へるめす

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4/30/2023, 11:35:47 PM

排水溝に何かいる。見た目にはぬるぬるとした質感で、例えるなら無脊椎動物と言ったらよいのか、或いは原虫のような、ぞっとしない何物かであった。
何故、わたしの浴室にこんな気味の悪い物体が沸然と現れたのか。
心当りと言えば、ないではなかった。わたしはその気味の悪い――“我が子”を摑み上げると、慎重に大口の硝子瓶へと容れてやった。透明な瓶の中でわたしの子供はまだ不完全な顔でわたしの方を見つめている気がした。
翌る日、わたしは早々と外出し、大きな水槽を買ってきた。この子が何を好むか分からなかったが、それからというもの、思い付く限りのものを与えてやった。彼もしくは彼女(或いはそれ以外)は小さな触手のようなものを伸ばし、フシュフシュと呼気(なのだろうか?)を洩らしながら、差し出された物を撫で回す。見ていて気持ちのよいものではなかったが、少なくともわたしにはそれでも可愛く思えたのだ。それに彼もこの快適な空間を楽園のように思ってくれたはずだ。
彼は、やはり生まれたばかりだからだろう、ミルクと離乳食を好んで食べた。ボーロに纏わりつくようにして吸収していく様などは、おぞましいとしか形容のしようがなかったが、少しずつ大きくなる我が子の成長は何であれ愛らしいものだ。
或る日のことだった。彼は生まれたままの姿で随分と大きくなり、ややもすると水槽から脱け出して、家の中を徘徊するようになった。わたしは、その度ごとに薄気味悪くも思いつつ、優しく諭すように声を掛けながら彼を持ち上げると水槽へ運んでやったものだ。しかし、今度は違った。彼に手を伸ばそうとした時だった。彼の未発達な口でわたしは噛まれたのだ。子の発達に反抗期は付き物だとは言え、わたしは驚きを隠すことが出来なかった。わたしが手の傷を押さえていると、彼は滴り落ちた血をさも旨そうに啜っていた。ピチャピチャという忌まわしい音が脳裡に焼き付いて離れなかった。
夜が更けた頃、わたしは恐怖と驚きと、或いは悲哀の入り雑じった感情を癒し切れず、ベッドの中で煩悶していた。すると、どうだろう、寝室の扉が開く音がした。彼が来たのだった――あの狂わしい音を立てながら。謝りに来たのだろうか?それとも“おかわり”だろうか?わたしは寝間着のまま家を飛び出した。
あれからというもの、わたしは親戚を頼り、あの家には帰らずにいる。もちろん、何があったのかは告げていない。或る日、わたしは自らの恐怖と向かい合うべく、試みにわたしに宛てて――というのはつまり、あの家の住所に宛てて、書留郵便を出した。
わたしの出した手紙は誰かがしっかりと受け取ったようだった。



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楽園

4/29/2023, 5:04:18 PM

どうするの~、これ?彼女はそう言いながら、わたしの眼前に掌にはやや余る程度の長方形の紙を翻してみせた。
どうするも何も捨てたらいいじゃない、そんなの。ただの紙屑じゃ――じゃあ!ボクが貰っちゃうけど!いいよね、ね!彼女は幾分かの力を込めて言い切ると、わたしのことなど構わずに紙面に目を落とした。ねぇ、これすぐそこだよ。
差し出された紙面を覗くと、確かに今わたし達がいる学校に程近い住所が書かれている――とは言え、大部分の文字が濡れて掠れてしまった券面には辛うじて大書きの「館」の文字と件の住所、それから赤色の「ペア」の語が読み取れるばかりだった。
せっかく拾ったんだから有効活用だよ。夕暮れの路地を歩きながら彼女は言う。拾ったって言っても玄関先に風で飛んできただけよ。そんなことより、もうすぐそこだよ、なんかの館!
宅地には不釣り合いな急峻な坂を上りきると、少しく瀟洒な居ずまいをした、和洋折衷の屋敷があった。すっごい、お洒落!モダン、だよね!息を切らすわたしの方を顧みながら、彼女は何とも愉しげに言い放った。誰もいないし、入っちゃおうよ――言うが早いか、勝手に扉を開け、彼女は建物の中へと入っていく。
へぇ~。彼女はいかにも気のない顔をして歩いている。勝手に入って怒られたらどうするのよ。屋敷の中はこの辺りの気象観測に功労のあった気象学者に関する展示物が陳列されていた。顕彰を目的とした記念館というやつだろう。チケットあるんだから大丈夫だって。彼女は言いながら、一つの展示の前に立ち止まった。
覗いてみると、ガラスケースの中に数通の手紙が収められている。なあに、それ?さあ?言いつつ、二人揃って周りを探してもそれらしい解説はなかった。
――それはラブレターだね。
突然、背後から男性の声がした。驚きの余り、黙ったまま硬直する。しかし、ガラスケースに反射して半透明になった声の主が視界の隅に見える。わたしたちが慌てて無礼を詫びると、館長――と彼は名乗った――は、世間話から説き起こして、施設のことやら学者のこと、それから件の展示物が投函されないまま学者の机から見つかったのだということを教えてくれた。
すっかり遅くなっちゃったね。きっと退屈だったのだろう、彼女はあくびをしながら言った。わたし達は礼を済ませると館の外へ出た。不思議なことに未だ街は夕照のまどろみの底に沈み込んでいる。しばし、その光景に見惚れていると、開けたままだった館の扉の向こうから、柔らかな風が吹き寄せて来るのが感じられた。振り返ると、扉がゆっくりと閉まっていくところだった。ねぇ――今あの屋敷の中、何もないように見えたんだけど、わたしは言いかけた言葉を呑み込んだ。それに、明かりさえなく、窓も割れていたように見えたのは気のせいだったのだろうか。ねぇ、早く帰ろうってば。わたしの思案などお構いなしに彼女はわたしの手を引く。お腹空いたな~。

家へ着く頃には、黒々とした空に満月の光が白く輝いていた。玄関の扉に手を掛けたとき、足元に一通の封筒が落ちているのに気がついた。暗夜の街に、ただ木の葉が風にそよぎ擦れる音だけがする。


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風に乗って

4/28/2023, 12:30:03 PM

目を覚ますと、時間が止まっていた。というより、街が、ひょっとすると宇宙が凍っていたと言った方が適切なのかもしれない。
世界は朝とも夜とも言えない、或いはどちらとも言えるような、青とも白とも黒とも言えるような色に染まっていた。
妙だなと思ったのはそれだけではなかった。目覚めたのは見覚えがあるような、ないような部屋で、焦然として窓の外を確かめると、やはり同じように何処かで見たことがあるような不思議な風景が広がっていた。
そのうちにトン、トン、トン――と、階下から包丁が俎に触れる音が聞こえてきた。わたしは言い知れぬ不安に突き動かされるようにして部屋を出て階段を――この階段もいつか降りたことがある気がした――ゆっくりと降りていった。お母さん……?わたしの脳裡にはそんな言葉が去来した。そして、恐る恐る音のする方へ行った。が、そこには何物も無い。
途端にわたしは痛烈な淋しさを感じ、家を飛び出した。振り向けば家はよくある二階家で、涙に濡れた視野の向こう側、粗末な門扉の外に小さな人影が見えた。それは紛れもなく幼児のわたしの姿であり、誰かの手を握ろうと、その小さな腕を伸ばしていた。わたしは自分でも何故かわからないままに走り出した。それに何処に行くのかさえ――
走りながら、曖昧な景色はどれもいつか見たような気がした。そして、街のそこここにいつかのわたしがいた。ランドセルを背負うわたし、自転車に乗るわたし、照れながらネクタイを結ぶわたし、靴箱に入った手紙に驚くわたし、新幹線に乗り込むわたし、レストランで夜景を眺めるわたし、やがて誰かと抱き合うわたし、独り子を連れて歩くわたし、泣き崩れるわたし、漸然老けていくわたしの姿たち……
わたしはそれらの曖昧なわたしの群れを、さながら臆病な子供がお化け屋敷を早く抜けようとするみたいに走り通り過ぎて行った。そうして息を切らして走るうちに、わたしは自分自身の姿が見えないことに気がついた。けれども、その事には何らの不思議も感じなかった。
どれくらい走ったのだろう、街はいつの間にか薄桃色に染まっていた。描線の覚束無い住宅地の行き止まりで立ち止まったとき、不意に背後からわたしの名を呼ぶ声がした。わたしはゆっくりと振り返る。朝日の昇る気配がした。

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刹那

4/27/2023, 8:44:57 PM

深更の砂礫に幽然と河水の寄せる音だけが響く。
どれくらいの時間、こうして二人居並びながら、ただ柔和に揺れる水面を見詰めていたのだろう。水の流れは黒々として底知れない。やがて、いずれともなく沈黙を破ろうとしたのだろう、覚えてる?二人で――君が言いかけたとき――あのさ……と、僕は遮るように呟いた。花火したよね、こういう河原でさ。僕の言葉に、君は微笑みながら言う。おんなじだね――ずっと。二人を急き立てるようにしたたかに風がそよぐ。そうだね。君の髪は艶然と蠱惑するように大きく靡く。
それじゃあ、また。うん。絶対に忘れないよ。うん。潤んだ瞳をゆっくりと閉じると、意を決し、二人は歩き始める。それから、二人は足首にさやかな水の冷たさを感じると次第に全てを忘れていっただろう。そしてまた、瀬音は、他日の再会を誓う二人の言葉さえ覆い隠すように流れて行ったのだろう。
――じゃあ、またね。

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生きる意味

4/27/2023, 2:58:43 AM

――こないだ、落とし物拾ったんだけどさ。
昼休み、弁当箱を開けるわたしに向かって、彼女は出し抜けにそう言った。それから?とわたし。
学校と駅の間に竹藪があるでしょ、あそこに黒いスポーツバッグが置いてあったの。たぶんうちの生徒のかなと思ったんだけど、そうとも限らないだろうし、一応、交番に届けたのよ。善行でしょ。ふうん。わたしは箸でミニトマトをつまみ上げ、口へと運んだ。で、一応書類書いてって言われたんだけどさ。口の中で果肉がはじける。書類持ってくるから待ってろって言ったきり戻って来ないわけ。舌先に酸味が纏わりつく。じれったくなっちゃって、悪いとは思ったけど、鞄の中身が気になってきたのよね。すべらかな触感を咀嚼する。何が入ってたと思う?嚥下される真っ赤な実。何?――冷たくなったわたしの身体。
――っていうのは冗談。どう?びっくりした?――くだらない。呆れた顔で、彼女を見据える。それで、何処から嘘なのよ。わたしは卵焼きに箸を伸ばす。黒い鞄が藪に置いてあったところまでは本当。でも、本当の中身はあなたの――
空の弁当箱と箸がカラカラと音を立てて床の上を跳ねた。

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善悪

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