紙ふうせん

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『昨日へのさよなら、明日との出会い』

美紀は交通事故にあった。
ひどい事故で、出血がひどく、救急車ですぐに病院に運ばれた。

出血はひどかったけれど、みんなが思ったよりはひどくなかった。足を骨折していたけれど。

頭を強く打ったので、すぐにMRIで調べられた。
奇跡的にどこもなんともなかった。

そして、目が覚めた。すぐに医師と看護師さんが来て、家族は一旦、外で待つよう言われた。

父と母、そして姉の美佳の3人が待合室で待っていた。
「どうかしたのかしらね、もう、あれから20分よ!」と、母が父に、これ以上じっとしていられない、といった風に着ている服の胸元を手でギュッと握りしめている。おそらく無意識だろう。

「……そうだな、先生に聞いてくるか」と父が立ち上がった所で、ドアをノックされ看護師が「お待たせしました。先生からお話があるそうですので」と言い先頭を歩き、私達はゾロゾロとついて行った。

なんだろう、なにかしら?何かまずい事でも、何か、何か?
3人が3人共、それぞれの考えに没頭しながら。

前を歩いていた看護師がピタリと止まり、ドアをノックし開けると
「どうぞ」と言った。
みんな、ぎこちなく会釈して中に入った。パソコンと、レントゲン写真がデスクの前に後ろから電気に照らされ、映し出されている。
素人目にも、それが脳のレントゲン写真である事が分かった。

「お待たせしてすみません」と医師は言い、「どうぞ、お掛け下さい」と手で示され、気づくと3つ、椅子があった。そんな事にも気がつかなかった。

父から母、姉の順番で座り、父と母は膝の上で手をこぶしにしている。

「検査の結果、慎重に調べましたが娘さん、美紀さんの脳には」おもむろに医師は言い、ごくり、と父の喉仏が動く。

「異常は何も見つかりませんでした」と言った。ふっと緊張の糸がぷつんと切れた音がしたような気がするくらい、みんなホッとした。
「しかし」と医師が言うと、またピーン、と糸が張られた。

「記憶が、ないんです」と、医師が言った。
「何を、どう調べても、異常はないのですが、記憶が、記憶がないようなんです」と言う。額に軽く汗をかいている。
(先生が、困っている?)と姉の美佳が思うと、ガターン!と音がして
「記憶がない?あの子は、美紀は」
母が立ち上がり、椅子が倒れている。

「美紀は、私達家族の事も覚えてないんですか?」
「それは、あれですよね?記憶喪失ってものですよね」母の目が血走っている。
「それは、それはどの位で元に戻るのですか」と、父が静かに言う。

母と私は、ハッとして、医師を見た。

医師は、困惑したような顔をして、言った。

「正直申し上げて、わからないのですよ。一時的なものですぐに記憶が蘇ってくるのか。最悪、このまま、という可能性もあります」

時が止まったかのように、3人は音を立ててはいけない、とでもいうように
身動きひとつ、しなかった。

均衡を破ったのは、姉の美佳だった。

「先生、私達、今、妹に会えるんですか?」

医師は、頷きながら言った。

「ひとつ、申し上げておきますが、美紀さんは何も覚えがないのです。なので、あなた方が家族だとすぐにはわかりません。混乱すると思いますので、静かに、ひとりずつ、優しく話しかけてみてください」
「中には、少しずつ思い出していく人もいますから。どうか、落ち着いて。焦らないでください」看護師を同行させます、と医師は言い、お礼も忘れて病室に向かった。

(私達を見れば、思い出すに決まってる。だって、だって家族なのだから)

なんの確証もないまま、それぞれがそう思い、病室へと歩いた。


「どうぞ」私達のノックに、中にいた看護師が答え、静かにドアを開け中に入る。

そこには、美紀が頭に包帯を巻き、足を固定されてベッドにいた。

「美紀さん、ご家族が心配していらしたのよ?」と、看護師が優しく美紀に話しかける。
「かぞく」と美紀が言い、こちらを見た。
「美紀ちゃん、分かる?お母さんよ」
母はなるべく静かに、不自然な笑みを顔に貼りつけてそろそろと美紀に近づく。
「美紀、大変だったな。お父さんだぞ?」父もまた作り笑いが痛々しく、ゆっくり歩み寄って行く。
「美紀、お姉ちゃんだよ、分かる?」
最近は、喧嘩ばかりしていたから、嘘くさい笑顔だな、と思いながらも美佳も笑いながら歩み寄る。

しかし、みんなの努力は次の一言で虚しく散った。
「家族?私の?私って誰?」
「知らない!知らない!こんな人たち知らない!!私の名前、名前?え?なんで出てこないの?!なんで?私どうしたの?!」

「すみません、ちょっと離れてください」看護師が私達に小さい声で鋭く言った。
「大丈夫よ、大丈夫、落ち着いて」と看護師が美紀に優しく言い、もう一人の看護師に目で合図した。

すると、素早く注射を出して来て興奮する美紀の腕に打った。

しばらく、優しい顔で力強く美紀をふたりがかりで押さえていたが、美紀の力が抜け、気づいたら寝ている。

「混乱されたので、鎮静剤を打ちました」と言い、看護師はふたりとも出て行った。

その日は、どうしようもなく、車で家に帰る。
誰も何も言わない。
美紀は、美紀の脳はどうしちゃったんだろう、と美佳が考える。

記憶ってどこで覚えているのだっけ?主に海馬なのかな?
つまり、そこが空っぽに今はなってるって事?

元に、元になんて戻れるのだろうか。
失くしたものがどうやったら、出てくるのだろう。
「美佳」と涙声で母に言われ、気づくと美佳はぽろぽろ涙をこぼしていた。

「美紀はどこに行っちゃったの?」
「あそこにいるのは、私達を知らない子なんだよ!」
言っちゃだめだ、お父さんやお母さんだって、ショックを受けているんだから。
頭ではわかっていても、気持ちがついてこなかった。
「美紀は、私達の家族の美紀は、どこに行っちゃったの〜!!」美佳は、こんなに泣いたのは何才以来だろうと思いながら、只々唸り声のように泣き叫んでいた。

翌日から、1人ずつ、行こうと決めた。
そして美紀が混乱しそうになったら、すぐにナースコールする、と決めて。

年が近いから、思い出しやすいかも、と医師に言われていたので、美佳から学校帰りに、顔を出した。

「美紀〜。今日はとても良い天気だよ。」何も返事無し。
それでもそんな事は当然だと思っていたので、傷つきはしなかった。

あれから昨日の夜は寝ないで考えた。
もし、あれが私だったら、そして全然知らない人達が、お父さんだよ、とかお母さんだよとか、お姉ちゃんだよ、なんて言われたら……。きっとものすごい怖いだろうな。

何が起こったのかわからないし、思い出そうとしても、自分の名前すら真っ白で分からないなんて。

当然、混乱するよね。
私なら、何がなんだかわからなくて、怖くて震えが止まらないかも。
夢なら、悪夢なら、早く醒めて、って思うよね。

だったら、と美佳は思ったのだ。
昨日までの、今までの『美紀』は、昨日で死んだのだ。
昨日でさようならしたのだ。

今いるのは、新しい、体は大人だけど生まれたての赤ちゃんの『美紀ちゃん』なんだ。
昨夜ずっと考えて、明日の『美紀ちゃん』は、また最初から積み上げていけばいい、と思い至ったのだ。
失くしてしまったのなら、また赤ちゃんがゆっくり育つように明日から、生まれたばかりの『美紀ちゃん』にいろいろ教えて、新しく記憶を増やせばいいんだ。

今朝、やはり眠れず憔悴した顔の両親に、そう言ってみた。

しばらくして、母が言った。
「まさか、この年で子育てするとは思わなかったわ」すると、黙っていた父が、私を見て言ったのだった。
「美佳、美佳は強いな。そうだな。仕事にかまけていたから、今度は優しいお父さんになるか」

「そうね、昨日までのあの子は死んでしまったかもしれないわね。そしてまた、新しく成長すればいいのよね」
母が少し、明るい声で言った。

「体の大きな赤ちゃんだと思えば、ご機嫌斜めになったら、すぐにナースコールでバトンタッチ!」と私が言うと、ふたりは少し笑顔になった。

「じゃあ、我が家の新しく誕生した大きな赤ちゃんに、1人ずつ、ゆっくり会いに行って育てていこう。先生にこの考えと、誰が今日はいいか、聞いてこよう」父が少し張りが出た声で言うと、電話をしに行った。

「美佳」と母に言われ母を見る。
「ひとりで寝ないで考えたのね、美佳はさすがお姉ちゃんね!」少し微笑して母が言った。

「なかなか手ごわそうな赤ちゃんよ」と私がおどけて言うと
「赤ちゃんはみんなそうよ。美佳も、ものすごく大泣きしたのよ」と楽しそうに母が言う。

「ねぇ、赤ちゃんって何年もかかって育っていくのでしょう?私、保育士目指そうかな」と美佳が言うと
「それはいいわね!将来、美佳がお母さんに、もしなっても、役立つわよ」

母がだんだん少しずつ元気が出てくるのがわかった。

「そうだよ。今日から、『新生・美紀ちゃん』の誕生だよ」

「今、先生に話してきた。先生が美佳を褒めてたぞ。混乱するからひとりずつで今日は美佳がいいそうだ」と少し嬉しそうに父は言った。

「赤ちゃんは、今日はご機嫌はどうかな?」と父が言い、きらきらした瞳で
みんな笑顔で「ご機嫌斜め!!」と言った。

5/22/2023, 2:39:39 PM