紙ふうせん

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5/21/2023, 12:35:35 PM

『透明な水』

透明な水、そんな物もかつてはあったなぁ、と僕は思う。

一体、どのくらい昔の事だろう、突然、海の水が濁り出した、とテレビのニュースで言っていたのは。

そのうち、あっという間に海、湖、池、沼、そしてとうとう水道の水が濁って真っ黒になってしまった。

テレビを入れれば、有識者といわれる連中が、ああだ、こうだ、というけれど、何故そうなって、元に戻るのかは、結局のところ、誰にもわからないのだ。

危険物質を扱う人達が、ものすごい重装備で水を汲み、いろいろな所で、ありとあらゆる検査をしたのだが、その、墨汁の様な物が何なのか、わからなかった。

皆、がっかりした。

世界中で、ミネラルウォーターが品不足になり、スーパーに入荷する日は、前日の夜から並ぶ人もいた。

それでも、2リットルの水がひとり2本まで、と言われると、並んでる人達から怒号が飛び交った。

「オイ!うちは赤ん坊がいるんだぞ!」
「何言ってるんだ!誰でも水は必要なんだよ!!」

と、騒ぎになった。
しかし、お店の人がスピーカーで、「列を乱したり、騒ぐ方にはお売りできません!」と言うと、たちまちみんなシン、となり、大人しくまた待ち続けた。

そのうち、海外の特別な機関が、飲用には向かないけれど、手を洗ったり食器を洗うくらいでは人体に害はない、と発表した。

そして、研究を世界中で続けて、とうとう、特別な浄水器を水道の蛇口につけると、なんと飲む事が出来るようになったのだ!

でも、手を洗うのもためらっていたり、使い捨ての器を使っていた人達も、すでにミネラルウォーターが世界中で少なくなり、値段は信じられないくらい高騰した事もあり、国が配った浄水器をつけて、おそるおそる手を洗ってみた。

出るのは黒い液体だけど、別に洗った手は黒くならないのだ。

そして、どの家もお父さんが、家族みんなが見守る中、ためらいがちに浄水器を通った黒い液体をコップに汲み、真っ黒なその液体をゴクリ、と一口飲んだ。

家族から「体、変な感じはない?」「不味い?」「どうなの?!」と一斉に聞かれ、首を傾げ「……特に、変な味ではない」と言い、家族がワッと喜ぼうとすると「だけど」とお父さんが言い「やっぱり水とは何かが違うな」と言った。

特にその後、お父さんに異変がないのを確認した家族が、みんな、恐る恐る黒い液体を飲んでみる。

そして、少ししてから「うん」「お水とは確かに違うけれど」「飲めるね!」と言い合い、そのうち我慢していたので、みんなゴクリと喉を鳴らしてコップの黒い液体を飲み干した。

「あ〜!久しぶりに喉の乾きが止まったよ」などと言いながら。

そして、みんなそのうち浄水器をつけた黒い液体に慣れていき、普通に飲むようになった。

ただ、見た目が良くないので、ガラスのコップが売れなくなった。

陶器のマグカップや湯呑みで飲むようになった。

そして器も黒が売れ始め、他の色の物が売れなくなり、器という器、箸もスプーンもフォークも、割り箸まで、真っ黒い物しか無くなった。

お茶を入れても黒いが味は、まあお茶の味だ。

コーヒーは分かりづらいから、違和感なく飲める、というのでコーヒーの売れ行きが格段に上がった。

子供はココアをみんな飲んだ。

洗濯する時ためらったが、黒い液体で洗っても、色は全然付かなかったので、みんな安心して洗い出した。

いつの間にか『黒い液体』と呼ばなくなり『水』と言うようになっていった。

人というのは、生きる為にどんな状況でも慣れていくものなんだな、と僕は思った。

生まれた時から『黒い水』しか知らない子達もどんどん増えてきた。

学校の教科書にも、いつからか『昔、水は黒ではなかったそうだ』と載るようになった。

ある時、公園のベンチに座って心地いい風に吹かれていると、小さい子が走ってきて、「ねぇ、おじいさん」と言った。「なんだい?」と僕が言うとその子は「おじいさんが僕くらいの時って、お水は黒くなかったの?」と聞いてきた。
「そうだよ、分かるかな。透明の水だったんだよ」と言うと、ぽかんとして「とうめいのお水って何?」と言った。

「ああ、そうか、透明のお水は分からないね。ガラスみたいな色のお水だったんだよ」と言うと「……ガラスみたいにむこうがわがみえるお水?」「そうだよ」と言うと「へーんなの」とキャッキャと笑いながら行ってしまった。

お風呂も今は真っ黒だし、昔は透明で、わざわざ粉を入れて色をつけていた、と教科書にはやはり載っていた。

僕は知っている。ガラスのコップに注いだ透明の水のきれいだった事。
海の水が青くて透き通っていた事。

だけど、『透明な水』を、生まれた時から見たことが無い人が、もう大半になってしまった。

なので、『透明の水って何?』という質問が1番苦手だ。

この世に今現在、ない物をどうやって教えるのか。

今では水は黒いのが当たり前なので、またガラスのコップが売られているようになった。

ビールも最初のうちこそ、金色ではなく黒っぽくて、でも黒ビールがあったから、意外とアッサリ受け入れられた。

出来るなら、もう一度暑い時期、冷やした『透明な水』をグラスに注いで眺めてみたい。

そしてだんだん、グラスが汗をかいたようになり透明な雫が下に伝わっていく。

それを喉を鳴らして一気に飲み干す。

今はもう、叶わない贅沢。

僕らの世代がいなくなったら、水が透明だった事を事実として、知っている者は完全にいなくなる。

それはちょっと悲しいな、と僕は風に吹かれながら考えていた。

5/20/2023, 10:55:54 AM

『理想のあなた』

理想のあなた?
そりゃあ、決まっているじゃないですか。

私が幸せな時も、具合が悪い時も、涙がとまらない時も、いつもいつも何も言わずに私を支えてくれているあなた。

あなた無しには、もう私、1日もいられない。
支え方がまた絶妙。頼りなくなんかない、そのしっかりとした支え方が私は大好きなの。

私の一目惚れだったけれど、あの日から、私はあなたの虜になりました。

疲れていても、あなたがいてくれるから私はがんばれる!

夜、疲れて帰ってきて、シャワーを浴びて、あなたに寄りかかって背中を預けていると、とても安心するの。
頭も乗せちゃったりして💖

そして寝る時はもちろん電気を消してあなたに身を任せる。

あなたって本当に最高のベッドよ💕

5/19/2023, 1:00:26 PM

『突然の別れ』

私は、小さい頃から本の虫で本ばかり読んでいた。

自分の買ってもらった本、弟の『名探偵明智小五郎』とか『江戸川乱歩集』とか、多少、小さい子向けなので物足りなかったが、ないよりマシだった。

学校の図書室の目ぼしい本も全て読み尽くし、とうとう父親の書庫の本を借りて読み出した。

父もまた、無類の本好きだった。
さすがに『人生劇場』とかは読む気になれず『しろばんば』『どくとるマンボウシリーズ』を読んでから、川端康成の『掌の小説 上.下』を読んだ。

それは文庫本サイズで中身は全て旧字体で、更に今はひらがなになっている、「さすが」「なるほど」「たくさん」「ありがとう」等は全て漢字で書いてあった。その頃私は、まだ小学校の高学年くらいだったので読めずに、机の本の横に、国語辞典と漢和辞典を置いて1文字ずつ調べながら、それでも読みたくて読んでいた。

『掌』を私はお恥ずかしい事に『てのひら』だと思っていた。それが『たなごころ』だと知ったのは高校生くらいだったと思う。

次にブックケースに入っていた『吉川英治全集』を読み出した。
難しかったけれど、おもしろかった。
今でも心に残っている小説がある。

中学生になると、買ってもらえる本がグンと増えた。

学校の図書室の本もたぶん、読んでいたと思う。
以前にも書いたが、私には中学時代の学校の記憶が殆ど無いのだ。
たしかに3年間、通ったはずなのに。

本格的に読み出し本が増えていったのは、勤めるようになってからだ。

自分で好きな本を買える、それは何より嬉しかった。休みの日は大きな書店で、新刊の匂いをかぎ、森林浴をしていた(広い意味で、本は元を正せば木から出来ているのだから、あながち間違いではないだろう)。

土曜日と日曜日、2日休みがあると、月に1度は土曜日にゆっくり本を見に行った。

こんな本もいいな、あ、これもおもしろそう、と花から花へ飛び回る蝶々の様にあれこれ見て楽しんでいた(もちろん3冊ほど買ったが)。

ところが急に吐き気がしてきた。
はて、珍しい、どうしたのだろうと、時計を見ると、なんと4時間も私は本屋で立ったまま、あちこち見ていたのだ。

そりゃあ、脳貧血にもなるだろう。

それに昼食もすっかり忘れていた。

近くのお店で休みながら、好きなパスタか何かを食べた気がする。

休日の、最も楽しい過ごし方だった。

やがて結婚し子供が生まれ、子育てに夢中になっていたので、本格的にまた本を読み出したのは、娘が小学生になってからだった。

移動図書館というのが、家の前に来るので、2週間、ひとり5冊まで借りられるので、読んだ事のない作家さんの本を読んで、すっかりハマり本屋で出ている本を片っ端から買って読んでいた。

そういう意味では、移動図書館は無料で、知らない作家さんの本に挑戦できるのでとても便利だった。

どんどん本が増え、それでも月に何冊かは買い続けていた。

私は、一生本とは切っても切れないと思っていた。

ところが、別れは突然やってきた。

大病をした後から、小説が読めなくなってしまったのだ。

ショックだった。
娘には「お母さんはきっと、一生分の本を、もう読んだんだよ」と慰められたけれど、本を読めない私は私ではない。

疲れてしまって、本を手に取ることも出来なかった。

その代わり、映画を観るようになった。元々観てはいたのだけれど、更に観るようになった。
コツコツ買いためたDVDやBluRayがけっこうあったので。

でも、やはり何か物足りないのだ。

そんな事が10年くらい続いて、(本当に、一生分の本を読んでしまったのかもしれない)と思いかけていた時、エッセイを試しに読んでみた。

そうしたら、読めたのだ!!
嬉しかった。たとえ、エッセイでも、本には違いない。

そうしたら、ある時ふと小説が読みたくなって、おそるおそる読みやすい軽い話の本を手にしたら、おもしろい!読めたのだ!!

嬉しくて、今まで読まなかった作家の本を読み出した。

今までガラ空きだった棚が小説で埋まっていった。

突然来た別れの後、長い年月がかかったけれど、また本は、私の身近な物になった。

ただ、やっぱり昔のようなハイペースでは読めない。

それでもいい、ゆっくり、ゆっくりと美味しい料理を味わうように、小説をこれからは私のペースでゆっくりと読んでいくつもりだ。

1冊でも、永遠の別れだと思っていた頃に比べれば、読めるだけ幸せだ。

また、ある時今度こそ、本当の別れが突然やってくるかもしれない。

そうしたら、もう仕方ない。

だから、そうなる前に1冊でも多く読んでおきたい。
今は、ゆっくりしたペースで。