家を出たのは、いつもの通り、朝8時だった。
今日は少しだけ早く起きたから洗濯機の予約ボタンを押して出たはずだった。けれども、仕事をする手が止まる。わたしの脳裡にただならぬ不安が去来したのだ。
頭の中に洗濯機のゴウンゴウンという独特の動作音が鳴り響く。どうやら、予約のつもりが普通の開始ボタンを押して来たような気がする。
それに、今日は幾らか残業しそうな気配だ。――まぁ、また洗濯し直せばいいか。わたしは、頭の中で不安の源となっていた蛇口を閉めると、仕事を再開した。
昼休みになると、他愛ない同僚たちの立ち話が耳に入ってくる。そう、いつもなら他愛ない筈なのだ。だが、どうだろう。今日に限って、わたしの不安を的確に刺激するような話題が供されているではないか。いわく、知人の話として洗濯機のホースが外れたかして部屋が水浸しになった、ついては修繕費用云々と。
わたしは、自宅の玄関から流れ出る白い泡の濁流を想像し、戦慄した。いや、まさか。今まで使ってきた洗濯機だ。信じないでどうするのだ。わたしは不安を紛らすように手元の珈琲を覗き込む。底の見えないカップの中に、わたしは言い知れぬ凶兆を読み込んだ。
結局、仕事が終わったのは終電間際だった。小走りに地下鉄に飛び乗ると、幸いにも車内の混み具合は疎らで、わたしはゆっくりと座席に腰を下ろした。
換気のために窓が開いているが、それでも走ったからか蒸し暑く感じる。わたしの粗にして雑な頭脳は、もう昼間の不安など忘れていた。
心地よい微睡みがわたしの瞼に舞い降りた頃だった。電車が止まった。もうすぐ最寄り駅というのに、特にアナウンスはなかった。どうせよくある時間調整とかいうやつだろう。わたしは腹を立てるのも馬鹿らしいと思いつつ、つい癖でスマートフォンを取り出した。
何か事あらばネットで検索というのが習いになっていたために、今も適当な単語で検索してみる。特にそれらしい書き込みは見当たらない。間もなく電車は動き出した。
わたしはそのままSNSを眺めていた。トレンドには「泡」「流出」とか「水道代」とかいった単語が並んでいた。昼間に検索したからかな――わたしはそれくらいのことで取り立てて何も感じなかった。
しかし、次の瞬間、忘れていた不安が一層大きくなって甦ることとなった。車内に洗剤のような匂いが吹き込んで来たかと思ったら――洗剤の泡だ!――わたしの顔は泡まみれになった。
先頭車両の方から順に悲鳴とどよめきが起こる。時あたかも電車は止まり、車内には駅に着いたことを報せるアナウンスが流れる。
半分開いた窓の向こうは一面の銀世界とでも言うべき、泡の王国と化していた。駅員たちは必死で泡を片付けようとしているが、天井まで埋め尽くす量の泡の前では一向に要領を得ない。
南無三!――わたしは勢いよく車両を飛び出すと、辺り構わずに自宅まで走った。地下鉄の駅を抜けてしまえば泡など流れていなかった。それでも、わたしは夜の住宅街を走り抜けた。
自宅の前に着いてみれば何の異変もない。洗濯機はと言えば、エラーを吐いて行程の途中で止まっていた。息を切らしたわたしが恐る恐る蓋を開けると、洗濯槽の中は、何のことはない、余りにも無垢な透明な水に満ちていた。
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透明な水
5/22/2023, 5:27:42 AM