか、鼻に抜ける匂いとか。やっぱりなんか違うなってなっちゃうんです」
ずっと食べ続けてきたからこそ、僅かな違いが気になってしまうのだという彼女の表情は、寂しさの中に誇らしさに似た感情が浮かんでいるように見えた。
それから丁寧に伸ばされた包装紙を手のひらに乗せ、こちらに見えるように差し出される。
「この見た目も好きなんです。こんな可愛い包み紙のお菓子ってあんまりないじゃないですか」
「ああ、わかります。子どもの頃はこの包み紙集めてましたもん」
「あ、それ私以外にやってたって人初めてです」
照れくさそうに実は今もちょっと集めてるんですよ、と彼女は続ける。動画サイトやsnsを参考にしながら小物を作ったりしているそうだ。
見せてもらった写真に映る小物はどれもよくできていて、それをそのまま伝えれば、彼女は抱えた背もたれを左右に揺すりながら更に照れくさそうにしていた。
「いやあ仲間に会えてよかったです。折角なんでもう1つどうです?」
魅力的な誘いについ伸びかけた手を引き戻し、そのままぐっと握り拳をつくってみせる。
「いや、頑張って店で探してみます」
「お、修羅の道を行きますね。私でさえ最近は全然見つけられませんよ」
「見つけたら1個あげますね。今日のお返しに」
楽しみしてます、と笑って、彼女はカラカラと音を鳴らして元の場所に戻っていく。
それを見送ってから急いで残り少ないお昼ご飯を食べると、ポーチからもらった飴を取り出す。
家でゆっくりと味わうつもりだったが、話していたら今食べたくなってしまったのだ。
包み紙を丁寧に剥がす。ふわりとバターが香るそれを口に入れれば、過去の記憶よりもずっと甘く感じた。
「めでたし、めでたし」
眠りに落ちる寸前。柔らかな母の声が紡ぐ物語の締めの言葉。何度も何度も同じ物語をせがむ私に、ちょっと困った顔をしていたことをなんとなく覚えている。
お姫様が王子様と出会って幸せになる。私にとってはまだ恋というものが物語の中でキラキラと輝くだけものだった頃の話だ。
あれから何年も経ち、恋というものがただ綺麗なだけのものではないことを知った。通話越しに涙を流す友人の話を夜通し聞いたこともある。
必ずしもめでたしで締めくくられるものでも、喜びだけが存在するものでもない。寧ろ友人の声に滲んでいた悲しさや苦しさが、恋の本質なのではとすら思ってしまう。
そんなことを考えるようになり、お気に入りだった物語のお姫様が眠ってしまう年も過ぎた。けれども私にとって恋というものはどこか物語の中にあるものだったように思う。
まだ蕾すら膨らんでいない桜の木の下で、手のひらに乗った第2ボタンを握りしめる。
部室棟の近くにある裏庭には意外なことに人がいなかった。校舎側から聞こえる3年生との別れを惜しむ声だけが微かに聞こえてくる。
今頃はもう、このボタンと共に3年間を過ごした持ち主は、友人の輪の中に戻っているのだろう。
近づいてくる足音がどこにもないことを確認して、私は木の根元にしゃがみ込んだ。
告白されたのなんて初めてだ。耳を真っ赤に染め上げたその人は戸惑って何も言えない私に、返事はいらないから、と言ってくれたが、何も考えないなんてことは到底できない。
付き合うか付き合わないか。そもそも私はあの人のことが好きなのかどうか。様々な感情が混じって何も分からなくなりそうだ。
好きか嫌いかならもちろん好きだ。
部活の始めの頃、何もわからない私に優しく根気強く教えてくれた。うまくいかずに落ち込んでいれば励ましてくれた。
もちろん私一人にだけという訳ではなかったが、初心者だった私には特別目をかけてくれていたように思う。
そのうち部活以外のことも沢山話すようになって、憧れはそのままに気安い関係になっていった。
そうして2年間をともに過ごした。
もう会えなくなってしまうのは寂しい。
そこではたと気づく。卒業式の後に部活の三送会があることに。
スカートのポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開く。三送会の出欠を確認すれば、当然のように出席のところに先輩の名前があった。
これで会えるのが最後だから、なんて言っていたが三送会のことを忘れていたのだろうか。忘れていたのだろうな。
誰もいないのをいいことに、込み上げてくる笑いをそのまま音に乗せる。
しっかりしていると思っていた先輩は、意外なことに、抜けている面を見せることが多々あった。そういう一面を知るごとに親しみやすさが湧き、こっそりとかわいいなとすら思っていた。
スマートフォンを仕舞い立ち上がる。スカートの皺を整えるついでに、縮こまっていた体をぐっと伸ばした。
大切なのはきっと向き合うことだ。物語の中のものとして遠ざけないで、自分のものとしてこの絡まった感情を見つめていこう。
知らないのなら知っていけばいい。分からないなら分からないなりに答えを探していけばいい。
その結果めでたしで終わらなかったら、そのときは友人に泣きながら話そう。
すっかりと体温が移ってしまったボタンをブレザーのポケットへと滑り込ませ、確認するように上から触れる。
大きく息を吸い込み一歩を踏み出せば、硬い蕾の中から春の匂いがした気がした。
夢の中に不意に響いたガチャリという音は、そのまま私を夢の世界から締め出した。夢の世界への扉に背を向け現へと歩き始めれば、段々とその足音が私のものではなく、廊下を猫のように歩いているのであろうあの人のものだと気づく。
足音が止む。同時にデジタル時計の無機質な光しかなかった部屋に、細く光が差し込む。
慎重にゆっくりと近づいてくる振動を感じながら、心の中でカウントダウンを始めた。
3、2、1。
「おかえり」
0を数えた丁度。寝返りを打って、堪えてた笑いを零しながら告げる。
「やっぱり起きてた。ただいま」
逆光の中にいるその人の顔を見ることはできないが、悔しさの滲んだ声は見えずともその表情を雄弁に伝えてくる。
「いつから?」
「玄関」
「静かに開けたのに」
再現する手は大げさなくらいゆっくり取っ手を回す動きをする。
「そうじゃなくて」
しばらく眺めてもドアを開け始めない手をとり、その手を軽く捻った。
「鍵かあ」
私の手を掛け布団の中に戻しながら、鍵の開け方についてああでもないこうでもないと唸っている。その様子が面白くて、折角戻してくれた手をぴくりと動かせば、まるで予想していたように布団を叩かれる。
「明日も早いんでしょ。寝なさい」
「はあい」
「朝は見送るから」
「おやすみ、また明日の夜に」
今度は頭をぺしりと叩かれる。それから数度撫でて手が離れると、そのまま気配が遠ざかる。小さな小さなおやすみを聞きながら、目を閉じた。
今度の休みは何をしよう。出掛けるのもいいが家でのんびりも捨てがたい。ここ最近は朝と夜の一瞬にしか会えなかった人との時間を埋められるのならなんでもいい。
夢の扉の取っ手をゆっくりと回しながら、私は明日の朝、如何に静かに鍵を開けるかについて考えていた。