目を覚ますと、時間が止まっていた。というより、街が、ひょっとすると宇宙が凍っていたと言った方が適切なのかもしれない。
世界は朝とも夜とも言えない、或いはどちらとも言えるような、青とも白とも黒とも言えるような色に染まっていた。
妙だなと思ったのはそれだけではなかった。目覚めたのは見覚えがあるような、ないような部屋で、焦然として窓の外を確かめると、やはり同じように何処かで見たことがあるような不思議な風景が広がっていた。
そのうちにトン、トン、トン――と、階下から包丁が俎に触れる音が聞こえてきた。わたしは言い知れぬ不安に突き動かされるようにして部屋を出て階段を――この階段もいつか降りたことがある気がした――ゆっくりと降りていった。お母さん……?わたしの脳裡にはそんな言葉が去来した。そして、恐る恐る音のする方へ行った。が、そこには何物も無い。
途端にわたしは痛烈な淋しさを感じ、家を飛び出した。振り向けば家はよくある二階家で、涙に濡れた視野の向こう側、粗末な門扉の外に小さな人影が見えた。それは紛れもなく幼児のわたしの姿であり、誰かの手を握ろうと、その小さな腕を伸ばしていた。わたしは自分でも何故かわからないままに走り出した。それに何処に行くのかさえ――
走りながら、曖昧な景色はどれもいつか見たような気がした。そして、街のそこここにいつかのわたしがいた。ランドセルを背負うわたし、自転車に乗るわたし、照れながらネクタイを結ぶわたし、靴箱に入った手紙に驚くわたし、新幹線に乗り込むわたし、レストランで夜景を眺めるわたし、やがて誰かと抱き合うわたし、独り子を連れて歩くわたし、泣き崩れるわたし、漸然老けていくわたしの姿たち……
わたしはそれらの曖昧なわたしの群れを、さながら臆病な子供がお化け屋敷を早く抜けようとするみたいに走り通り過ぎて行った。そうして息を切らして走るうちに、わたしは自分自身の姿が見えないことに気がついた。けれども、その事には何らの不思議も感じなかった。
どれくらい走ったのだろう、街はいつの間にか薄桃色に染まっていた。描線の覚束無い住宅地の行き止まりで立ち止まったとき、不意に背後からわたしの名を呼ぶ声がした。わたしはゆっくりと振り返る。朝日の昇る気配がした。
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刹那
4/28/2023, 12:30:03 PM