ただならぬ混乱のなか、わたしは目を醒ました。
顔が冷たい。ゆるやかな間断を挟みつつ、水滴が降ってくるではないか。
――雨漏り?漏水?もしくは屋根が無くなった?ここ外?
わたしは俄かには判じ難い出来事に、まだ見ていた夢の澱に微睡みながら、天井の辺りを目で探った。
果たして、昨日入ったベッドで寝ていたし、昨日眠る前に見た天井である。よくよく見ると、水滴は天井から滴っているのではなく、天井の直下に発生しているようだった。
――つまりは、雨だ。
わたしは、突如現れた不可思議な現象に対して、卒然と洗面器を差し向けた。気の抜けたパーカッションのような音が早朝の部屋に間怠さを重ねる。
しかるに、一つの問題に気付くに至った。
このまま放置していれば、容器を超えて水が溢れる可能性があった。わたしは、間もなく出掛けなくてはならない。といって、洗面器の他に水を入れられそうなものは食器や鍋の類である。
背に腹は代えられぬ。わたしはコップやら深皿、フライパンからシチュー鍋に至るまでの容器らしい容器を並べてみた。
すると、どうだろうか。水滴は降る位置を代えながら各種の容器に収まっていく。なかなか器用ではないか。わたしが関心していると、天井の方に閃光が走った。
――雷雨だ!
身構えたわたしに構うはずもなく、部屋は一気に大水に洗われた。わたしは慌ててアパートの共用部に躍り出た。
何たる椿事。顔に着いた水を手で拭い落としながら、わたしは向こうの方で降り続く流水を眺めていた。
結局、わたしはそのまま出掛けることにした。止まない雨はない。部屋の中で傘を差したまま、手早く荷物をまとめると、雷鳴の轟く密房を後にした。
空では、分厚な雲が夕照に威容を示している。仕事を終え部屋に帰って来たわたしを待ち受けていたのは、朝のものとはまた違った驚きであった。
部屋には水滴の一つだに無かった。台風一過と言ったらよいのだろうか。わたしのベッドでは、ただ乾いた什器たちが口を開け上方を見つめている。
わたしは片付けるのは止して、不思議な喪失感と疑念に取り巻かれたまま、買ってきた夕飯をつついていた。テレビでは少し離れた地域でのゲリラ豪雨の様子を伝えている。
そんな時だった。
ポツ、ポツと水滴の弾ける音がし始めたのは。
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いつまでも降り止まない、雨
んあーん、ネタが思いつかない!
そう言って手に持っていたスマートフォンを放ると、わたしは大きな嘆息ののち、身体を仰け反らせ、天井を見上げた。真夜中の私室には蛍光灯のノイズに混じって遠く車の走行音だけが聞こえている。脳裡に書きかけの文字列が虚しく浮かび上がる。
浅学非才という文字へ無様な格好で手足を据え着けたようなわたしには、卓抜なアイディアなど創案できるはずもなく、ただ、それでも日々の生活の中に彩光を明らめたいという曖昧な気持ちだけが空転している。
大手を振って文学とまでは言えなくとも小説めいた文章でもものしたいと発意してかれこれ五年は経つだろうか。
スマートフォンであったりパソコンであったり、或いはノートにボールペン――この場合、決まってブルーブラックのインクを用いる――であったり、日々に道具こそ違えども、少しずつ言葉を書き付けてきた。
とは言え、そうそう書くことなどあろうはずもなく、この日は何の気なしに、SNS上で出されたお題に沿って、筋書きを練ろうとしていたのだった。
――が、ご覧の通りのありさまである。
それで、気晴らしと言ったらいいのだろうか、わたしは昔作って放置していたSNSのアカウントがあったのを思い出して、どんなことを書いてたのか見返すことにした。
今使っている別のアカウントから、かつてのアカウントを検索する。数年前の呟きがヒットする――あぁ、あの頃はまだ学生だったな。
「就活したくない」「社会に出たくない」食べたものや出先の写真やら他愛ない暮らしの光景とともに、後ろ向きな書き込みが散見される。
――ネタが思いつかない。なんて、見れば今の自分と変わらぬ嘆きもあるではないか。わたしは、何となくこの呟きに返信してみた。
――大丈夫!そんなのよくあるから。
数分も経ったろうか。スマートフォンが振動する。通知のアイコンを見ると、SNSに返信があったみたいだった。怪訝に思ってアプリケーションを開く。
――ありがとうございます!もう少し頑張ります!
それは、あの、放置していたはずの、わたしのアカウントからのものだった。どいうことだろう。乗っ取られでもしたのだろうか。
わたしは怯惰と周章とが絡み合った恐怖心から、急ぎ例のアカウントのパスワードを変更した。嫌がらせにしても、薄気味の悪いことをするものだ。
わたしは、不安を感じながらも、昔の自分のアカウントの書き込み一覧を眺めた。どうして――見れば、たった今、書き込みがされているではないか。
――励ましのリプ貰ったので頑張るぞ!
可愛らしい顔文字と共に、気の抜けたような呟きだった。新手の心理実験でも始まったのかよ。わたしは、そう思うと同時に、妙なことだが、苛立ちは薄まって、新たに「頑張れ」などどメッセージを送るのだった。
過去の自分という先入見がそうさせるのだろうか。ともすれば、今の自分の懊悩をそこに重ねて、現在のわたしへの言励としたのだろうか。
結局、その謎めいたかつてのわたしの余声とは、いちいち共感があって、やり取りを重ねることになったのだった。
――よければ、今度一緒に喫茶店でも行きましょうよ!
過去のわたし――と言うのには確かに抵抗はあるが、便宜上、こう言おう――から、そんな提案を受けると、これも便宜上そう言うが、今のわたしは二つ返事でこれを諾とした。
ようよう梅雨の足音の聴こえてくるような、気怠い週末の一日だった。
わたしたちは、駅前の喫茶店で待ち合わせることにした。わたしは、すっかり打ち解けたような、不思議な感覚でいたが、元はと言えば、アカウントを乗っ取った相手である。
今更な不安を覚えながら、喫茶店の扉を開けた。
――待ち合わせで。店員にそう告げながら、わたしは辺りを見回した。
すると、確かに窓際の席には、あの時の、過去のわたしが座っていた。窓に反射した顔は外の風景に見入っているようだった。
途端に、わたしは強烈な目眩に襲われた。一気にわたしの視野が暗く、小さくなっていく。
あの、同じい窓に、今のわたしの姿が映ることは永遠に無いのだろう。にわかにわたしがそう悟ると、確かに、そこにわたしはいなかった。
そして、わたしは永遠に待ち続けるのだろう。
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あの頃の不安だった私へ
あれは、わたしがまだ小学生の頃でした。
父に連れられて、親戚の所有する山へ遊びに出たのでした。
父と親戚の伯父さんとは、山の中腹ほどに位置する山小屋まで来ると、そのままガチャガチャと山菜採りの支度をし始めました。
わたしは父に言われて渋々来た次第でしたから、山菜採りには何の興味もありませんでした。
ですから、わたしは父や伯父が散策している辺りからは離れて――目立つように赤い服を着せられてはいましたが、山はわりあい開けていて、砂利の敷かれた道もあり、迷うことはなさそうでした――少し奥の方に行ってみることにしました。
歩いて行くと、いよいよ新緑の葉の色がまばやかに見えてきます。わたしは、砂利道から逸れて、藪の中へと踏み入りました。
なんだかとてもいい匂いがしたのです。焼けた肉のような、それへ醤油か何かを絡めたような、大雑把に言って家庭料理にありがちな匂い、昔どこかで食べたことのあるような匂いが、藪の向こうの方から漂って来たのです。
わたしは、匂いの筋――もちろん、実際には見えませんが、この時は見えるような気がしたのです――を辿って行きました。
藪を踏み分けて進んで行くと、小さな小屋が建っていました。今にも崩れそうで、窓は完全に外れてしまっています。しばらく身を屈めて、様子をみたのですが、人の気配はありませんでした。
しかし、確かにあの匂いは、その小屋から漂って来ています。わたしは、慎重に慎重を重ねて、窓だった穴から小屋の中を覗き込みました。中は雑然としています。中央にはダイニングテーブルがあり、卓上には――やっぱり!――美味しそうなステーキが置かれているではありませんか。
わたしは小屋の中へと駆け込んで、皿の前に立ちました。逡巡しながら、何度も唾を飲みました。どうせ今日の晩御飯は山菜料理でしょうから。
わたしは意を決して、その肉を食べました。食べてしまったのです。それはそれは美味しい肉でした。意地汚いことですが、もっと食べたいと思いました。
小屋の棚など漁ってもみましたが、目ぼしいものは何もありません。思えば、手入れのほとんどされていないながらも、猟師小屋か何かだったのかもしれません。
せめて、もう一切れでも。諦め悪く小屋を漁っていると、遠くの方から足音が聞こえました。わたしは慌てて小屋を飛び出すと、一目散に、元来た道を戻りました。遠くの方から、諫めるような、怒鳴るような恐ろしいがしていました。
こうした出来事は、誰にも言いませんでした。怖くもあり、後ろめたくもあり、それに独り占めしたいという下心もまたありましたから。
あれから二十年も経ったでしょうか。
あの肉の味が忘れられず、それはわたしの人生全てに降りかかった一種の呪いのようになっていました。どんな肉を食べても、ゴム切れを食べたような虚しさしか感じられません。――あぁ!!
何の冥助でしょう。伯父の不幸の報せを聞いて、一つの閃きを得たのです。
わたしは、果たして意味があるのかは判りませんでしたが、ともかくも手掛かりを求めて、とうとうあの小屋へ再び行くことに決めました。
間もなく、車を走らせ、あの山へと向かいました。それから、薄ぼんやりとした記憶を頼りに小径を歩きます。
――ありました!
あの小屋です。かつての姿を留めて――つまりは今にも崩れそうなままの姿で建っていました。
しかし、当たり前かもしれませんが、どこにも匂いは漂っていません。わたしには小屋へ行けば、あの匂いがしているはずだという不思議な予感があったのですが、見当違いでしょうか。
わたしは、不安と苛立ちが混じった、非常に昂った神経に促されるまま、足許に落ちた枝葉を強く踏みしめて、早足に歩きました。枝の折れる音とわたしの怒声が静けさを打ち破っていきます。
小屋の入口に着くと、驚くべきことに人の気配がありました。しかし、わたしは興奮した手を扉に掛けました。
勢いよく扉を開けると、そこにはよく見知った幼い顔が――余りにも見知った、赤い服を着た子供の姿がありました。驚いたような、怯えたような表情でわたしを見つめています。
一方で、手にはフォークを持って、顎は何かを咀嚼しているではありませんか。よく見れば、ナイフで切られたのでしょう。テーブルには食べかけの肉が数片残っています。
何とも旨そうじゃありませんか。
それから、わたしは――食べました。
食べてしまったのです。
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逃れられない呪縛
田舎の駅に人のいない。見渡せば、ただ圃場に風がそよぎ、葉擦れの音がそちこちに囁いてやまない。
わたしがここに帰ってくるのは一年ぶりだ。向こうの方で踏切の警笛が鳴り響く。わたしは、半ば朽ちた停車場のベンチから腰を挙げ、軋むレールの音を眺め遣った。
申し訳程度の一両編成。無論、ワンマン運転の車両には通例の如く、乗客も居ないだろう――いや、たった一人だけ、古ぼけた天鵞絨の椅子には、確かに昨日が座っていた。
昨日はゆっくりと立ち上がると、乗り込む間際のわたしに気付いたようだった。けれども、一言もなく立ち去った。わたしは、咄嗟の出来事に茫然と昨日の背中を見送った。
誰もいない車両の中、わたしは、窓の外を次々と置き去りにされていく緑色の風景を何を思うでもなく見過ごしていた。やや眠たげな窓に映るわたしの顔には、どこか昨日のものと似た愁いが透けて見えた。
いつの間にか少し寝ていたようだ。
次の駅――当然無人駅だ――に着くと、古ぼけた停車場に、誰かが立っているのが見えた。
電車が到着すると、一人の女性が慌てた様子で車内に乗り込んで来た。誰かを探している様子で四囲を見回している――それは、明日だった。
明日は不安げな表情を浮かべたまま「昨日は?」とだけ聞いた。わたしは「もうここにはいません」と、先程の駅で降りていったことを伝えた。
明日はそれを聞くと、走って駅を出て行ったようだった。
わたしは、大きなあくびをひとつすると、眼を閉じた。耳の中には、行き先の案内が流れる。
次は――、――。わたしはその駅名に驚き、飛び起きた。
――しまった!寝過ごした!
わたしの旅程は決まってこうだ。やれやれ。肩を落とすと、窓を開け、目の前を流れる風光が力強く車内に吹き渡るのに感じ入ってみた。
たまには、こういうのもいいだろう。だって、わたしは――
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昨日へのさよなら、明日との出会い
家を出たのは、いつもの通り、朝8時だった。
今日は少しだけ早く起きたから洗濯機の予約ボタンを押して出たはずだった。けれども、仕事をする手が止まる。わたしの脳裡にただならぬ不安が去来したのだ。
頭の中に洗濯機のゴウンゴウンという独特の動作音が鳴り響く。どうやら、予約のつもりが普通の開始ボタンを押して来たような気がする。
それに、今日は幾らか残業しそうな気配だ。――まぁ、また洗濯し直せばいいか。わたしは、頭の中で不安の源となっていた蛇口を閉めると、仕事を再開した。
昼休みになると、他愛ない同僚たちの立ち話が耳に入ってくる。そう、いつもなら他愛ない筈なのだ。だが、どうだろう。今日に限って、わたしの不安を的確に刺激するような話題が供されているではないか。いわく、知人の話として洗濯機のホースが外れたかして部屋が水浸しになった、ついては修繕費用云々と。
わたしは、自宅の玄関から流れ出る白い泡の濁流を想像し、戦慄した。いや、まさか。今まで使ってきた洗濯機だ。信じないでどうするのだ。わたしは不安を紛らすように手元の珈琲を覗き込む。底の見えないカップの中に、わたしは言い知れぬ凶兆を読み込んだ。
結局、仕事が終わったのは終電間際だった。小走りに地下鉄に飛び乗ると、幸いにも車内の混み具合は疎らで、わたしはゆっくりと座席に腰を下ろした。
換気のために窓が開いているが、それでも走ったからか蒸し暑く感じる。わたしの粗にして雑な頭脳は、もう昼間の不安など忘れていた。
心地よい微睡みがわたしの瞼に舞い降りた頃だった。電車が止まった。もうすぐ最寄り駅というのに、特にアナウンスはなかった。どうせよくある時間調整とかいうやつだろう。わたしは腹を立てるのも馬鹿らしいと思いつつ、つい癖でスマートフォンを取り出した。
何か事あらばネットで検索というのが習いになっていたために、今も適当な単語で検索してみる。特にそれらしい書き込みは見当たらない。間もなく電車は動き出した。
わたしはそのままSNSを眺めていた。トレンドには「泡」「流出」とか「水道代」とかいった単語が並んでいた。昼間に検索したからかな――わたしはそれくらいのことで取り立てて何も感じなかった。
しかし、次の瞬間、忘れていた不安が一層大きくなって甦ることとなった。車内に洗剤のような匂いが吹き込んで来たかと思ったら――洗剤の泡だ!――わたしの顔は泡まみれになった。
先頭車両の方から順に悲鳴とどよめきが起こる。時あたかも電車は止まり、車内には駅に着いたことを報せるアナウンスが流れる。
半分開いた窓の向こうは一面の銀世界とでも言うべき、泡の王国と化していた。駅員たちは必死で泡を片付けようとしているが、天井まで埋め尽くす量の泡の前では一向に要領を得ない。
南無三!――わたしは勢いよく車両を飛び出すと、辺り構わずに自宅まで走った。地下鉄の駅を抜けてしまえば泡など流れていなかった。それでも、わたしは夜の住宅街を走り抜けた。
自宅の前に着いてみれば何の異変もない。洗濯機はと言えば、エラーを吐いて行程の途中で止まっていた。息を切らしたわたしが恐る恐る蓋を開けると、洗濯槽の中は、何のことはない、余りにも無垢な透明な水に満ちていた。
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透明な水