朝の通学路、三階建ての退屈へと向かって、緩慢とした歩みを歩いていると、ひらひらと飛ぶ白い姿が見えた。
――蝶だ!
蝶はわたしの視線に気付くと、ゆっくりとこちらへ向かってくる。そして、驚くべきことに、わたしに声を掛けてきた。
「なっちゃった、蝶に」聞き馴染みのある声だった。「目が覚めたら、蝶」
モンシロチョウと思しき蝶から発せられたのは確かに長年の幼馴染であり、今も同級生である彼女の声だった。
「むっ、胡蝶の夢というわけか」わたしはほとんど独り言に近い言葉を口に出した。「洋の東西を問わず、人類は蝶を魂と見なしてきたからな。古代ギリシャで魂を意味するプシュケーはそのまま蝶を意味するそうだ」
「へぇ~、為になるなぁ」わたしの周囲を飛びながら、彼女は言った。「いやいや、そんなことより、これどうしたらいいんだよ。助けてよ~」
「まぁまぁ落ち着きたまえ。今言ったように、蝶になったということは、魂が抜け出した状態と考えられるわけだ」
「早く元の身体の帰りたいよぉ」
「悪いが、あまり顔の近くを飛ばないでくれ。くしゃみが……」中断を挟みつつ、わたしは話を続ける。「一説では、シロチョウは似通ったもの同士で変装し合うことで、個性を無くし、個体が襲われる確率を減らすという」
「それが何か関係あるの」
「それから、魂のタマというのは、死者が個性を、つまり名前を失って一つの水溜まりみたいなところへ還った状態を指すらしい」
「つまり、どういうこと」
「このままだとお前は死んでしまうというわけだ」
「そんな~……」うわっ、顔に纏わりつくな。「助けてよ~……」
ここで、わたしは飛び起きた。たぶん顔に頭を撫で付けていたであろう飼い猫が、不思議そうにこちらを見ている。
胡蝶の夢か――わたしはベッドを抜けるとカーテンを開け、窓の外を眺めた。まだ青黒い空にはコウモリが一匹、翩々と飛んでいる。
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モンシロチョウ
大きな西洋風の館を想像する。二階建ての本館には幾つもの部屋が並んでいる。
そのうちの一つ、五番と書かれた部屋に入ってみよう。中に踏み入ってみると、壁の四面が扉の位置を除いて収納棚になっている。想像上の物の多さに眩惑されることなく、試しに一つ抽斗を開けてみよう。中から出て来たのはノートや鉛筆だ。
あなたがお探しの品はこれではありませんね――目隠しをした状態で指示通り想像を巡らせていた私へ訊ねたのは、わざわざ往診に来てくれた記憶術師の男だ。日本では、というより今や世界においてもほとんど生き残っていない記憶術の専門家として、伝統ある(らしい)シェンケリウスの流脈を継ぐと自称する、些か胡散臭い見た目の彼は、穏やかな声色で指示を続けた。
次の抽斗を開けると、そのまた次の抽斗を開ける。中から現れるのはどこかに見覚えのある玩具やガラクタばかりで、私の想像の中ではいずれも曖昧な輪郭で、床へ落とすと俄に液状化して消え失せた。
私の探している品は、確かに私の記憶の中にこびりついて消えないのにも関わらず、今こうしてその在り処を求めると何処にも見つからないのである。
諦めて次の部屋へ行こうとした瞬間だった。隅の方にあった抽斗がようやくそれらしき物が出て来たのである。それは一個の古びた鍵で、私がそのことを記憶術師の彼に告げると、その鍵の合う部屋を探すよう言われた。
私には心当たりがあった。いよいよ想像力を強く働かせると、急いで館を出た。そして、建物の裏手へ回ると、やはりそこに目的の場所があった。それは小さな小屋であった。
私は今にも崩れそうな小屋へ駆け寄ると、入り口に付けられていた南京錠を開けた。小屋に近づいた時から聞こえていた啜り泣く声――その涙の主が、そこには蹲っていた。泣き腫らした幼き日の私の瞳が、私を見上げた。
それではいきますよ――いつの間にか、記憶術師が私の背後に立っている。振り返る間もなく、指を鳴らす音が響いた。すると、風が吹き始めた。次第に勢いを増す風に、私は慌てて記憶術師にすがり付くと「やめてくれ。やはり忘れたくない」と叫んだ。
私は目隠しを外して、辺りを見回した。誰も居ない。それに、目に見える風景はたった今まで想像の中で見ていたものに酷似していた。
――、小屋の外から私を呼ぶ声がする。それは紛れもなく母の声だった。私は興奮と緊張がない交ぜになった心を落ち着かせるように、ゆっくりと扉を開けた。そこには、眩い陽射しの下、私の手を引いて歩いていく母の姿があった。
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忘れられない、いつまでも。
点Pは移動していた。一月程前のことだった。出題されたのである。出題された以上は、ただ黙々と線分の上を移動するのが点Pの使命であるからには、やはり点Pは移動していた。
千葉から始まった道程も、直ぐに当初の線分を過ぎ越して、今は遠くベルリンの肌寒さの中にある。
点Pは生まれ来ったものとは異なる文化を眺めるうちに、当惑を覚えた。そして、点Pは何かを生み出すことのない己の広がりのなさを呪った。
点Pは偶然立ち寄った――という表現は適当でないにしても、或る図書館でひとりの詩人と擦れ違った。詩人の内部を移動したとき、確かに点は存在するという直観を得たのであった。
点Pはこの時、文字通り、天にも昇らんばかりに悦び、光に満ち溢れていた。改めて印刷されるなら、それはメタリックインキを用いた特殊印刷が相応しかっただろう。それだから、点Pが地上を離れつつあることに気付いた頃には、点Pは既に雲の中にいた。
点Pは等速で移動しつつ思いを巡らせた。遥か向こうには月が見える。秒速にして五センチメートルで始まった自身の移動は、果たして一年後には何処まで及ぶだろうか。
よくよく算えてみれば、月にも届かないではないか。点Pは己の愚鈍さに全く絶望にしてしまった。あの栄耀も終には失われ、点Pの旅程は精彩を欠いた。
そんな時であっただろうか。点Pのいなくなった地上では、未知の天体による月蝕が観測されたのであった。
点Pは移動していた。
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一年後
前日の夜から続く雨の音は、寝入り端には心地好かったのに、朝まだきの薄明かりにはひどく不愉快に響いた。
思春期に差し掛かった頃の僕は、窓外に空の色を確かめると、心の気色への投影を打ち消すように、雨の休日にはしばしばそうしたものだが、ジャクスンの文庫本を一冊掴むと夜卓の上の読書燈を点けた。
それから、幾らか頁をめくる裡に僕は眠りとの再会を果たすのだ。
僕は夢の中を彷徨う、あの曖昧なひとときが何よりも好きだ。それは大人になった今でも変わらない。
あの日もそんな暗い風雅を帯びた夢裡の出来事だった。ひとけの無い街はキリコの絵を彷彿とさせるような長い影が延びる。書割のような安っぽさを感じさせる夕暮れの家並みが何処までも続いていた。
遊歩する僕は自然とある場所に立ち止まった。見れば、古びた家と家との間に身じろぎするように延びた階段が下りていく。僕はその階段をゆっくりと下った。終わりの見えない階段の両脇は、激しく変わる高低差に合わせてまちまちの高さに建てられた家が並ぶ。
その内の一軒だった。僕の足元の側近く、小突けば割れそうな薄い窓にカーテンも無い。しゃがめば遠近感の狂いそうな洋間の内部が一望出来そうな気がする。だが、僕にはそうすることが出来なかった。
それでも、意識の停滞を示すように僕の足はその場から動かない。すると、僕の朧気な視界に強烈な一撃を喰らわせるような出来事が訪れたのだ。
僕を見上げる不安げな瞳が――黒く長い髪が、白い肌が、痩せた身体のラインが――そして、いつの間にか全てを優しく包み込むような微笑だけが目睫に迫り、僕は恐怖とも驚異ともつかない衝撃に飛び起きた。
恐ろしく乱れた呼吸が落ち着いてくるのと引き替えに、僕は或る感触に一握の不安と不快とを知ったのだ――静かに窓を打つ雨滴の冷たさが、部屋を出た僕の皮膚感覚に粘着質に纏わりついて回った。
あれから十年ほど経つが、今の僕は雨の日の散歩が趣味となった。あの瞬間を初恋と言うのなら、再びの邂逅を乞う今日の日の情念を何と名づけるのだろう。
そんな風に考えながら歩いている僕の目の前に現れたのは、谷がちの住宅街を何処までも下りていく、曲がりくねった階段だった。
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初恋の日
大掴みに言って、六畳ほどの広さだろうか。ともすれば恐怖すら覚えるだけの静けさが四囲に鏤められている。
きっと、保って一日だね。彼女は僕の方を振り向いてそう言った。少なくとも、もうお風呂場は使えなさそうだね。小さな懐中電灯の光が僕の方を向く。
異変が起きたのは、およそ2週間前のことだった。GPSや気象衛星が使えなくなったというニュースが最初だったはずで、それから時日を遡ってみれば、地球の外に放たれた探査衛星がいずれも消失していたということが判ったことが報じられた。
結論から言ってしまえば、あらゆる事象は世界が急速に消失しているという見解を支持するものであった。そして、今では僕の住むアパートの、この六畳と少しの空間が残されているばかりとなった――次いでに言えば、残る人類は僕と、たまたま遊びに来ていた彼女とたった二人きりとなった――或いはまだらに消えていく世界の何処かに、同じように生き延びている誰かが居るのかもしれないけれど。
カーテンを開ければ、夜より暗い全くの闇が広がっている。彼女の言った通り、きっと世界は――言い換えるなら僕達二人の世界は、明日にでも消えて無くなるだろう。
退屈紛れだろう、モバイルバッテリーにスマートフォンを接続して何か操作していた彼女は、突然、大きな声を上げた。オーダー通った!勢いよく画面を僕の眼前に持って来た。見れば、確かにラーメン二杯の注文がお届け中となっている。携帯の電波なんて先週来なくなったのに不思議なこともあるもんだね。こんな状況であっても彼女はいつも通り楽天家の顔を見せていた。
僕の不安の只中に突如湧いた安心感は、穏やかに瞼を重くさせた。僕は大きく息を吐くと、そのまま静かに眠りを待った。この二、三日、まともな食事など採っていない。今すぐにでもラーメンが届いて、彼女と二人で食べられるならどんなにか幸せだろう。
元より暗い室内に更なる帷を下ろすと、二人の呼吸だけが生命を感じさせる。どれくらい経ったのだろう。僕達の気怠い眠りを遮ったのは、誰かがドアをノックする音だった。
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明日世界がなくなるとしたら、何を願おう。