紙ふうせん

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『突然の別れ』

私は、小さい頃から本の虫で本ばかり読んでいた。

自分の買ってもらった本、弟の『名探偵明智小五郎』とか『江戸川乱歩集』とか、多少、小さい子向けなので物足りなかったが、ないよりマシだった。

学校の図書室の目ぼしい本も全て読み尽くし、とうとう父親の書庫の本を借りて読み出した。

父もまた、無類の本好きだった。
さすがに『人生劇場』とかは読む気になれず『しろばんば』『どくとるマンボウシリーズ』を読んでから、川端康成の『掌の小説 上.下』を読んだ。

それは文庫本サイズで中身は全て旧字体で、更に今はひらがなになっている、「さすが」「なるほど」「たくさん」「ありがとう」等は全て漢字で書いてあった。その頃私は、まだ小学校の高学年くらいだったので読めずに、机の本の横に、国語辞典と漢和辞典を置いて1文字ずつ調べながら、それでも読みたくて読んでいた。

『掌』を私はお恥ずかしい事に『てのひら』だと思っていた。それが『たなごころ』だと知ったのは高校生くらいだったと思う。

次にブックケースに入っていた『吉川英治全集』を読み出した。
難しかったけれど、おもしろかった。
今でも心に残っている小説がある。

中学生になると、買ってもらえる本がグンと増えた。

学校の図書室の本もたぶん、読んでいたと思う。
以前にも書いたが、私には中学時代の学校の記憶が殆ど無いのだ。
たしかに3年間、通ったはずなのに。

本格的に読み出し本が増えていったのは、勤めるようになってからだ。

自分で好きな本を買える、それは何より嬉しかった。休みの日は大きな書店で、新刊の匂いをかぎ、森林浴をしていた(広い意味で、本は元を正せば木から出来ているのだから、あながち間違いではないだろう)。

土曜日と日曜日、2日休みがあると、月に1度は土曜日にゆっくり本を見に行った。

こんな本もいいな、あ、これもおもしろそう、と花から花へ飛び回る蝶々の様にあれこれ見て楽しんでいた(もちろん3冊ほど買ったが)。

ところが急に吐き気がしてきた。
はて、珍しい、どうしたのだろうと、時計を見ると、なんと4時間も私は本屋で立ったまま、あちこち見ていたのだ。

そりゃあ、脳貧血にもなるだろう。

それに昼食もすっかり忘れていた。

近くのお店で休みながら、好きなパスタか何かを食べた気がする。

休日の、最も楽しい過ごし方だった。

やがて結婚し子供が生まれ、子育てに夢中になっていたので、本格的にまた本を読み出したのは、娘が小学生になってからだった。

移動図書館というのが、家の前に来るので、2週間、ひとり5冊まで借りられるので、読んだ事のない作家さんの本を読んで、すっかりハマり本屋で出ている本を片っ端から買って読んでいた。

そういう意味では、移動図書館は無料で、知らない作家さんの本に挑戦できるのでとても便利だった。

どんどん本が増え、それでも月に何冊かは買い続けていた。

私は、一生本とは切っても切れないと思っていた。

ところが、別れは突然やってきた。

大病をした後から、小説が読めなくなってしまったのだ。

ショックだった。
娘には「お母さんはきっと、一生分の本を、もう読んだんだよ」と慰められたけれど、本を読めない私は私ではない。

疲れてしまって、本を手に取ることも出来なかった。

その代わり、映画を観るようになった。元々観てはいたのだけれど、更に観るようになった。
コツコツ買いためたDVDやBluRayがけっこうあったので。

でも、やはり何か物足りないのだ。

そんな事が10年くらい続いて、(本当に、一生分の本を読んでしまったのかもしれない)と思いかけていた時、エッセイを試しに読んでみた。

そうしたら、読めたのだ!!
嬉しかった。たとえ、エッセイでも、本には違いない。

そうしたら、ある時ふと小説が読みたくなって、おそるおそる読みやすい軽い話の本を手にしたら、おもしろい!読めたのだ!!

嬉しくて、今まで読まなかった作家の本を読み出した。

今までガラ空きだった棚が小説で埋まっていった。

突然来た別れの後、長い年月がかかったけれど、また本は、私の身近な物になった。

ただ、やっぱり昔のようなハイペースでは読めない。

それでもいい、ゆっくり、ゆっくりと美味しい料理を味わうように、小説をこれからは私のペースでゆっくりと読んでいくつもりだ。

1冊でも、永遠の別れだと思っていた頃に比べれば、読めるだけ幸せだ。

また、ある時今度こそ、本当の別れが突然やってくるかもしれない。

そうしたら、もう仕方ない。

だから、そうなる前に1冊でも多く読んでおきたい。
今は、ゆっくりしたペースで。



5/19/2023, 1:00:26 PM