小さい頃に想像していた大人のわたしは、軽快な足取りでひとりでどこにでも行っていた。
やりがいのある仕事をほどほどに頑張っていて、家にはこぢんまりとしたテーブルとソファがあって、まわりにはかわいい犬と猫がいて、休みの日にはお気に入りのお店のパンやドーナツを頬張りながら棚に積んである本や漫画を読む。
犬は大きい方がいい。ゴールデンレトリバーやラフ・コリーのようなおおきくてたっぷりと毛のある犬が、ソファに寝そべって本を読むわたしの太ももに顔を乗せてくる。その様子を遠目に見ていた猫が、気まぐれに腹に乗ってきて、ひとりと2匹でお昼寝をする。
そんな、穏やかな日々が平凡に訪れると思っていた。
実際のところ大人になったわたしは、インドア派を極め、休みの日は昼まで惰眠を貪り、のそのそと起きれば先週スーパーで買った30%引きの菓子パンをかじり、倒れた積読の本を雑に戻す。
万年人手不足の仕事は頑張りすぎるくらいに頑張って体調を崩すし、部屋にある家具は大学時代に買った量販店の何の変哲もないデスクとカラーボックスとベッド。
いつかくる別れが恐ろしくて、犬や猫はおろか、ハムスターも文鳥も魚も飼えないでいる。
夢見ていた理想とは程遠い、現実なんてそんなもん。
でも、日曜の11時に起きて飲む濃いミルクティー(もちろんインスタント。お湯を少なめにするのがコツ)は美味しいし、積読の奥にはこれまでに読んだ人生に残るであろう大好きな本と漫画たちが並んでいるし(この積読もいつかそうなる予定)、泣きそうになるくらい忙しくてあわや逃げ出そうかと思ったシフトの最後にはお客様から「あなたに対応してもらえて良かった」なんて最高級の褒め言葉をいただけたりもするし、10年以上連れ添っているベッドは毎日変わらずわたしをわたしの形で受け止めてくれるし、
こんな大人のわたしも、案外悪くないんじゃないかなと思ったりする。
でもそろそろ次のステージも見てみたいから、そのうち小さいソファを探そうと思う。
年末、祖母が亡くなった。突然のことだった。
ちょうどお昼ころに、叔父から「ばあちゃんまた入院したわ」と電話があった。
認知症が進行してもう長く施設で暮らしていた祖母は、その間何度か腎盂腎炎になって病院に入院して、退院して施設に戻ってを繰り返していた。
だから今回も、あぁまたいつものやつか、と思うだけで、叔父によろしく伝えて電話を切った。
その数時間後、夜も遅くなる頃に、再度叔父からの着信で訃報を知った。
治療の最中に穏やかに亡くなったらしい。
年も年だしそのうち、と覚悟はしていたからか、そこまで驚かなかった。
苦しまないで息を引き取ったなら、それは本当に良かったと思った。
祖母の家は遠かったから(県をいくつも跨ぐくらい)会えるのは良くても年に1回、お盆かお正月に親戚が集まるときだけだ。それも長くて1週間ほど。
学生の頃は自由を理由に、社会人になってからは忙しさを理由に集まりに参加しなかったこともある。
多分、きゅっとまとめても1年にも満たない日数しか一緒に過ごしていない。
ましてやわたしは、実際のところそこまで祖母に懐いてはいなかった。
親戚、従姉妹ともだいぶ歳が離れていたこともあり、幼い頃はこの親戚一同の家族感がよく掴めなかったのだと思う。
祖母は甘えていいものだとよく知らなかったし、祖母も祖母であまり子どもの相手が上手な人ではなかったから、なんとも絶妙な、曖昧な、ほどほどの距離感でお互いに接していた。
文字にするとほぼ他人に近いような存在なのに、「祖母」というポジションがその存在を数段階特別なものにする。
遺体と対面したとき、納棺のとき、お葬式のとき、棺にお花を入れるとき、火葬場の煙を見たとき、お骨を拾うとき、遺影と骨壺が並んでいるのを見たとき、ありとあらゆる場面でわたしは泣いた。
あんまり泣くと叔父や母を困らせるから、静かに少しずつ涙を流しては飲み込んだ。
わかっていたことなのに、希薄な関係なのに、ごく自然でなにも悲しいことはないのに。
おばあちゃん、あんまり良い孫じゃなくてごめんね。
でも、たぶん、きっと、ぜったい、愛してたよ。
もう伝わらない涙でしか表現できなかったけど。
祖母との別れでこれだけ泣いたわたしは、これからいつかの未来に訪れるもっと親しい人の別れには耐えられるのだろうか。
きっと最後のラブレターのごとく、その愛の分だけ泣くのだろう。
恋物語なんて、フィクションだ。
小説や漫画の中にしか恋愛の幸せなんてない。
なのに、あの子はなんて晴れやかに幸せそうに笑っているんだろう。
真っ白なドレスを着て、色とりどりのブーケを持って。
昔から恋愛話─惚気でも相談でも─を聞かされるたびに、あぁわたしは違う種類の人間なんだと、やけに冷静に、でも確実に絶望してきた。
わたしは、恋愛ができない。
家族の好きと友達の好きと恋人の好き、何が違うのかよくわからない。
家族だってとっても大切な存在でしょう?
友達として、お互いを大切にしようねと誓い合うことだってできるはず。
好きに優劣なんてないはずだし、
わたしだって誰かの特別になれるはずなのに。
恋愛という世間一般に染み渡った常識的な枷が、わたしをひどくみじめにする。
どれだけ長い時間を共有しても、どれだけ気のおけない仲になっても、どれだけ好みが合っても、それが恋愛でないというだけでわたしは選ばれない。
(反対に言うと、わたしが選ぶこともできない。だって応えられないから。)
わたしはきっとこの先も、恋愛の呪いにかけられたまま、選ばれない孤独を感じながら生きていくのだろう。
いつかどこかで何かの拍子に、それでも良いと言ってくれる奇特なひとが現れない限りは。