『透明な水』
透明な水、そんな物もかつてはあったなぁ、と僕は思う。
一体、どのくらい昔の事だろう、突然、海の水が濁り出した、とテレビのニュースで言っていたのは。
そのうち、あっという間に海、湖、池、沼、そしてとうとう水道の水が濁って真っ黒になってしまった。
テレビを入れれば、有識者といわれる連中が、ああだ、こうだ、というけれど、何故そうなって、元に戻るのかは、結局のところ、誰にもわからないのだ。
危険物質を扱う人達が、ものすごい重装備で水を汲み、いろいろな所で、ありとあらゆる検査をしたのだが、その、墨汁の様な物が何なのか、わからなかった。
皆、がっかりした。
世界中で、ミネラルウォーターが品不足になり、スーパーに入荷する日は、前日の夜から並ぶ人もいた。
それでも、2リットルの水がひとり2本まで、と言われると、並んでる人達から怒号が飛び交った。
「オイ!うちは赤ん坊がいるんだぞ!」
「何言ってるんだ!誰でも水は必要なんだよ!!」
と、騒ぎになった。
しかし、お店の人がスピーカーで、「列を乱したり、騒ぐ方にはお売りできません!」と言うと、たちまちみんなシン、となり、大人しくまた待ち続けた。
そのうち、海外の特別な機関が、飲用には向かないけれど、手を洗ったり食器を洗うくらいでは人体に害はない、と発表した。
そして、研究を世界中で続けて、とうとう、特別な浄水器を水道の蛇口につけると、なんと飲む事が出来るようになったのだ!
でも、手を洗うのもためらっていたり、使い捨ての器を使っていた人達も、すでにミネラルウォーターが世界中で少なくなり、値段は信じられないくらい高騰した事もあり、国が配った浄水器をつけて、おそるおそる手を洗ってみた。
出るのは黒い液体だけど、別に洗った手は黒くならないのだ。
そして、どの家もお父さんが、家族みんなが見守る中、ためらいがちに浄水器を通った黒い液体をコップに汲み、真っ黒なその液体をゴクリ、と一口飲んだ。
家族から「体、変な感じはない?」「不味い?」「どうなの?!」と一斉に聞かれ、首を傾げ「……特に、変な味ではない」と言い、家族がワッと喜ぼうとすると「だけど」とお父さんが言い「やっぱり水とは何かが違うな」と言った。
特にその後、お父さんに異変がないのを確認した家族が、みんな、恐る恐る黒い液体を飲んでみる。
そして、少ししてから「うん」「お水とは確かに違うけれど」「飲めるね!」と言い合い、そのうち我慢していたので、みんなゴクリと喉を鳴らしてコップの黒い液体を飲み干した。
「あ〜!久しぶりに喉の乾きが止まったよ」などと言いながら。
そして、みんなそのうち浄水器をつけた黒い液体に慣れていき、普通に飲むようになった。
ただ、見た目が良くないので、ガラスのコップが売れなくなった。
陶器のマグカップや湯呑みで飲むようになった。
そして器も黒が売れ始め、他の色の物が売れなくなり、器という器、箸もスプーンもフォークも、割り箸まで、真っ黒い物しか無くなった。
お茶を入れても黒いが味は、まあお茶の味だ。
コーヒーは分かりづらいから、違和感なく飲める、というのでコーヒーの売れ行きが格段に上がった。
子供はココアをみんな飲んだ。
洗濯する時ためらったが、黒い液体で洗っても、色は全然付かなかったので、みんな安心して洗い出した。
いつの間にか『黒い液体』と呼ばなくなり『水』と言うようになっていった。
人というのは、生きる為にどんな状況でも慣れていくものなんだな、と僕は思った。
生まれた時から『黒い水』しか知らない子達もどんどん増えてきた。
学校の教科書にも、いつからか『昔、水は黒ではなかったそうだ』と載るようになった。
ある時、公園のベンチに座って心地いい風に吹かれていると、小さい子が走ってきて、「ねぇ、おじいさん」と言った。「なんだい?」と僕が言うとその子は「おじいさんが僕くらいの時って、お水は黒くなかったの?」と聞いてきた。
「そうだよ、分かるかな。透明の水だったんだよ」と言うと、ぽかんとして「とうめいのお水って何?」と言った。
「ああ、そうか、透明のお水は分からないね。ガラスみたいな色のお水だったんだよ」と言うと「……ガラスみたいにむこうがわがみえるお水?」「そうだよ」と言うと「へーんなの」とキャッキャと笑いながら行ってしまった。
お風呂も今は真っ黒だし、昔は透明で、わざわざ粉を入れて色をつけていた、と教科書にはやはり載っていた。
僕は知っている。ガラスのコップに注いだ透明の水のきれいだった事。
海の水が青くて透き通っていた事。
だけど、『透明な水』を、生まれた時から見たことが無い人が、もう大半になってしまった。
なので、『透明の水って何?』という質問が1番苦手だ。
この世に今現在、ない物をどうやって教えるのか。
今では水は黒いのが当たり前なので、またガラスのコップが売られているようになった。
ビールも最初のうちこそ、金色ではなく黒っぽくて、でも黒ビールがあったから、意外とアッサリ受け入れられた。
出来るなら、もう一度暑い時期、冷やした『透明な水』をグラスに注いで眺めてみたい。
そしてだんだん、グラスが汗をかいたようになり透明な雫が下に伝わっていく。
それを喉を鳴らして一気に飲み干す。
今はもう、叶わない贅沢。
僕らの世代がいなくなったら、水が透明だった事を事実として、知っている者は完全にいなくなる。
それはちょっと悲しいな、と僕は風に吹かれながら考えていた。
5/21/2023, 12:35:35 PM