へるめす

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前日の夜から続く雨の音は、寝入り端には心地好かったのに、朝まだきの薄明かりにはひどく不愉快に響いた。
思春期に差し掛かった頃の僕は、窓外に空の色を確かめると、心の気色への投影を打ち消すように、雨の休日にはしばしばそうしたものだが、ジャクスンの文庫本を一冊掴むと夜卓の上の読書燈を点けた。
それから、幾らか頁をめくる裡に僕は眠りとの再会を果たすのだ。
僕は夢の中を彷徨う、あの曖昧なひとときが何よりも好きだ。それは大人になった今でも変わらない。
あの日もそんな暗い風雅を帯びた夢裡の出来事だった。ひとけの無い街はキリコの絵を彷彿とさせるような長い影が延びる。書割のような安っぽさを感じさせる夕暮れの家並みが何処までも続いていた。
遊歩する僕は自然とある場所に立ち止まった。見れば、古びた家と家との間に身じろぎするように延びた階段が下りていく。僕はその階段をゆっくりと下った。終わりの見えない階段の両脇は、激しく変わる高低差に合わせてまちまちの高さに建てられた家が並ぶ。
その内の一軒だった。僕の足元の側近く、小突けば割れそうな薄い窓にカーテンも無い。しゃがめば遠近感の狂いそうな洋間の内部が一望出来そうな気がする。だが、僕にはそうすることが出来なかった。
それでも、意識の停滞を示すように僕の足はその場から動かない。すると、僕の朧気な視界に強烈な一撃を喰らわせるような出来事が訪れたのだ。
僕を見上げる不安げな瞳が――黒く長い髪が、白い肌が、痩せた身体のラインが――そして、いつの間にか全てを優しく包み込むような微笑だけが目睫に迫り、僕は恐怖とも驚異ともつかない衝撃に飛び起きた。
恐ろしく乱れた呼吸が落ち着いてくるのと引き替えに、僕は或る感触に一握の不安と不快とを知ったのだ――静かに窓を打つ雨滴の冷たさが、部屋を出た僕の皮膚感覚に粘着質に纏わりついて回った。

あれから十年ほど経つが、今の僕は雨の日の散歩が趣味となった。あの瞬間を初恋と言うのなら、再びの邂逅を乞う今日の日の情念を何と名づけるのだろう。
そんな風に考えながら歩いている僕の目の前に現れたのは、谷がちの住宅街を何処までも下りていく、曲がりくねった階段だった。


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初恋の日

5/7/2023, 10:41:22 PM