夢と夢が移り変わりるその隙間。無意識に開かれた瞼をカーテンから漏れた光が撫でた。寝起きでぼやけた世界は、一度強く目を閉じると見知らぬ部屋へと変わる。
白いシーツはさらさらとしていて、ルームウェアは少しごわついている。背中側が温かく、ベッドが自分以外の重みで沈んでいる。
それがどういうことなのか。都合良く忘れてしまえるほど酔っていた訳ではなかった。
寝起きの頭が昨日の記憶を突きつける。
やけに喉が乾いているその意味を。
ずっと見ないふりをしていた感情を。
背中の重みがゆっくりと撓む。
続いて聞こえたくぐもった声に逃げられないことを悟った。
幾年前からやってきたどこかの星の微かな光だけに照らされた宇宙船内。重力を忘れた私はただその船内をプカプカと浮いて、窓の外の星を見ていた。
たぶん私が地球にいた頃に見ていたはずの星もあるのだろう。
一度目をつむり、眠ってしまった家族を起こさないよう、静かに望遠鏡を覗き込んだ夜を思い出す。
けれどそこには何もなかった。
黒い丸の中にあった沢山の白い点。それらがどんな風に輝いていたのか。
眠っていた家族はどんな顔だったのか。
無理矢理思考を断ち切って目を開く。黒い丸窓では星々が輝いている。息を吐いて今の寂寥を胸から追い出した。
持っていけなかったものはあまりにも多い。一つ一つを悲しんでいては、悲しみの澱で体が重たく沈んでしまう。
何もない船内にアラームが鳴り響く。
無重力の空間を泳ぐようにして、床近くの重力スイッチをオンにする。途端に体が重さを思い出して、ドサリと床に倒れ込んだ。
起き上がってアラームを止めれば食事が出てくる。仕組みも原理も忘れたが、この小さいキューブを食べ続ける限り明日が続いていく。
それを一口で放り込んで、飲み込んだ。
それから椅子に座り日報を書き始める。
昨日のデータを振り返り、日付と地球を出てからの日数を確認し、機械的にそれに一を足した。
昨日は日付の後はその日に目に映ったものについての記述が続いていた。
今日もそれに倣って書こうとして手が止まる。
どうして日報を書いているのかわからなくなってしまった。書いたところで誰が読むのだろうか。
もう戻れない場所にいる誰かか。
顔も思い出せなくなった家族か。
いるともしれない宇宙人か。
沈み込みそうになった思考を引き上げる。先ほどの記憶に引きづられているようだ。
これ以上何かを考えてはいけないと警鐘が鳴る。
一つ息を吐き出した。
止まっていた手を無心で動かし始める。
今日は唯一の読者に向けての言葉を綴ることにしよう。
××××年×月×日
地球を出て××××日目
おやすみなさい
また明日
遠くの山から、近くの木から他の音をかき消すようにミンミンと声が降り注ぐ。おかげで首から下げた虫かごの中はセミの抜け殻でいっぱいだ。
こちらに背を向けるようにして咲いたひまわりがかろうじて日陰を作ってくれているが、それでも8月初めの暑さの前では汗が流れるのを止めることはできない。
そんな暑さの中、僕はただまっすぐ伸びる何もない道をひたすらに走っていた。
ポケットにはお手伝いをして貯めた10円玉が7枚。両手にはおじいちゃんに持っていけと言われたお酒の瓶を2本抱えている。汗で滑って落としてしまわないよう、ぎゅっと握り締めている。
外に出る前におばあちゃんが被せてくれた麦わら帽子は、走るうちに頭から外れてしまって今や首からぶら下がるだけ。汗でびしょびしょになってしまった頭を撫でる風が気持ちいいからそのままにしていた。
途中で枝分かれした道を曲がると、そこにはお目当ての駄菓子屋がある。
店の中へと転がるように駆け込んで、息を切らせたまま駄菓子屋のおばちゃんに半ば突き出すようにお金と瓶を渡す。
「おばちゃん、ラムネちょうだい」
「はいよ」
おばちゃんはそれらを受け取ると、裏から氷水でよく冷やされたラムネを取り出して、タオルで軽く拭いてから渡してくれた。
「ありがと」
ガラス瓶に入ったラムネは、普段目にするプラスチック製のそれより少し重い。それが嬉しくて、息を整える間もなく店の外にあるベンチへと向かう。
座ったベンチは太陽に温められ、思ったよりも熱かった。一度座り直してから、逸る気持ちを抑えて握りしめたラムネを見る。
少しずんぐりとした形の瓶を太陽に翳せば、陽の光が反射して輝く。透明な瓶が青色に染まって、小さな空が手の中に収まっているみたいだ。
ガラス瓶はひんやりとしていて、おでこにあてるだけでも気持ちいい。
でもこのままだと温くなってしまうから、惜しく 思いながらもおでこから離し、太ももで固定してピンクの蓋でビー玉を力いっぱいぐっと押した。
勢いのいいプシュッと少しくぐもったカランが聞こえた後、シュワシュワと泡が立ち昇る音がする。
音が聞こえなくなってから手をどけて、ラムネに口をつける。
手で温められて少し温くなっていた瓶の口から、よく冷やされたラムネが流れ込む。口の中にピリピリと突付かれるような刺激とスーッと澄んだ甘さが広がる。
傾ける度にビー玉がカラコロと鳴るのが楽しくて、夢中で飲んでいればあっという間にラムネはなくなってしまった。
飲み終わったら瓶は返さないといけない。本当は持ち帰りたくてたまらないが、それがルールだと言われた。
だからビー玉だけでも欲しいが、自分の力では飲み口を外せないのだ。今日は一人で来てしまったから、一度持ち帰らないと取り出せない。
「おばちゃん」
どきどきしながら駄菓子屋に戻りおばちゃんに声をかける。
なんだい、とおばちゃんが優しく聞き返してくれたのに背中を押されるように、言葉を続ける。
「瓶返すの、ビー玉取ってからでもいい?」
「はいよ、おじいちゃんに頼みな」
おばちゃんが笑って、また買いに来なね、と手を振ってくれる。それに手を振り返して、行きと同じように走って帰る。
手に持った瓶からビー玉がカランコロンと音をたてる。ラムネみたいに透き通ったビー玉が手のひらに乗るのが待ち遠しい。
ひまわりの青々とした匂いとセミの声を聞きながら、僕は浮足立った足のまま思い切り地面を蹴り上げた。
今なら夏の空に手が届きそうだ。
21時を過ぎる頃。
にゃおんという鳴き声と共に、何か柔らかいものが窓ガラスにぶつかる音が鳴る。
もうそんな時間かと、何となく眺めていた動画サイトを閉じ、早足で音の鳴る方へ向かった。
カーテンを開けるとそこには1匹の白い猫が澄ました顔で佇んでいた。
首輪こそしていないが、綺麗な毛並みと人慣れした様子から飼い猫なのではないかと予想している。
だがどこの誰に飼われているか等はさっぱりわからない。ただ、私がこの家に引っ越してきた当初から毎週金曜のこの時間になぜかやってくる謎多き猫なのである。
カラカラと窓を開けると、まるで挨拶するように猫がひと鳴きする。
「おかえり。帰らないんなら帰らないって連絡してよね、心配したんだから」
怖がらせないよう心がけながら少し怒ったような声で話しかける。
先週のこの猫は怪盗だった。帰り際に私の心を盗んでいったということになっている。
その前は友人。さらにその前は相談相手。他にも恋人、家族、好きな俳優、見ていたドラマの主人公等々。そのときの気分と勢いで猫と私の関係は決まる。
週に1回の一方的な関係。
喋る人のいない一人暮らしがそこまで寂しくないのは、この時間のおかげなのかもしれない。
ちなみに今週は外泊ばかりする同居人である。
「まあ無事だったからいいけど。ちょっと待ってて水取ってくるから」
そう言って私は一度部屋に戻ると、水入れと天然水のペットボトルを持って窓辺へと戻った。
カリカリを用意しようかと思ったこともあるが、推定どこかの家の飼い猫に勝手にあげていいものか悩んだ末、給水所となっている。
「よく買い置きしてた水ってこれでいいんだよね? 違ってても文句言わないでよ」
にゃおと鳴く声は返事をしているようにも、早く寄越せと言っているようにも聞こえる。
当たり前だが水は私が勝手に用意しているものである。インターネットによると猫には中性の軟水が良いらしいので、南アルプス産の水をあげている。
会話しているようなその声に笑ってしまった表情を引き締め、とくとくと水を注ぐ。あくまで私は中々帰ってこないこの同居人を心配しつつ怒っているのだ。
水を注いで猫の前に置けば、待ってましたとばかりに器に顔を寄せはじめる。
「ねえ今回はどこに行ってたの?」
「明日友だちとご飯行くんだけどさ、服が決まらないんだよね。スカートにすべきかパンツにすべきか」
「最近本当に暑くない? もうじめじめして嫌になっちゃう」
他愛ないことを適当に喋っている私を無視して、猫は水を飲み続けている。これもいつものことである。
どうやら猫は私をうるさいだけで無害と判断したようだ。ちらりともこちらを見ない。
ただしこのときに触ろうとしてはいけない。一度あまりにも大人しい様子につい手を伸ばしたら逃げられてしまったのだ。
しばらくしてもう十分なのか猫が顔をあげる。気まぐれな猫は機嫌がよければこの後触らせてくれるが、今日はどうだろうか。
期待を込めて見つめていたが、猫は立ち上がりくるりとこちらに背を向ける。
「あ、もう行っちゃうの」
猫は残念そうな声をあげた私を一瞬振り返り、にゃあとひと鳴きし走り去ってしまった。
「ちゃんと帰ってきてね」
夜に消えてしまった今日限定の同居人に声をかけ、水入れを回収する。
去ってしまった背中を寂しく思いながら、それでも私は来週のあなたが何になるのかを考えると楽しみでしょうがないのだ。
「飴、どうぞ」
カラカラとキャスター付きの椅子が近づく音が側で止まると、スマートフォン片手にお昼ご飯を食べていた私の前に飴が差し出された。
ピンクと金色の小花柄の包装紙に包まれた四角い飴だ。
「ありがとう。あ、この飴昔よく食べてました」
様々な花に彩られた黒いパッケージは、子どもの目には少し背伸びをした可愛さとして映り、よく親に買ってとせがんでいたのを覚えている。
子どもの頃は、今目の前にあるものと同じ、甘いバター味が好きだった。自分で買うような年齢になると、それより少しさっぱりしたヨーグルト味を好んで食べるようになっていた。
思い出したら食べたくなってきた。今日の帰りにコンビニにでも寄って買って帰ろう。
「この飴大好きで、切らさないように家に絶対1つはストックしてたんですけど」
背もたれを抱えるようにして座る彼女は、そこでこちらの反応を窺うように言葉を切る。
思わず少しだけ身を乗り出した私に、彼女は深刻そうな表情で告げた。
「生産終了しちゃったんです」
「ええっ」
手元のスマートフォンに商品名を打ち込むとサジェスト欄に生産終了の文字が表示されている。
一縷の望みをかけて検索ボタンを押すと、そこには数ヶ月前に生産終了した旨の情報が並んでいた。
「どうりで最近あんまり見かけなかったんだ」
思わず頭を抱えてしまう。もうあの味を食べることができないなんて。
「本当にこれもらっちゃっていいんですか? 貴重な1個なんじゃ」
「いえ、生産終了のお知らせが出たときにまとめ買いしてるんで大丈夫です」
彼女はわざとらしくきりっとした表情で、飴を返そうとした私の動きを押し留めた。
それならばと絶対に噛まずに舐めきることを心の中で誓い、飴をポーチに仕舞った。別れを惜しむのは家に帰ってからゆっくりとしよう。
「今いろんな人にこの飴配ってるんですよ。そうすれば思い出してくれるじゃないですか」
彼女はもう一つ飴を取り出すと、包みを開いて口に入れた。
じっくりと味わうように一度目を瞑る。手元は小花柄の包装紙についた皺を丁寧に伸ばすよう動いていた。
しばらくして、呟くように言葉を続ける。
「似たような味の飴は確かにありますよ。でも同じではないんですよね。形とか、溶け方とか、鼻に抜ける匂いとか。やっぱりなんか違うなってなっちゃうんです」
ずっと食べ続けてきたからこそ、僅かな違いが気になってしまうのだという彼女の表情は、寂しさの中に誇らしさに似た感情が浮かんでいるように見えた。
それから丁寧に伸ばされた包装紙を手のひらに乗せ、こちらに見えるように差し出される。
「この見た目も好きなんです。こんな可愛い包み紙のお菓子ってあんまりないじゃないですか」
「ああ、わかります。子どもの頃はこの包み紙集めてましたもん」
「あ、それ私以外にやってたって人初めてです」
照れくさそうに実は今もちょっと集めてるんですよ、と彼女は続ける。動画サイトやsnsを参考にしながら小物を作ったりしているそうだ。
見せてもらった写真に映る小物はどれもよくできていて、それをそのまま伝えれば、彼女は抱えた背もたれを左右に揺すりながら更に照れくさそうにしていた。
「いやあ仲間に会えてよかったです。折角なんでもう1つどうです?」
魅力的な誘いについ伸びかけた手を引き戻し、そのままぐっと握り拳をつくってみせる。
「いや、頑張って店で探してみます」
「お、修羅の道を行きますね。私でさえ最近は全然見つけられませんよ」
「見つけたら1個あげますね。今日のお返しに」
楽しみしてます、と笑って、彼女はカラカラと音を鳴らして元の場所に戻っていく。
それを見送ってから急いで残り少ないお昼ご飯を食べると、ポーチからもらった飴を取り出す。
家でゆっくりと味わうつもりだったが、話していたら今食べたくなってしまったのだ。
包み紙を丁寧に剥がす。ふわりとバターが香るそれを口に入れれば、過去の記憶よりもずっと甘く感じた。