紙ふうせん

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『いつまでも降りやまない、雨』

私は雨の日が嫌い。
だけど、そんな理由で会社に行かない訳にはいかない、いくらなんでもそこまで非常識ではない。

いつものバスはやめて電車で会社に行く。
雨の日は、いつもそうだ。

「おはよう、佐々木さん」
振り向かなくてもその声でわかった。

「おはよう、山口さん」
山口さんは同じ課で、机も隣同士の男性。

誰にでも親切で、明るい性格がみんなから好かれる要因で、女性からの受けも良く、私は隣の机なので、全然違う課の女性からも手紙を渡して欲しい、とか、メアドを知らないかとか、いろいろ聞かれる。

正直、とてもいい人だけど、手紙はちゃんと渡すが、メアドを知るほどの仲ではない。単なる同僚に過ぎない。

第一、彼に好意を抱いてる女性達から目の敵にされるのも困るから。

それなのに、そんな私の気持ちも全く知らずに、お昼になると、社食の同じ課の人の隣が空いていると、すぐ座る。

私は、一人で食べるのが好きなので、そうしているのだけれど、すると高確率で、「ここ、座っていいかな?」とにこにこした山口さんがお盆を持って立っている。

「あ、ど、どうぞ」と、大口で、竜田揚げを口に入れたばかりの私はモゴモゴと言う。
お盆を置くと、静かに椅子を引き座る。
食べてる横で、ドサッと座らないのも彼流の気配りなのかしら。

彼のお盆に何気なく目をやり、いつもながら、吹き出しそうになる。

大盛りカツカレーライスとラーメンがホカホカといい匂いをさせながら乗っている。

(こういうのを、痩せの大食いっていうのね)

言葉には出さないが、山口さんは、見ていて気持ちがいいほどよく食べる。
そして、ぺろりと完食し、お盆を返すときも「おばちゃん、ごちそうさま、今日も美味しかったよ」と言うので、社食のおばさんは、きれいに食べてお礼も言われて気持ちがいい、と彼には唐揚げを少しサービスしたり、ラーメンのチャーシューを一枚なのに、二枚、乗せてあげたりしている。

本当に、幸せそうに、でもきれいに山口さんは食べる。

そこまで考えて、不意にこみ上げるものがあり、考えない事にして、私は立ち上がり「お先に」と言いながら席を立つ。

自販機の前で、壁によりかかり、外の雨を見ながらコーヒーを飲んでいる。

よく降るなあ、今日は一日雨なのかしらね。

ぼんやりと雨を見ている。
雨は嫌いだ。

さっさとコーヒーを飲んで、自分の課に戻る。


仕事が終わり、まだ降り続く雨を恨めしそうに見たあと、ため息をつき傘を差して歩き出す。

ぼんやりと歩いていると、いきなり
「危ない!」という声と、私の肩をつかむ手を感じ驚いた。

私の体スレスレに結構スピードを出した自転車が通り過ぎる。

「歩道はもっとゆっくり走れよ!」
その声で、私けっこう、今、危なかったんだ、と急に気づき、膝がガクガクしてきた。
「大丈夫だった?」と、心配そうにのぞき込むのは、山口さんだった。

動悸が止まらない、私は無意識に「……なんだか、気分が、悪い」と言いながら、腕に捕まる。


「少しは落ち着いた?」
その近くの喫茶店に、私と山口さんはいた。少しレトロな感じの造りで、静かにインストゥルメンタルがかかっている、感じのいいお店だった。

ビロードの様な手触りのなめらかなソファに深く座り、ホットミルクを飲んでいたら、私は落ち着き、普段の気分に戻っていた。

「さっきはありがとう、ボーッと歩いていた私も悪いよね」なんとか笑顔を作り山口さんに言う。

「佐々木さん、雨の日は、いつもそうだよね」

息が止まりそうになった。
なるべく普通にしていたのに、何故?

あんまり私の反応が強かったせいか「ごめん」と山口さんが、ポツリと言った。

「ううん、周りにわかっちゃってたんだ。駄目だね、私」とため息をつき、そういう私に、

「いや、みんなは気づいてないかもしれない。元々、佐々木さんは一人でいることが多いから」

「僕は、隣の席だから」


そうか、彼は気づいていたんだ。
私が雨の日が嫌いで、いっそう無口になる事を。
だから、明るく挨拶してくれたり、社食で、隣に座ってくれたんだ。

不意に、この重荷をおろしてしまいたい、誰かに話したいと私は思った。
誰かに聞いて欲しいなんて、思ったのは初めてだった。

「私ね、恋人がいて結婚も決まってたの」誰にも、一生、言わないと思っていたのに。

「それでね、その日は雨が降っていて、あんまり気分よくなかったの」

私はその日、婚約者である翔ちゃんと食事に行った。翔ちゃんは幸せそうに、本当に美味しそうに、いつも食べる。私はそれを見ているのが好きだった。そして、喧嘩になったのだ、帰り道に。

発端は些細なことだった。
式に呼ぶ人をここまで、って思っていたのが、私と翔ちゃんで違っていたのだった。
翔ちゃんは、人付き合いを大切にするタイプだったから、会社の人も呼ぶつもりだったのだ。
私はといえば、友人まででいいんじゃない?とドライに割り切っていた。

翔ちゃんは、それは良くないよ、ときかなくて。だから、雨でストッキングが濡れて気持ち悪かった事もあって。

そうだ、それで私は、もういい!って言うと、雨の中、角をパッと曲がったんだ。

さっきまでいた辺りで、車のブレーキ音と何かがぶつかった鈍い音、鳴り響くクラクション、人々の悲鳴で、私は慌てて戻った。

そうしたら。

蒼白な顔をして血だまりの中に横たわっている翔ちゃんを見たのだ。

運転してたのは若い子で、まだ免許取りたてで、雨の日の運転は初めてという未成年の女性だった。

その女性は、何も言わずに運転席から離れなかった。

「翔ちゃん!翔ちゃんてば!しっかりして」
雨のせいなのか、わからなかったが、翔ちゃんの体は冷たかった。

私が、つまらない事で、喧嘩なんかしなかったら。
一緒にいたら。

ずぶ濡れで、血だらけになりながら
私は、翔ちゃん、嫌だよ!置いていかないでよ!と叫び続けていた。

翔ちゃんは、内臓破裂と出血性ショックで救急車の中で亡くなった。

車を運転していたその女性は、まだ免許取りたてで、初めての雨の日、ということもあり、父親がどこかの社長ということで、交通事故の事件に詳しい、有能な弁護士を雇い、私と翔ちゃんのお母さんは(翔ちゃんには父親がいなかった)、一度もその女性には会わせてもらえず、常に弁護士と時々父親も出てきただけだった。

彼女に、謝罪をしてもらいたいんです、と言うと、とてもショックを受けていて、まともに話せる状態ではない、と言われた。

何度か弁護士と会い、弁護士は、翔ちゃんのお母さんにかなりの額を提示して示談で済ませようとした。

私は絶対、法でさばいて欲しかったが、結婚したら翔ちゃんのお母さんとも一緒に住むことになっていたけれど、それもなくなった。

お母さんが一人で暮らしていくには、現実的に、お金が必要だった。

私は、翔ちゃんがいなくなった今、何も言える立場ではなかったから、お母さんが示談の話を受けても何も言えなかった。

その女性の家に何度が行くうちに、洒落た階段の、すぐ横辺りの二階の部屋の窓が開いていて、軽快な音楽が聴こえている事が何度かあった。

私は、すみませんがトイレをお借りできますか、と言い、一気に階段を駆け上がりドアを開けると、その女性は音楽を口ずさみながら、マニキュアを塗っていた。

私は、怒りがこみ上げて「この、この人殺し!翔ちゃんを返して!一言謝りなさいよ!」と叫んだ。

彼女は、悲鳴を上げ、「殺される、誰か!」と叫んだ。

私は弁護士と父親達に引きずられながら「人殺し!一生、許さないから!」と叫んだ。

父親は激怒して、訴える。と言ったが、弁護士に説得され渋々黙った。

帰るとき、弁護士が「今度やったら接近禁止にしますよ」と言った。

翔ちゃんのお母さんは「気持ちは嬉しいけれど、あなたはまだ若いのだから」と言って、早く忘れてくれていい、と言った。

忘れる?!何もしてないのに婚約者が殺されたのに。忘れる?!

それから、雨の降る日は嫌いになった。

通勤のバスだと事故現場に比較的近い場所を通ってしまうので、雨の日は乗る気になれず、不便な電車を使った。

ゆっくり、ゆっくり、噛みしめるように話すと、不意に、翔ちゃんの笑顔を思い出した。

思わず、急いで下を向いたけれど
スカートがシワになるのも構わず握りしめる手の上に、ポタポタと涙が落ちた。

あれ以来、私は初めて泣いたのだ、ということに、今気づいた。

山口さんは、痛ましげにそんな私を見つめて、不意に言った。

「今度、あじさい寺に、行かない?」

「あじさい寺」私がオウム返しに言う。

包み込むような優しい眼差しで山口さんが言う。

「うん、とてもきれいなんだよ」

「晴れの日でもいいし、雨に濡れるあじさいを見るのもいいし」

あじさい寺。聞いたことがある。

雨に濡れて光るあじさいの雫は、さぞきれいだろう。

これほど、雨が似合う花は他にはない。

「傷を隠しているだけなら、治らないよ。だからって、無理に治そうとしなくていいと思うよ。きっといつか少しずつ、治っていくはずだから」

言葉を選ぶように、一言、一言を山口さんは、ゆっくりと、言った。

「考えてみるね」そう言ってお店を出た。

雨は、いつの間にかやんでいた。

一緒に歩きながら、ポツリと山口さんが言った。

「佐々木さんの心の中の」

なに?

「その雨は、絶対にやまないの?」

歩きながら、私は考えた。

傷を隠すのは、もうやめようか。

でも、出来るかな?私に。

話したら心が少しだけ軽くなった。

長い長いトンネルの中から、先の光が少しだけ、見える。

「……山口さん」

「うん?」

私は、思い切って前を向きながら言った。

「今度、雨のあじさい寺、見てみたいな」

「うん、他にも、花の名所、そのうち行ってみる?」山口さんが、言う。

「そう、だね。」

翔ちゃん、私、翔ちゃんの事は一生忘れないよ。

でも、そろそろ、前を向かないとね。

翔ちゃんも、心配するよね。

どんなに長く降る雨も、いつかはやむんだね。

「お、虹だ」その声に我にかえる。

「わあ」それは、きれいなきれいな、はっきりとした、でも夢のような虹だった。 ああ、何かをきれいなんて感じたの、いつぶりだろう。

ふと、隣から、なんとも悲しげなグウウ、という音がした。

なんと、山口さんのお腹の音だった。

「うー、腹減ったなあ」と無邪気に言うものだから、笑みがこぼれた。

「どんぶり屋さんにでも行く?」
と言うと、「ごめんね、いい?」と、もの凄く嬉しそうな顔で、山口さんが言った。

5/25/2023, 1:55:38 PM