あれは、わたしがまだ小学生の頃でした。
父に連れられて、親戚の所有する山へ遊びに出たのでした。
父と親戚の伯父さんとは、山の中腹ほどに位置する山小屋まで来ると、そのままガチャガチャと山菜採りの支度をし始めました。
わたしは父に言われて渋々来た次第でしたから、山菜採りには何の興味もありませんでした。
ですから、わたしは父や伯父が散策している辺りからは離れて――目立つように赤い服を着せられてはいましたが、山はわりあい開けていて、砂利の敷かれた道もあり、迷うことはなさそうでした――少し奥の方に行ってみることにしました。
歩いて行くと、いよいよ新緑の葉の色がまばやかに見えてきます。わたしは、砂利道から逸れて、藪の中へと踏み入りました。
なんだかとてもいい匂いがしたのです。焼けた肉のような、それへ醤油か何かを絡めたような、大雑把に言って家庭料理にありがちな匂い、昔どこかで食べたことのあるような匂いが、藪の向こうの方から漂って来たのです。
わたしは、匂いの筋――もちろん、実際には見えませんが、この時は見えるような気がしたのです――を辿って行きました。
藪を踏み分けて進んで行くと、小さな小屋が建っていました。今にも崩れそうで、窓は完全に外れてしまっています。しばらく身を屈めて、様子をみたのですが、人の気配はありませんでした。
しかし、確かにあの匂いは、その小屋から漂って来ています。わたしは、慎重に慎重を重ねて、窓だった穴から小屋の中を覗き込みました。中は雑然としています。中央にはダイニングテーブルがあり、卓上には――やっぱり!――美味しそうなステーキが置かれているではありませんか。
わたしは小屋の中へと駆け込んで、皿の前に立ちました。逡巡しながら、何度も唾を飲みました。どうせ今日の晩御飯は山菜料理でしょうから。
わたしは意を決して、その肉を食べました。食べてしまったのです。それはそれは美味しい肉でした。意地汚いことですが、もっと食べたいと思いました。
小屋の棚など漁ってもみましたが、目ぼしいものは何もありません。思えば、手入れのほとんどされていないながらも、猟師小屋か何かだったのかもしれません。
せめて、もう一切れでも。諦め悪く小屋を漁っていると、遠くの方から足音が聞こえました。わたしは慌てて小屋を飛び出すと、一目散に、元来た道を戻りました。遠くの方から、諫めるような、怒鳴るような恐ろしいがしていました。
こうした出来事は、誰にも言いませんでした。怖くもあり、後ろめたくもあり、それに独り占めしたいという下心もまたありましたから。
あれから二十年も経ったでしょうか。
あの肉の味が忘れられず、それはわたしの人生全てに降りかかった一種の呪いのようになっていました。どんな肉を食べても、ゴム切れを食べたような虚しさしか感じられません。――あぁ!!
何の冥助でしょう。伯父の不幸の報せを聞いて、一つの閃きを得たのです。
わたしは、果たして意味があるのかは判りませんでしたが、ともかくも手掛かりを求めて、とうとうあの小屋へ再び行くことに決めました。
間もなく、車を走らせ、あの山へと向かいました。それから、薄ぼんやりとした記憶を頼りに小径を歩きます。
――ありました!
あの小屋です。かつての姿を留めて――つまりは今にも崩れそうなままの姿で建っていました。
しかし、当たり前かもしれませんが、どこにも匂いは漂っていません。わたしには小屋へ行けば、あの匂いがしているはずだという不思議な予感があったのですが、見当違いでしょうか。
わたしは、不安と苛立ちが混じった、非常に昂った神経に促されるまま、足許に落ちた枝葉を強く踏みしめて、早足に歩きました。枝の折れる音とわたしの怒声が静けさを打ち破っていきます。
小屋の入口に着くと、驚くべきことに人の気配がありました。しかし、わたしは興奮した手を扉に掛けました。
勢いよく扉を開けると、そこにはよく見知った幼い顔が――余りにも見知った、赤い服を着た子供の姿がありました。驚いたような、怯えたような表情でわたしを見つめています。
一方で、手にはフォークを持って、顎は何かを咀嚼しているではありませんか。よく見れば、ナイフで切られたのでしょう。テーブルには食べかけの肉が数片残っています。
何とも旨そうじゃありませんか。
それから、わたしは――食べました。
食べてしまったのです。
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逃れられない呪縛
5/24/2023, 9:42:37 AM