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8/15/2024, 8:09:34 AM

自転車、といわれて真っ先に思い出すのは高校生の頃。
隣の市の学校に通っていた私は自転車通学をしていた。
片道4キロ、時間にして20分ほど。

8時10分に家を出て、15分に大通りに入る。
20分頃には市の境を通過して、25分に坂道を超えたら30分に校門を通ることができる。
…お察しの通り、けっこうギリギリ登校である。
自転車を止めて、靴を履き替えて、ダッシュで階段を上がり、前髪が汗でぺたっとした状態で35分からのホームルームに滑り込むのが日常だった。

家を出る時間は毎日変わらないので、途中で出会う顔ぶれもそうそう変わることはない。特にわたしはギリギリ組なので、自転車通学の学生にはあまり出会わなかった。

そんな中ほぼ毎日、20分すぎに大通りで合流する男子生徒がいた。
近くの高校の生徒でおそらく同じ学年だろう。
この時間ということは、多分彼もギリギリ組だ。

ふたりとも遅刻と戦っているのだから、自転車を漕ぐのに必死でお互いに顔なんてちゃんと見たこともない。
良くないことに、彼が合流してくる交差点は歩道が狭くなっているところで、自転車は1台しか通ることができなかった。

どちらが先に通過するか。

私は毎日、彼と勝負をしていた。
先を越された日には、後ろにぴったりついてプレッシャーをかけ、私が勝った日には後ろからの無言の圧を感じながら1.5倍速でペダルを漕いだ。
とはいえ男子と女子の差は悲しく、その後道が開けると一瞬で追い抜かれるのだが。

学校と後ろ姿しか知らない男子生徒。
漫画ならばここからドラマがはじまるのだろうが、交差点の勝負以外の接点は全くなく、卒業まで何も変わらなかった。現実なんてそんなものだ。
それでも数日見かけないと、体調を崩したのだろうかと心配し、また姿を見つけるとなんとなく安堵したものだ。

それから私は、学年が上がり学生生活が忙しくなるにつれてどんどん朝に弱くなり、親に車で送ってほしいと頭を下げる日が増えていった。
3年生の終わり頃になると、ほぼ毎日車通学(それもギリギリの)をしていた。
たまに車窓から見慣れた後ろ姿を見つけると、心のなかで楽をしてごめん、と謝った。
彼にしてみれば、知ったことではないと思うけれど。

7/21/2024, 9:11:11 AM

私の名前はみどりという。
新緑の美しい季節に生まれたからというのがその由来だ。
両親は私の名前をとても気に入っていて、私自身もまんざらでもなかった。
幼い頃は新緑の季節になるたびに両親から、道端の草木の瑞々しく鮮やかな色を「みどりちゃんの色だよ」と教えられ、くすぐったくも嬉しく思ったものだ。まるで世界が私を祝福しているかのように感じられた。

そうして育った私は、当然緑色も大好きだった。幼稚園のお友達がピンクや水色の髪飾りを着けている中、私は絶対に黄緑の髪飾りが良かったし、中でも葉っぱの形をしたヘアピンは特にお気に入りだった。
大人も単純なもので、みどりちゃんには緑色でしょ、と思うらしい。孫を可愛がりたいばあちゃんや姪を甘やかしたいおばちゃんはもちろんのこと、家に遊びに来たママの友達たちもこぞって緑色の服や靴、おもちゃをくれた。
今もリビングの片隅には全身緑色を着て、満面の笑みを浮かべる5歳の私の写真が飾ってある。

つまり、私はまごうことなき「緑ちゃん」だったのだ。

それがいつからか、緑色を身に着けなくなった。きっかけは何だったのかはっきりとは覚えていないが、小学生の高学年になる頃には「緑じゃないのがいい」と言っていたような気がする。
お友達に「みどりがすきなんて、へん」と言われたからなのか、「みどりがすきだからあげるね」と給食のピーマンを勝手にお皿に移されたからなのか、文化祭の劇で使うかぶりものを、それは本当はピンクが良かったのに「みどりちゃんだからみどりでしょ」と決めつけられたからなのか(みどりはカエル、ピンクはうさぎで、私はカエルはあまり好きではなかったのだ)、たぶんこういう小さなことが積み重なって、私は緑が好きであることを辞めてしまったのだ。

とはいえ、切っても切り離せない自分の名前である。好きではなくなっても嫌いにはなれなかった。大きくなってからも「やっぱり緑が好きなの?」と聞かれることは度々あって、そのたびに「うーん、6番目くらいかな」と答えていたが、これはほとんどその頃の本心だった。6番目なんて、他の好きな色がなくなったときに消去法で選ぶ程度の「好き」だ。

そんなこんなで、「まごうことなき緑ちゃん」は「ただの普通のみどりちゃん」になって久しい。今や持ち物に緑色はほとんどない。

先日、友達に誘われてあるバンドのライブを観に行った。そこまで詳しくはないが、友だちに借りて何枚かCDを聞いたことがある。
ライブの中盤、軽やかなギターで始まった曲に合わせて会場の照明が一斉に緑色に変わった。よく聞いていると、歌詞の中に「みどり」という言葉が聞き取れた。ボーカルの優しい声が木漏れ日のようなライトの中で、まるで希望を紡ぐように「みどり」と歌っている。緑色をこんなに美しいと、こんなに好きだと感じたのはいつぶりだろう。今この瞬間、私は私の名前と緑色をしっかりと愛していた。

帰り道にコンビニで緑色のボールペンを買った。
明日の街路樹はきっと今日よりも輝いているだろう。

6/16/2024, 1:08:21 PM

こんなことになるなんて、1年前のわたしは想像もしていなかった。

年末に会社を退職した。
好きな仕事だったけれど、ずっとしんどさを抱えながら働いていて、いよいよ駄目になる前に辞めようとやっと決心がついたのだ。
同じ業界で約10年。よく頑張った。

シフト制で毎日ばらばらの出勤時間や少なからずあったワンオペの時間、その日の忙しさによっては休憩を取れない日もあったし、理不尽に怒られたこともあった。
好きだったから辛さもどうにか耐えてきたけれど、きっとずっと緩やかに身体と心を壊してきたのだと思う。

正直、辞める前から危ないなという感じはしていた。
好きだった漫画が読めなくなったり、映画が見れなくなったり、朝起き上がるのに倍の時間がかかるようになったり、休日何もできなかったり。
たくさん予兆はあったけど、ぜんぶ、辞めて少し休めば解決すると思っていた。

それが、なんと、辞めたあとにがたがたと体調を崩し、メンタルまで体調に引っ張られて崩れ、こんなにも何もできなくなってしまうとは。
辞めたという開放感に、それまでピンと張っていた緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。

そんなこんなで、今は療養という名の引きこもり生活をしている。
「よく休むんですよ」と言われるが、正直どうやって休めば良いのかまだわからない。できることが少ないから1日が長い。
でもどうにか、いろんなことが怖くなったり、億劫になったり、意味もなく涙を流したりしていた時間が、少しずつ少しずつ減ってきている気がする。
10年かけて壊したのだから、数ヶ月で戻るわけないよね、と何もできない自分を許せるようにもなってきた。

今日は動画を見て少し笑うことができた。
明日は元気だったらコンビニにお菓子を買いに行ってみようと思う。
元気じゃなかったら、ベッドでまた動画を眺めて、たまに笑えたらいいなと思う。

6/14/2024, 11:45:03 AM

天気予報では、雨は降らないと言っていた。けれど空には厚い雲がかかっている。
雲の切れ間から見える空は青空とは言い難く、薄っすらと灰色がかっていた。
日差しがない分涼しいかと思ってベランダに出てみると、お世辞にも心地よいとは言えない夏の前の暑さが肌に触れる。

春とも夏とも言えない、曖昧な天気。
昨日は気持ちよく晴れていたのに。

この時期の日ごと目まぐるしく変わる天気が苦手だ。
さらっとして包み込むような春風から、梅雨そして厳しい夏が訪れるのを予言するようなじっとりとした風に変わり、気温も暑かったり寒かったり、どうしてこんなにも人類を振り回すのか、と地球に問いかけたくなる。
おかげで明け方寒くて再び引っ張り出した毛布やら、昼間あまりにも暑くて慌てて出した夏物の衣装ケースやら、かと思えば涼しい夕方に羽織ったカーディガンやらで、部屋の中も目まぐるしい様子になってしまった。

来週には梅雨入りするらしい。
ゆううつ。

子供の頃は雨が続く梅雨も日差しが降り注ぐ夏も素直に受け入れていて、いっそ非日常感があって楽しかったのに、いつから苦手になってしまったんだろう。
きっと、それにまつわる面倒ごとをたくさん覚えてしまったからだ。
わたしがおとなになったせいだ。

もう水たまりに飛び込んだり、傘を逆さにして雨を貯めたり、タンクトップ1枚で外を歩いたり、ホースの水を浴びたり、そういうことはできないおとななのだ。わたしは。

6/3/2024, 11:31:52 AM

ショッピングモールの中のバイト先の隣の店にその人は居た。
同じ大学の、違う学部の一つ上の先輩。それしか知らない。
バイトの休憩所が一緒だったから、何度か被ったときに挨拶をした程度の関係で、向こうはわたしのことなんて気にも止めていないだろう。

はじめはきれいな顔をした人だなと思った。
よく見るとそんなに整っているわけではないのだが、なんとなく全体の印象がお人形のように清らかなのだ。
どちらかというと大人しい性格で、他のバイトの学生と騒いでいるところはあまり見たことがない。
人付き合いが悪いわけではなく、意味もない馬鹿騒ぎには乗らないようだった。
そういうところもとても好感を持てた。
大学生といえば恋愛話に花が咲く年頃なのに、そういった話も全く聞かなかった。

いつからかシフトに入るたびにあの人はいないかと見るようになった。
別に恋人関係になりたいわけではない。ただあの美しい人を眺めていたかった。

一つ上の先輩だったので、彼は当然わたしよりも先にバイトを辞めていった。

それが、それから半年後。
街を歩いていたら偶然、その人を見かけた。あれだけ盗み見ていた横顔を見間違えるはずがない。

その人は、女性と並んで歩いていた。

その光景を見て、ショックを受けたことに自分でも驚いた。

わたしの見ていた彼が居なくなった。
感じたのは確かな喪失感だった。
憧れのアイドルのような、そんな一方的で勝手な思い。
そうか、でも、これも一種の恋だったのか。

誰も知らないところで、わたしは静かにちいさな失恋をした。

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