「めでたし、めでたし」
眠りに落ちる寸前。柔らかな母の声が紡ぐ物語の締めの言葉。何度も何度も同じ物語をせがむ私に、ちょっと困った顔をしていたことをなんとなく覚えている。
お姫様が王子様と出会って幸せになる。私にとってはまだ恋というものが物語の中でキラキラと輝くだけものだった頃の話だ。
あれから何年も経ち、恋というものがただ綺麗なだけのものではないことを知った。通話越しに涙を流す友人の話を夜通し聞いたこともある。
必ずしもめでたしで締めくくられるものでも、喜びだけが存在するものでもない。寧ろ友人の声に滲んでいた悲しさや苦しさが、恋の本質なのではとすら思ってしまう。
そんなことを考えるようになり、お気に入りだった物語のお姫様が眠ってしまう年も過ぎた。けれども私にとって恋というものはどこか物語の中にあるものだったように思う。
まだ蕾すら膨らんでいない桜の木の下で、手のひらに乗った第2ボタンを握りしめる。
部室棟の近くにある裏庭には意外なことに人がいなかった。校舎側から聞こえる3年生との別れを惜しむ声だけが微かに聞こえてくる。
今頃はもう、このボタンと共に3年間を過ごした持ち主は、友人の輪の中に戻っているのだろう。
近づいてくる足音がどこにもないことを確認して、私は木の根元にしゃがみ込んだ。
告白されたのなんて初めてだ。耳を真っ赤に染め上げたその人は戸惑って何も言えない私に、返事はいらないから、と言ってくれたが、何も考えないなんてことは到底できない。
付き合うか付き合わないか。そもそも私はあの人のことが好きなのかどうか。様々な感情が混じって何も分からなくなりそうだ。
好きか嫌いかならもちろん好きだ。
部活の始めの頃、何もわからない私に優しく根気強く教えてくれた。うまくいかずに落ち込んでいれば励ましてくれた。
もちろん私一人にだけという訳ではなかったが、初心者だった私には特別目をかけてくれていたように思う。
そのうち部活以外のことも沢山話すようになって、憧れはそのままに気安い関係になっていった。
そうして2年間をともに過ごした。
もう会えなくなってしまうのは寂しい。
そこではたと気づく。卒業式の後に部活の三送会があることに。
スカートのポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開く。三送会の出欠を確認すれば、当然のように出席のところに先輩の名前があった。
これで会えるのが最後だから、なんて言っていたが三送会のことを忘れていたのだろうか。忘れていたのだろうな。
誰もいないのをいいことに、込み上げてくる笑いをそのまま音に乗せる。
しっかりしていると思っていた先輩は、意外なことに、抜けている面を見せることが多々あった。そういう一面を知るごとに親しみやすさが湧き、こっそりとかわいいなとすら思っていた。
スマートフォンを仕舞い立ち上がる。スカートの皺を整えるついでに、縮こまっていた体をぐっと伸ばした。
大切なのはきっと向き合うことだ。物語の中のものとして遠ざけないで、自分のものとしてこの絡まった感情を見つめていこう。
知らないのなら知っていけばいい。分からないなら分からないなりに答えを探していけばいい。
その結果めでたしで終わらなかったら、そのときは友人に泣きながら話そう。
すっかりと体温が移ってしまったボタンをブレザーのポケットへと滑り込ませ、確認するように上から触れる。
大きく息を吸い込み一歩を踏み出せば、硬い蕾の中から春の匂いがした気がした。
夢の中に不意に響いたガチャリという音は、そのまま私を夢の世界から締め出した。夢の世界への扉に背を向け現へと歩き始めれば、段々とその足音が私のものではなく、廊下を猫のように歩いているのであろうあの人のものだと気づく。
足音が止む。同時にデジタル時計の無機質な光しかなかった部屋に、細く光が差し込む。
慎重にゆっくりと近づいてくる振動を感じながら、心の中でカウントダウンを始めた。
3、2、1。
「おかえり」
0を数えた丁度。寝返りを打って、堪えてた笑いを零しながら告げる。
「やっぱり起きてた。ただいま」
逆光の中にいるその人の顔を見ることはできないが、悔しさの滲んだ声は見えずともその表情を雄弁に伝えてくる。
「いつから?」
「玄関」
「静かに開けたのに」
再現する手は大げさなくらいゆっくり取っ手を回す動きをする。
「そうじゃなくて」
しばらく眺めてもドアを開け始めない手をとり、その手を軽く捻った。
「鍵かあ」
私の手を掛け布団の中に戻しながら、鍵の開け方についてああでもないこうでもないと唸っている。その様子が面白くて、折角戻してくれた手をぴくりと動かせば、まるで予想していたように布団を叩かれる。
「明日も早いんでしょ。寝なさい」
「はあい」
「朝は見送るから」
「おやすみ、また明日の夜に」
今度は頭をぺしりと叩かれる。それから数度撫でて手が離れると、そのまま気配が遠ざかる。小さな小さなおやすみを聞きながら、目を閉じた。
今度の休みは何をしよう。出掛けるのもいいが家でのんびりも捨てがたい。ここ最近は朝と夜の一瞬にしか会えなかった人との時間を埋められるのならなんでもいい。
夢の扉の取っ手をゆっくりと回しながら、私は明日の朝、如何に静かに鍵を開けるかについて考えていた。