旅は終わりがあるから面白いのだ。
最終日には帰りたくない、現実に戻りたくないと思っても、帰る場所があるからこそ安心して知らない土地を歩けるのだし、現実に帰った後に「あぁ楽しかったなぁ」と余韻に浸ることがより旅を特別なものにする。
期限の定めもなく目的も帰る場所もなかったら、それはただの放浪だ。
人生は終わりなき旅だろう。
もちろん、全生物等しく死という終わりはやってくるのだが、それがいつ訪れるのか誰も知らない。
今歩んでいる道が正しいかどうか、行き着く先はどこか、ずっとわからないまま日々のちいさな選択を迫られ続ける。
この仕事を選んで正解だったのか、あのときの発言は間違ってなかったか、この人と付き合っていていいのだろうか、今日食べるべきは肉かそれともケーキか、きりがないほどに選択と反省と後悔を繰り返す。
せめて、あなたの目的地はここですよとフラッグを立てておいてくれれば、こんなにも生きることに悩まなくて済んだのに、神様は意地悪だ。
こうして人間が右往左往しているさまを見て楽しんでいるとしたら、なかなか悪趣味だと思う。
せめて、最期の地に行き着いた時には、なかなか頑張ったねぇと褒めてもらいたいものだ。
母との関係は良好だ。
二人暮らしも10年を超え、親子のような友人のようなただのルームメイトのような、限りなく曖昧な、でも居心地の良い距離感で過ごせていると思う。
とはいえ家事はやはり母のお手の物で、掃除、洗濯、料理など(要は家事と言われるもののほとんど)はお世話になりっぱなしだ。
そんな母に、わたしは長く「ありがとう」も「ごめんね」も言えていない。
それどころか「おはよう」も「いってらっしゃい」も「おやすみなさい」も言えていない。
なぜだろう、とても気恥ずかしいのだ。
(不思議なことに「行ってきます」と「おかえり」と「いただきます」は言える。我ながら謎すぎる)
二人の間に会話がないわけではない。
一緒にテレビを見ながら談笑もするし、お互いに仕事の愚痴も溢すし、時には軽口を叩きあうことだってある。
ただ、日々の挨拶だけができないのだ。
母はそれに気づいているのかいないのか、何も言わない。
何も言われないのを良いことに、わたしは今日も挨拶を「んー」とか「うん」とか、そんな言葉で濁す。
きっといつか後悔する日が来るとわかっているのに。
オッフェンバックの天国と地獄が苦手だ。
嫌いじゃない。苦手だ。特に今。
運動会を思い出すし、なんだかすごく急かされてそわそわするし、なのに底抜けに明るい感じ。
運動会は毎年憂鬱だった。
イベントの非日常感は大好きなのだが、なにせ運動がからっきしできない。
走るも飛ぶも投げるも、ぜんぶ苦手だ。
何をしても後ろから数えるほうが早い順位になるし、チームの足を引っ張ってしまう。
学生、特に小学生なんて残酷で、誰かが足を引っ張って負けてしまったら、競技中に憐れみの目を向けられるだけでなく、味方からもじとりとした非難の目を浴びせられるのだ。
できる限り地味な種目を選んで、自分の出番が早く終わることを願うばかりだった。
ここのところ、気分が安定せず鬱屈とした毎日を過ごしている。
精神科の先生は毎回「まだゆっくり休む時期なんですよ。不安が過ぎるのを待ちましょう」なんて、当たり障りのない無責任ともとれることしか言ってくれない。
どういう過程を踏んでこの不安が過ぎるのか、何を持って不安が過ぎたというのか、それまでわたしはどのように過ごせば良いのか、そういうことが知りたいのに。
原因のわからない焦燥感に駆られながら、何を為すでもない日々の日数だけが膨らんでいく。
わたしの生活のバックミュージックに、天国と地獄が小さな音で流れ続けているみたいだ。
人の気なんて知らないで、明るい長調で。
頑張らなくていいよ、逃げたっていい
今のあなたの世界はまだまだ狭いし、
違う頑張り方がいっぱいあるんだから
あなたはぜんぜんだめじゃない、
それができなくても、他にできることがたくさんある
まわりと同じレールに、まわりから期待されるレールに
必死にしがみつかなくていいんだよ
もっとあなたの気持ちを優先していいんだよ
過去、幾度となくあった辛かったタイミングのわたしに
かけてあげたい言葉たち。
目の前に正座して、滾々と、言葉を変えて何度でも言ってやりたい。
若いわたしは、そのとき置かれた環境に取り残されないように必死で
まわりにいる人に失望されないことに必死で
自分のことなんてほとんど顧みることがなかった。
おかげで、がんじがらめでちぐはぐでふわふわしたわたしの出来上がり。
もっと早く、世界は広いのだと
わたしにもちゃんと取り柄があるのだと
どんなわたしでも以外と受け入れてもらえるものだと
知ることができたなら、きっともっと楽しく気楽に生きられたのだろう。
まぁ、人間一周目だから仕方ないか。
もしまた人間やることがあったら、そのときにはこの言葉たちを魂に刻んでおいてください、神様。(でもできれば違う生き物を希望します)
「あなたってなんか他の子と違うよね。なんだろう、透明感があるっていうか」
前の日の売上帳簿とにらめっこしながらエクセルに数字を打ち込んでいると、唐突に先輩社員さんに言われた。
「あーわかるわかる。透明感ね」
「ね、なんかピュアな感じ」
なんと反応して良いか迷い、はぁ、そうですか、と曖昧な返事をするわたしを横目に、お姉様たちはわたしの透明感で盛り上がっている。
透明感。ピュアな感じ。
きっととても良い褒め言葉を貰ったのだと思う。
でもわたしは、それを手放しで喜べなかった。
必死で繕ってきた自分の未熟さを見透かされた気がしたから。
例えば、地名が読めなかったこと。
ブランド名を知らなかったこと。
敬語がわからなかったこと。
本音と建前の見分け方がわからないこと。
交友関係の狭さ。恋愛経験の少なさ。
お酒が飲めないこと。辛いものが苦手なこと。
もうしっかりと大人という歳になったにもかかわらず、世間知らずで幼いまのまわたしをなんともきれいな言葉で指摘されたようだった。
かーっと耳が赤くなりそうなのを、エクセルに集中するふりをして誤魔化す。
透明なわたしは、どれだけ勉強しても歳を重ねても透明なままで、ふらふらと漂っている。
いったいいつになったら、不透明で存在感のある大人になれるのだろうか。