紙ふうせん

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5/28/2023, 3:37:23 AM

『天国と地獄』

俺は悪夢にうなされていた。

殺されたのだ。友人に切羽詰まった様子で20万円貸してくれと言われたが、俺は本当はそのくらいの金はあったが「悪いな、俺もないんだ」と残念そうに言ったんだ。
するとあいつは突然、「ふざけるな!お前の給料日が今日だったのを俺は知ってるんだぞ!」と急に人が変わったみたいに怒鳴った。

何があったのかは知らないが、こんなふうにいきなり友達を怒鳴るような奴じゃないのに。金に困ると人は変わるというが、本当なんだな。

するとあいつはなんとズボンのポケットから折りたたみナイフを取り出したんだ。開くとかなりの大きさだった。

あいつの目が血走って「くそっ、どいつもこいつも、俺を馬鹿にしやがって」とうわ言のように呟いた。

俺はさすがに恐怖を感じた。いつもはおとなし過ぎるくらいおとなしい奴なのに。
そういう奴ほど、怒ると怖いというが本当だ。
「ま、待てよ。そうだ、あったよ、あったんだ、金が。だからそれをやるからそんな物騒な物はしまってくれ」と俺は言ったが、もう奴の耳には届いてないようだった。
奴の目に力が入ったのがわかった。
俺は慌てて、今日会社の帰りに下ろした20万円をカバンから出して奴に渡そうとした。

鋭い痛みが走った、と思ったら、奴が金をつかみ「ざまあみろ」と言って笑っている。「やっぱり、持ってたのに、なんで貸してくれなかったんだ。お前が悪いんだからな、友達だと思っていたのに」と、奴が虫けらを見るような目で俺を見下ろしている。
何が起こったのか、瞬間わからなかったが、腹がひどく痛むので手を当てると手が真っ赤になっていた。

血だった。あいつに刺されたんだ。
「ちくしょう」と言いながら俺はケータイに手を伸ばそうとした。が、何故か力が入らず、取れない。
俺は死ぬのか?たかが20万円の為に。
すぐに渡せば良かったんだ。こんな事になるなら。
腹を抑えてる手の間からどんどん熱い血が流れでているのがわかる。
それと同時に体の力も抜けていく。もう痛みはなかった。かすむ目にあいつが笑っているのが見えたのが最期だった。

そこで、俺は目が覚めた。部屋は暗くてわからないが、腹に手を当てても濡れないし痛くない。

なんて恐ろしい夢だったんだ。額は汗びっしょりだ。
夢だった!俺は生きている!やった!!小躍りしたい気分だった。

その時、左手に何かを掴んでいるのに気づく。金だった。は?どういう事だ?!

起き上がろうとすると、体に力が入らなかった。それでもなんとか立ち上がると、俺は死ぬほど驚いた。

友人が腹を抑え、血を大量に流して死んでいる。

そうだ、思い出した!俺はどうしても金が足りなくて店の金を20万円、使い込んだのだった。今日中にレジに戻しておけば気づかれない。

友人という友人を訪ねて金を貸してくれと頼んだが、誰も貸してくれなかった。もう時間がない。俺は飲まず食わずで走り回っていたのだった。
そして、最後に浮かんだのが、今倒れている友人だった。たしか俺と給料日が同じだったはずだ。もう時間がない。俺はものすごく焦っていた。

今まで真面目に勤めていたのに、昔の悪い同級生が偶然店に買い物に来て、俺を見るとニヤニヤして、ちょっとつき合えよ、と言った。

店の店長や同僚も見ている。店長に頭を下げて、少し時間をもらう。
店の外に出ると急にそいつは「お前、この店で働いていたのか、いい事を知ったよ」と言った。嫌な予感がした。
「なあ、20万円貸してくれよ、いいだろ?断れば毎日来るぜ」と言われ、仕方なく俺はもらったばかりの給料を渡したのだった。

店に戻って店長に謝ってから普通に仕事しながら、これからひと月、どうやって暮らそうか考えていた。貯金なんてなかった。家賃が明日口座から落ちる予定だった。どうしよう、払えなければ住んでいられない。万事休すだった。

追い詰められた俺は、店長や同僚が先に上がり、俺ひとり残った店でどうしようか考えていた。だが、いくら考えてもどうにもならなかった。
そして、レジの金を20万円出して、店のATMから俺の口座に入金した。

これでとりあえず家賃は払えた。あとは今日中にレジに金を戻せばいいんだ。俺は友人に頼もうと、次のシフトの奴に、親が倒れたので悪いが今から仕事に来て欲しい、様子を見たら戻るから、と電話すると、そいつは気がいい奴で、それは大変だ、店は俺がすぐ行くからお前は病院にいく用意をしろ、と言ってくれた。
そいつが店に来るのを待って、俺は飛び出し、それからひたすら友人のところを回って頼んでいたのだった。

誰も相手にしなかった。腹は減るし喉は干上がったように乾いていたが、構ってられなかった。そして最後の頼みの綱にあいつの事を思い出したのだった。あいつはいい奴だから頼めば貸してくれそうな気がした。
俺はヘトヘトだったが、あいつのところを訪ねたのだ。

そして、あいつすら断ったんだ。それで俺はもう絶望的になって。

右手を見ると血まみれのナイフを掴んでいた。家から持っていったものだった。

ど、どうしよう。着ているTシャツは血まみれだった。
俺は殺した友人のタンスを開けて、入っていたそいつのTシャツに着替えた。

急いで店に戻らないと。すると、ドンドン!とドアを叩く音がする。
俺は飛び上がりそうになった。
「おーい、俺だよ、なんだよチャイムも鳴らなかったぜ。お前の所にあいつが来なかったか?20万円貸せって、えらい切羽詰まった顔してたぞ」
万事休すだった。これでなんとかなると思ったのに。
俺は疲れ果てていた。もう体が重くて立っているのがやっとだった。

最悪だ。悪夢を見て目が覚めて、良かったと喜んだのに。
もう、おしまいだ。なんて事だ。あいつさえ、あいつさえ店に来なければ。俺は地獄に落ちるんだろうな、とぼんやり考えていると、ガチャリ、と音がしてドアノブが開けられた。




5/27/2023, 12:11:19 AM

『月に願いを』

咲哉はいつも「月に行きたいな」と言っていた。
生まれつき病気があり、生まれてからの大半を病院で過ごしている。
咲哉の世界は、白い病室と窓から見える景色が生活のすべて。かわいそうな咲哉。

いとこの私は「なぜ月に行きたいの?」と聞く。咲哉は「だってみんなが見てくれるじゃない?僕が、死んでも」それだけ話すのも辛そうに言う。

私は咲哉の目を覗き込みながら「咲哉は死なないわ」と長い髪が咲哉の頬にかかるのも気にせず言う。

外に出られないので咲哉の肌は、陶器のように滑らかな白い肌をしている。いつもママが飲み物を飲むのに使っている、真っ白なきれいなカップが咲哉の肌に似ていて、聞いたら「これは陶器でできているの」と教えてくれたから。
髪は癖があるので、少し伸びると巻き毛になって、その色素の薄い、茶色い瞳によく似合っていた。
私は、まるで家にあるガラスのケースに入った良くできたお人形のように美しい咲哉を見るのが好きなので、こうしてよく会いに来る。

咲哉の滑らかな頬に手をそっとあてて優しく撫でながら「もし」と言うと、咲哉のきれいな色素の薄い瞳が私を見る。
「本当に咲哉が死んだら」その巻き毛に指を絡ませながら「毎日、毎晩、必ず月を見て咲哉に話しかけるわ」と言う。
すると咲哉はぐったりとして「それなら」そう言うだけで苦しそう。
「僕は死ぬのが、楽しみだよ」と言うと、疲れたのだろう目を閉じた。
なんて長いまつ毛、美しくてかわいそうな咲哉。
私はまだ子供だから、死ぬ、という事がよくわからなかった。
死んだら、と小首をかしげて、咲哉はこのベッドからいなくなるの?

疲れて、小さく寝息を立てている咲哉を見つめながら、いなくなるって、どういう事だろう、と考えた。
そして、咲哉の言う通り、月に行くのだろう、と思った。

眠りを邪魔しないよう、そっと病室のドアを開け、私は帰る。

翌朝、肩をそっと揺すられて目覚めるとママが悲しそうな顔をして「黒いワンピースに着替えて。咲哉が夕べひどい発作を起こして亡くなったの」と言った。見るとママも黒い服を着ていた。
私は黒いワンピースを着て長い髪を梳かしながら、咲哉はちゃんと月に行けたのかしら?と考えた。

ママに手を引かれどこかの広いお部屋に入った。
真っ白な入れ物に咲哉は入っていた。きれいな白いお花に埋もれて咲哉は眠っていた。

この入れ物でお花に埋もれて咲哉は月に行くのだろう、と思った。

白い病室、白いベッド、そしてまた白い入れ物に白いお花。咲哉によく似合うわと考えた。
私はその日から、毎日毎晩、月を見て咲哉に話しかけた。

今日、かわいい子猫を見たこと、きれいな青いお花が咲いていたこと。

その夜は月がまん丸でとても明るかった。「あら、今夜は満月ね」とママが言った。

私は庭に出て、その大きな明るい月をじっと見た。何かの形が月の中に見えた。きっと咲哉が踊っているんだわ、と思った。楽しそうに、軽々と。
良かった、咲哉は願ったとおりになったのだわ。
私は嬉しかった。でも、本当に月に行ってしまったのなら、もうあのきれいな陶器の様な咲哉の頬も色素の薄い瞳も、きれいな巻き毛にも見れないし触れないんだ、と思うとそれは悲しかった。

咲哉、いつの日か私が行くまで待っていてね。その代わり、毎日毎晩、話しかけるから。

「風が冷えてきたわ。お家にお入りなさい」とママが言った。「はあい」家に入るとき、そっと月にいる咲哉に手を振った。

5/25/2023, 1:55:38 PM

『いつまでも降りやまない、雨』

私は雨の日が嫌い。
だけど、そんな理由で会社に行かない訳にはいかない、いくらなんでもそこまで非常識ではない。

いつものバスはやめて電車で会社に行く。
雨の日は、いつもそうだ。

「おはよう、佐々木さん」
振り向かなくてもその声でわかった。

「おはよう、山口さん」
山口さんは同じ課で、机も隣同士の男性。

誰にでも親切で、明るい性格がみんなから好かれる要因で、女性からの受けも良く、私は隣の机なので、全然違う課の女性からも手紙を渡して欲しい、とか、メアドを知らないかとか、いろいろ聞かれる。

正直、とてもいい人だけど、手紙はちゃんと渡すが、メアドを知るほどの仲ではない。単なる同僚に過ぎない。

第一、彼に好意を抱いてる女性達から目の敵にされるのも困るから。

それなのに、そんな私の気持ちも全く知らずに、お昼になると、社食の同じ課の人の隣が空いていると、すぐ座る。

私は、一人で食べるのが好きなので、そうしているのだけれど、すると高確率で、「ここ、座っていいかな?」とにこにこした山口さんがお盆を持って立っている。

「あ、ど、どうぞ」と、大口で、竜田揚げを口に入れたばかりの私はモゴモゴと言う。
お盆を置くと、静かに椅子を引き座る。
食べてる横で、ドサッと座らないのも彼流の気配りなのかしら。

彼のお盆に何気なく目をやり、いつもながら、吹き出しそうになる。

大盛りカツカレーライスとラーメンがホカホカといい匂いをさせながら乗っている。

(こういうのを、痩せの大食いっていうのね)

言葉には出さないが、山口さんは、見ていて気持ちがいいほどよく食べる。
そして、ぺろりと完食し、お盆を返すときも「おばちゃん、ごちそうさま、今日も美味しかったよ」と言うので、社食のおばさんは、きれいに食べてお礼も言われて気持ちがいい、と彼には唐揚げを少しサービスしたり、ラーメンのチャーシューを一枚なのに、二枚、乗せてあげたりしている。

本当に、幸せそうに、でもきれいに山口さんは食べる。

そこまで考えて、不意にこみ上げるものがあり、考えない事にして、私は立ち上がり「お先に」と言いながら席を立つ。

自販機の前で、壁によりかかり、外の雨を見ながらコーヒーを飲んでいる。

よく降るなあ、今日は一日雨なのかしらね。

ぼんやりと雨を見ている。
雨は嫌いだ。

さっさとコーヒーを飲んで、自分の課に戻る。


仕事が終わり、まだ降り続く雨を恨めしそうに見たあと、ため息をつき傘を差して歩き出す。

ぼんやりと歩いていると、いきなり
「危ない!」という声と、私の肩をつかむ手を感じ驚いた。

私の体スレスレに結構スピードを出した自転車が通り過ぎる。

「歩道はもっとゆっくり走れよ!」
その声で、私けっこう、今、危なかったんだ、と急に気づき、膝がガクガクしてきた。
「大丈夫だった?」と、心配そうにのぞき込むのは、山口さんだった。

動悸が止まらない、私は無意識に「……なんだか、気分が、悪い」と言いながら、腕に捕まる。


「少しは落ち着いた?」
その近くの喫茶店に、私と山口さんはいた。少しレトロな感じの造りで、静かにインストゥルメンタルがかかっている、感じのいいお店だった。

ビロードの様な手触りのなめらかなソファに深く座り、ホットミルクを飲んでいたら、私は落ち着き、普段の気分に戻っていた。

「さっきはありがとう、ボーッと歩いていた私も悪いよね」なんとか笑顔を作り山口さんに言う。

「佐々木さん、雨の日は、いつもそうだよね」

息が止まりそうになった。
なるべく普通にしていたのに、何故?

あんまり私の反応が強かったせいか「ごめん」と山口さんが、ポツリと言った。

「ううん、周りにわかっちゃってたんだ。駄目だね、私」とため息をつき、そういう私に、

「いや、みんなは気づいてないかもしれない。元々、佐々木さんは一人でいることが多いから」

「僕は、隣の席だから」


そうか、彼は気づいていたんだ。
私が雨の日が嫌いで、いっそう無口になる事を。
だから、明るく挨拶してくれたり、社食で、隣に座ってくれたんだ。

不意に、この重荷をおろしてしまいたい、誰かに話したいと私は思った。
誰かに聞いて欲しいなんて、思ったのは初めてだった。

「私ね、恋人がいて結婚も決まってたの」誰にも、一生、言わないと思っていたのに。

「それでね、その日は雨が降っていて、あんまり気分よくなかったの」

私はその日、婚約者である翔ちゃんと食事に行った。翔ちゃんは幸せそうに、本当に美味しそうに、いつも食べる。私はそれを見ているのが好きだった。そして、喧嘩になったのだ、帰り道に。

発端は些細なことだった。
式に呼ぶ人をここまで、って思っていたのが、私と翔ちゃんで違っていたのだった。
翔ちゃんは、人付き合いを大切にするタイプだったから、会社の人も呼ぶつもりだったのだ。
私はといえば、友人まででいいんじゃない?とドライに割り切っていた。

翔ちゃんは、それは良くないよ、ときかなくて。だから、雨でストッキングが濡れて気持ち悪かった事もあって。

そうだ、それで私は、もういい!って言うと、雨の中、角をパッと曲がったんだ。

さっきまでいた辺りで、車のブレーキ音と何かがぶつかった鈍い音、鳴り響くクラクション、人々の悲鳴で、私は慌てて戻った。

そうしたら。

蒼白な顔をして血だまりの中に横たわっている翔ちゃんを見たのだ。

運転してたのは若い子で、まだ免許取りたてで、雨の日の運転は初めてという未成年の女性だった。

その女性は、何も言わずに運転席から離れなかった。

「翔ちゃん!翔ちゃんてば!しっかりして」
雨のせいなのか、わからなかったが、翔ちゃんの体は冷たかった。

私が、つまらない事で、喧嘩なんかしなかったら。
一緒にいたら。

ずぶ濡れで、血だらけになりながら
私は、翔ちゃん、嫌だよ!置いていかないでよ!と叫び続けていた。

翔ちゃんは、内臓破裂と出血性ショックで救急車の中で亡くなった。

車を運転していたその女性は、まだ免許取りたてで、初めての雨の日、ということもあり、父親がどこかの社長ということで、交通事故の事件に詳しい、有能な弁護士を雇い、私と翔ちゃんのお母さんは(翔ちゃんには父親がいなかった)、一度もその女性には会わせてもらえず、常に弁護士と時々父親も出てきただけだった。

彼女に、謝罪をしてもらいたいんです、と言うと、とてもショックを受けていて、まともに話せる状態ではない、と言われた。

何度か弁護士と会い、弁護士は、翔ちゃんのお母さんにかなりの額を提示して示談で済ませようとした。

私は絶対、法でさばいて欲しかったが、結婚したら翔ちゃんのお母さんとも一緒に住むことになっていたけれど、それもなくなった。

お母さんが一人で暮らしていくには、現実的に、お金が必要だった。

私は、翔ちゃんがいなくなった今、何も言える立場ではなかったから、お母さんが示談の話を受けても何も言えなかった。

その女性の家に何度が行くうちに、洒落た階段の、すぐ横辺りの二階の部屋の窓が開いていて、軽快な音楽が聴こえている事が何度かあった。

私は、すみませんがトイレをお借りできますか、と言い、一気に階段を駆け上がりドアを開けると、その女性は音楽を口ずさみながら、マニキュアを塗っていた。

私は、怒りがこみ上げて「この、この人殺し!翔ちゃんを返して!一言謝りなさいよ!」と叫んだ。

彼女は、悲鳴を上げ、「殺される、誰か!」と叫んだ。

私は弁護士と父親達に引きずられながら「人殺し!一生、許さないから!」と叫んだ。

父親は激怒して、訴える。と言ったが、弁護士に説得され渋々黙った。

帰るとき、弁護士が「今度やったら接近禁止にしますよ」と言った。

翔ちゃんのお母さんは「気持ちは嬉しいけれど、あなたはまだ若いのだから」と言って、早く忘れてくれていい、と言った。

忘れる?!何もしてないのに婚約者が殺されたのに。忘れる?!

それから、雨の降る日は嫌いになった。

通勤のバスだと事故現場に比較的近い場所を通ってしまうので、雨の日は乗る気になれず、不便な電車を使った。

ゆっくり、ゆっくり、噛みしめるように話すと、不意に、翔ちゃんの笑顔を思い出した。

思わず、急いで下を向いたけれど
スカートがシワになるのも構わず握りしめる手の上に、ポタポタと涙が落ちた。

あれ以来、私は初めて泣いたのだ、ということに、今気づいた。

山口さんは、痛ましげにそんな私を見つめて、不意に言った。

「今度、あじさい寺に、行かない?」

「あじさい寺」私がオウム返しに言う。

包み込むような優しい眼差しで山口さんが言う。

「うん、とてもきれいなんだよ」

「晴れの日でもいいし、雨に濡れるあじさいを見るのもいいし」

あじさい寺。聞いたことがある。

雨に濡れて光るあじさいの雫は、さぞきれいだろう。

これほど、雨が似合う花は他にはない。

「傷を隠しているだけなら、治らないよ。だからって、無理に治そうとしなくていいと思うよ。きっといつか少しずつ、治っていくはずだから」

言葉を選ぶように、一言、一言を山口さんは、ゆっくりと、言った。

「考えてみるね」そう言ってお店を出た。

雨は、いつの間にかやんでいた。

一緒に歩きながら、ポツリと山口さんが言った。

「佐々木さんの心の中の」

なに?

「その雨は、絶対にやまないの?」

歩きながら、私は考えた。

傷を隠すのは、もうやめようか。

でも、出来るかな?私に。

話したら心が少しだけ軽くなった。

長い長いトンネルの中から、先の光が少しだけ、見える。

「……山口さん」

「うん?」

私は、思い切って前を向きながら言った。

「今度、雨のあじさい寺、見てみたいな」

「うん、他にも、花の名所、そのうち行ってみる?」山口さんが、言う。

「そう、だね。」

翔ちゃん、私、翔ちゃんの事は一生忘れないよ。

でも、そろそろ、前を向かないとね。

翔ちゃんも、心配するよね。

どんなに長く降る雨も、いつかはやむんだね。

「お、虹だ」その声に我にかえる。

「わあ」それは、きれいなきれいな、はっきりとした、でも夢のような虹だった。 ああ、何かをきれいなんて感じたの、いつぶりだろう。

ふと、隣から、なんとも悲しげなグウウ、という音がした。

なんと、山口さんのお腹の音だった。

「うー、腹減ったなあ」と無邪気に言うものだから、笑みがこぼれた。

「どんぶり屋さんにでも行く?」
と言うと、「ごめんね、いい?」と、もの凄く嬉しそうな顔で、山口さんが言った。

5/23/2023, 3:08:25 PM

『逃れられない呪縛』

僕は、生まれてから付き合う女性に事欠くことは一度もなかった。

いつも女性から告白され、ある程度付き合うと、飽きてしまう。飽きるとひとときも一緒にいるのが苦痛になるのでいつだって恋の終わりは同じになる。

「君といても、もう楽しくなくなったよ、だから今日で別れよう」

その時々によって返答は多少違う。

「ねぇ、私のどこに飽きたの?私、直すから、お願い、捨てないで」

「ひどい人!あんなに優しかったのに。ねえお願い。別れるなんて言わないで」

とどのつまり、いい方は違えど、皆泣いて僕にすがり、別れたくないという。しかし飽きてしまったものは仕方がない。

「悪いね、一緒にいたくない相手といるのは僕には苦痛なんだよ」
肩をすくめてみせて、ドアを開け
「さあ、帰ってくれ」という。

泣きながら帰る女、怒りながら帰る女、肩を落として帰る女と相手によって様々だ。

寝心地のいいベッドにドサリと身を沈めながら、「やれやれ、僕は自分に正直なだけなのになぁ」といい、今度はどんな女性と付き合おうか、と考えながら寝る時間が好きなのでウトウトしてそのまま眠りにつく。

ある日のこと。
それはまさに青天の霹靂といえるものであった。僕の方から生まれて初めて恋をした。
燃えるような強い意思を思わせる目つきをした、その女性に夢中になった。

でも、どんなご馳走も毎日毎日食べていたら飽きてくる。例によって、僕はその女性にも飽きてきた。

(どうも僕は誰かとずっといる事ができないようにできているのかな)

そう思いながら、彼女が訪ねてきた日、ドアを開けるなりいいはなった。「すまないが、君にはもう飽きてしまったんだ。だからこれで別れよう」

これもいつも通りだ。ただ少し違っていたのは、僕は少しだけ心残りだったということか。それも驚くことだったには違いない。

爪を噛みながら、(こんな女はこれからもいないだろう。でも飽きがきたんだ、気性が激しそうだから、別れるのに少し面倒が起こるかな)

長いため息と共に、「いや、別れよう。少しでも飽きたのだから、一緒にいてもつまらないだけだな」
そんな独り言をいい、別れを決めた。

だから、彼女が訪ねてくるなりいったのだった。

「別れる?」と彼女がその、意志の強そうな目を見はりいった。

そうだ、僕は、すがりついてこない、意志の強そうな、この目が好きなのだったっけ──

「後悔するわよ」
僕は、びっくりした。
そんなことをいった女は、初めてだったから。

やれやれ、泣いてすがる代わりに脅しかい?やっぱり、他の女たちとは違ってたな──

(まあ、精一杯の虚勢だろう)唇の片側を歪ませて、僕はそう考えた。

そして手を胸の前で大げさに打って笑いだした。

彼女は、その様子をひどく冷静に見ていた。まるで昆虫でも見るような目で。

そのさまに、僕はだんだん苛立ってきた。怒りのままに壁を乱暴に殴りつけ、腹立ちまぎれにいった。

「君の虚勢もなかなかおもしろかったよ」肩をすくめていってのけた。前髪の乱れにも全く気づかずに。

「君が何をいおうと僕はもう、別れると決めたんだ、悪いね」

少しも悪いと思っていない僕に追い打ちをかけるように、淡々と彼女はいうのだった。

「私からではなく、あなたから別れるというと、あなたが後悔することになるわよ」

もう、僕の怒りは限界を越えていた。
あまりの事にこめかみが痙攣し始める。

「後悔?はっ!そんなことするわけないだろう。さっさと帰ってくれ」
ドアの外を指差す手が怒りで震えていた。

こんな屈辱は初めてだ──

すると、彼女は「さよなら」といい残すなり
あっさり出ていった。

「なんて女だ!!」

てっきりすがりついてくると思った女が、逆に脅したのだ。

この僕を!!



週が変わる頃、僕は告白された。

そしてまた、しばらく付き合っては飽きて捨てる生活に戻った。

何人も、何人も。

悪いとさえ思ったことはなかった。

僕を脅した女のことなど忘れた頃、その時付き合っている女性が寄りかかったていた体を一旦離し、訝しげに僕の顔を見る。

「なんだい?」見とれてるのかな?
と思いながら、笑顔でいうと、
「あなたの顔に、薄いシミができてるわ」といった。

え? シミ?

今朝、鏡を見たときは、そんなものはなかった。

その女が帰ったあと、僕は鏡を見る。(なんだ?)

明るいところで見ると、今朝はなかったのに、確かに頬にうっすらシミのようなものがあった。

いやだな、僕のきれいな顔に──

彼はさっそくくすり屋に行き、シミに効く、という薬を買った。
「その程度でしたら、毎日塗っていれば一週間もしないで跡形もなく消えますよ」と店員は笑顔を見せた。

だが、いくら塗り続けても、一向に良くならないのだ。

気のせいか、前より濃くなっているようにも見える。

「そんなシミなんかあっても、あなたが好きよ」女性は優しくいった。

しかし時が経ち、またその女に飽き、別れを告げた。

次から次へと、僕に告白する女性は後を絶たない。

しばらくすると、ひとりの女性が眉根を寄せ、じっと見てから

「付き合い始めた頃より、そのシミ、濃くなっているわ」といった。

さっそくいろんな角度から、鏡で確かめる。
確かにシミはかなり濃くなっている。

僕はとうとう、病院にいった。

軽く考えていたのに、医師は恐ろしいことをいった。

「これは皮膚がんの一種です。一刻も早く取り除かなくては」

僕は震え上がったが、さいわい遺産があるのでお金には困らない。

手術で完全に取り除いたあとも、傷跡ひとつ残らないようきれいにした。
かなりの出費だったが、僕にとってはそれは大した問題ではなかった。

鏡には、また元のシミひとつない美しい顔が映っている。

僕は満足し、また告白された女性と付き合いだした。

ところが、またしてもうっすらとシミができるのだ。

そんなバカな!
僕はどうしてこんなことになるのかさっぱりわからなかった。

シミはどんどん濃くなり、憂鬱な気分を吹き飛ばそうと、ある日一緒に酒を飲みにいった友人が何気なくいった。

「おい、どうしたんだよ、その顔のシミ、よく見ると女の顔に見えるぞ」

そして、こういった。

「えらい意思の強そうな目の女の顔に見えるぜ」


5/22/2023, 2:39:39 PM

『昨日へのさよなら、明日との出会い』

美紀は交通事故にあった。
ひどい事故で、出血がひどく、救急車ですぐに病院に運ばれた。

出血はひどかったけれど、みんなが思ったよりはひどくなかった。足を骨折していたけれど。

頭を強く打ったので、すぐにMRIで調べられた。
奇跡的にどこもなんともなかった。

そして、目が覚めた。すぐに医師と看護師さんが来て、家族は一旦、外で待つよう言われた。

父と母、そして姉の美佳の3人が待合室で待っていた。
「どうかしたのかしらね、もう、あれから20分よ!」と、母が父に、これ以上じっとしていられない、といった風に着ている服の胸元を手でギュッと握りしめている。おそらく無意識だろう。

「……そうだな、先生に聞いてくるか」と父が立ち上がった所で、ドアをノックされ看護師が「お待たせしました。先生からお話があるそうですので」と言い先頭を歩き、私達はゾロゾロとついて行った。

なんだろう、なにかしら?何かまずい事でも、何か、何か?
3人が3人共、それぞれの考えに没頭しながら。

前を歩いていた看護師がピタリと止まり、ドアをノックし開けると
「どうぞ」と言った。
みんな、ぎこちなく会釈して中に入った。パソコンと、レントゲン写真がデスクの前に後ろから電気に照らされ、映し出されている。
素人目にも、それが脳のレントゲン写真である事が分かった。

「お待たせしてすみません」と医師は言い、「どうぞ、お掛け下さい」と手で示され、気づくと3つ、椅子があった。そんな事にも気がつかなかった。

父から母、姉の順番で座り、父と母は膝の上で手をこぶしにしている。

「検査の結果、慎重に調べましたが娘さん、美紀さんの脳には」おもむろに医師は言い、ごくり、と父の喉仏が動く。

「異常は何も見つかりませんでした」と言った。ふっと緊張の糸がぷつんと切れた音がしたような気がするくらい、みんなホッとした。
「しかし」と医師が言うと、またピーン、と糸が張られた。

「記憶が、ないんです」と、医師が言った。
「何を、どう調べても、異常はないのですが、記憶が、記憶がないようなんです」と言う。額に軽く汗をかいている。
(先生が、困っている?)と姉の美佳が思うと、ガターン!と音がして
「記憶がない?あの子は、美紀は」
母が立ち上がり、椅子が倒れている。

「美紀は、私達家族の事も覚えてないんですか?」
「それは、あれですよね?記憶喪失ってものですよね」母の目が血走っている。
「それは、それはどの位で元に戻るのですか」と、父が静かに言う。

母と私は、ハッとして、医師を見た。

医師は、困惑したような顔をして、言った。

「正直申し上げて、わからないのですよ。一時的なものですぐに記憶が蘇ってくるのか。最悪、このまま、という可能性もあります」

時が止まったかのように、3人は音を立ててはいけない、とでもいうように
身動きひとつ、しなかった。

均衡を破ったのは、姉の美佳だった。

「先生、私達、今、妹に会えるんですか?」

医師は、頷きながら言った。

「ひとつ、申し上げておきますが、美紀さんは何も覚えがないのです。なので、あなた方が家族だとすぐにはわかりません。混乱すると思いますので、静かに、ひとりずつ、優しく話しかけてみてください」
「中には、少しずつ思い出していく人もいますから。どうか、落ち着いて。焦らないでください」看護師を同行させます、と医師は言い、お礼も忘れて病室に向かった。

(私達を見れば、思い出すに決まってる。だって、だって家族なのだから)

なんの確証もないまま、それぞれがそう思い、病室へと歩いた。


「どうぞ」私達のノックに、中にいた看護師が答え、静かにドアを開け中に入る。

そこには、美紀が頭に包帯を巻き、足を固定されてベッドにいた。

「美紀さん、ご家族が心配していらしたのよ?」と、看護師が優しく美紀に話しかける。
「かぞく」と美紀が言い、こちらを見た。
「美紀ちゃん、分かる?お母さんよ」
母はなるべく静かに、不自然な笑みを顔に貼りつけてそろそろと美紀に近づく。
「美紀、大変だったな。お父さんだぞ?」父もまた作り笑いが痛々しく、ゆっくり歩み寄って行く。
「美紀、お姉ちゃんだよ、分かる?」
最近は、喧嘩ばかりしていたから、嘘くさい笑顔だな、と思いながらも美佳も笑いながら歩み寄る。

しかし、みんなの努力は次の一言で虚しく散った。
「家族?私の?私って誰?」
「知らない!知らない!こんな人たち知らない!!私の名前、名前?え?なんで出てこないの?!なんで?私どうしたの?!」

「すみません、ちょっと離れてください」看護師が私達に小さい声で鋭く言った。
「大丈夫よ、大丈夫、落ち着いて」と看護師が美紀に優しく言い、もう一人の看護師に目で合図した。

すると、素早く注射を出して来て興奮する美紀の腕に打った。

しばらく、優しい顔で力強く美紀をふたりがかりで押さえていたが、美紀の力が抜け、気づいたら寝ている。

「混乱されたので、鎮静剤を打ちました」と言い、看護師はふたりとも出て行った。

その日は、どうしようもなく、車で家に帰る。
誰も何も言わない。
美紀は、美紀の脳はどうしちゃったんだろう、と美佳が考える。

記憶ってどこで覚えているのだっけ?主に海馬なのかな?
つまり、そこが空っぽに今はなってるって事?

元に、元になんて戻れるのだろうか。
失くしたものがどうやったら、出てくるのだろう。
「美佳」と涙声で母に言われ、気づくと美佳はぽろぽろ涙をこぼしていた。

「美紀はどこに行っちゃったの?」
「あそこにいるのは、私達を知らない子なんだよ!」
言っちゃだめだ、お父さんやお母さんだって、ショックを受けているんだから。
頭ではわかっていても、気持ちがついてこなかった。
「美紀は、私達の家族の美紀は、どこに行っちゃったの〜!!」美佳は、こんなに泣いたのは何才以来だろうと思いながら、只々唸り声のように泣き叫んでいた。

翌日から、1人ずつ、行こうと決めた。
そして美紀が混乱しそうになったら、すぐにナースコールする、と決めて。

年が近いから、思い出しやすいかも、と医師に言われていたので、美佳から学校帰りに、顔を出した。

「美紀〜。今日はとても良い天気だよ。」何も返事無し。
それでもそんな事は当然だと思っていたので、傷つきはしなかった。

あれから昨日の夜は寝ないで考えた。
もし、あれが私だったら、そして全然知らない人達が、お父さんだよ、とかお母さんだよとか、お姉ちゃんだよ、なんて言われたら……。きっとものすごい怖いだろうな。

何が起こったのかわからないし、思い出そうとしても、自分の名前すら真っ白で分からないなんて。

当然、混乱するよね。
私なら、何がなんだかわからなくて、怖くて震えが止まらないかも。
夢なら、悪夢なら、早く醒めて、って思うよね。

だったら、と美佳は思ったのだ。
昨日までの、今までの『美紀』は、昨日で死んだのだ。
昨日でさようならしたのだ。

今いるのは、新しい、体は大人だけど生まれたての赤ちゃんの『美紀ちゃん』なんだ。
昨夜ずっと考えて、明日の『美紀ちゃん』は、また最初から積み上げていけばいい、と思い至ったのだ。
失くしてしまったのなら、また赤ちゃんがゆっくり育つように明日から、生まれたばかりの『美紀ちゃん』にいろいろ教えて、新しく記憶を増やせばいいんだ。

今朝、やはり眠れず憔悴した顔の両親に、そう言ってみた。

しばらくして、母が言った。
「まさか、この年で子育てするとは思わなかったわ」すると、黙っていた父が、私を見て言ったのだった。
「美佳、美佳は強いな。そうだな。仕事にかまけていたから、今度は優しいお父さんになるか」

「そうね、昨日までのあの子は死んでしまったかもしれないわね。そしてまた、新しく成長すればいいのよね」
母が少し、明るい声で言った。

「体の大きな赤ちゃんだと思えば、ご機嫌斜めになったら、すぐにナースコールでバトンタッチ!」と私が言うと、ふたりは少し笑顔になった。

「じゃあ、我が家の新しく誕生した大きな赤ちゃんに、1人ずつ、ゆっくり会いに行って育てていこう。先生にこの考えと、誰が今日はいいか、聞いてこよう」父が少し張りが出た声で言うと、電話をしに行った。

「美佳」と母に言われ母を見る。
「ひとりで寝ないで考えたのね、美佳はさすがお姉ちゃんね!」少し微笑して母が言った。

「なかなか手ごわそうな赤ちゃんよ」と私がおどけて言うと
「赤ちゃんはみんなそうよ。美佳も、ものすごく大泣きしたのよ」と楽しそうに母が言う。

「ねぇ、赤ちゃんって何年もかかって育っていくのでしょう?私、保育士目指そうかな」と美佳が言うと
「それはいいわね!将来、美佳がお母さんに、もしなっても、役立つわよ」

母がだんだん少しずつ元気が出てくるのがわかった。

「そうだよ。今日から、『新生・美紀ちゃん』の誕生だよ」

「今、先生に話してきた。先生が美佳を褒めてたぞ。混乱するからひとりずつで今日は美佳がいいそうだ」と少し嬉しそうに父は言った。

「赤ちゃんは、今日はご機嫌はどうかな?」と父が言い、きらきらした瞳で
みんな笑顔で「ご機嫌斜め!!」と言った。

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