題 命が燃え尽きるまで
「あなたが私の名前を呼ぶたびに、私と手を繋ぐたびに、私はぽっと赤くなって、少しずつ心臓が燃えているような気がするのです」
「それは。それは、まるで私があなたをゆっくりと殺しているようですね」
「ふふふ。そうかもしれませんね」
お仙ちゃんは嬉しそうに笑った。それを見た涼治郎は何か大きなものが口から出そうになったが、我慢して口をもごもごするだけに留まった。
男の名前は浅田涼治郎。帝国陸軍少尉であり、今日は
山本邸にお邪魔していた。お仙ちゃんから「さくらんぼを食べましょう」と誘われ、ふたり並んで縁側に腰掛け、ドキドキちびちびお茶を飲んでいた。それというのも、以前お仙ちゃんから「口説きたいです宣言」をされ、それをうっかり承諾して以来、涼治郎は彼女の言葉にタジタジする日常なのである。
女の名前は山本水仙。戦時景気の波に乗った成金の一人娘である。みんなからはお仙ちゃんとか、仙女さまなんて呼ばれ、櫛で髪を梳くみたいに可愛がれられて育った娘である。そんな彼女は今日も慕う男の隣に腰掛け、ドキドキもぐもぐさくらんぼを食べていた。
涼治郎は考え続けていた。「口説きたい」とは、何事か。惚れさせたい、と言うことだろうか。自分たちは許嫁であり、この関係は家のためであり、お互いを想う感情は体裁上”当然”である。しかし、「口説きたい」とは⋯⋯ 何事か。涼治郎は他人との関係性を書面でしか測れない男である。だからお仙ちゃんが本気で涼治郎に惚れているという可能性を脳が許さないのだ。こいつは好きな人と結婚できるくせに一生片思いをする覚悟で生きている。
一方、お仙ちゃんは最近調子に乗っていた。自分の言葉でタジる涼治郎を見て気分を良くしているのである。今だって隣の涼治郎をチラリと見上げ、平生硬い顔の彼が瞳を揺らしているのを知って、ゆるゆると口の端を上げた。
「次のお仕事はどちらに?」
「あ、会津の方に。合同訓練ですので、6日ほど家を空けます」
「まぁ、そんなに。帰ってきたらいちばんに顔を見せてくださいね、きっと癒して差し上げます」
「いやす」
──────どんな風に?
涼治郎は、このままでは自身のちっぽけな恋愛脳がオーバーヒートを起こすと予知した。その結果自分が何をしでかすかは未知だった。
このままではいけない。何か大きなエネルギーが、尊くて裸のままの何かが膨れ上がっているのを感じた。涼治郎は反撃に出る必要があった。
しかしこの涼治郎という男、ことごとく不器用な男であった。仕事以外のほとんどにおいて石に躓く生き物であった。
だから、間違えた。
「月が綺麗ですね」
「⋯⋯ え、」
見上げれば良いお天気である。しかも、学のないお仙ちゃんはその意味を知らないでいた。お仙ちゃんは「お月見がしたいのか知らん」と思い思い、時期になったらススキとお団子を用意して、ゆっくりとした夜を一緒に過ごそうと算段を立てた。
お仙ちゃんの反応がイマイチだった涼治郎は不甲斐なく焦った。
「(毎日あなたの)お味噌汁が飲みたいです」
「え。すぐにはお出し出来ませんが、少し時間をくだされば用意できますよ。⋯⋯ やっぱり、さくらんぼはお嫌でしたか」
「ちが」
お仙ちゃんがしょんぼりしたのを見て、涼治郎はさらに焦った。見苦しいくらいに汗が流れた。何だかどんどん違う方向に進んでいる気がする。涼治郎は無意識にお仙ちゃんの両手を掴み、優しく、どこにも行かないようにしていた。
何か。何かこのエネルギーを言い表す言葉は。
このエネルギーの正体は───。
「愛しています」
それは核にも似ていた。落とされたお仙ちゃんはたまったものでは無い、痺れから引き返せなかった。だんだんと体から力が抜けて、心臓が爆速で動き出した。全身の血管が閉まっていたのだ。
「⋯⋯ え。え!」
「愛しています」
第2弾、投下───。
お仙ちゃんはぽかんと口を開け、顔を真っ赤にして瞳を揺らしている。「好きと言われてみたい」。そんな乙女心からお仙ちゃんの口説き落とし作戦は開始した。
しかし、その実どうだろうか。いざ望みが叶ったらこのざまだった。詰まるところ、お仙ちゃんは調子に乗っていた。どうせ涼治郎さんには言えっこないわっ、て。
「水仙さん」
「⋯⋯ 」
「水仙さん、私は、」
「涼治郎さん私お味噌汁作ってきます」
「え」
お仙ちゃんは逃げた。両手で顔を隠してパタパタ走っていってしまった。
結局、涼治郎は関係性上“当然”のことしか言えなかった。涼治郎の尊い苦悩はまだしばらく続くのである。
前作は、2023/5/5
「大地に寝転び雲が流れる・・・目を閉じると浮かんできたのはどんなお話し?」
にて。
題 喪失感
盛ってやった。お姉ちゃんの顔を。
コンちゃんにメイクを教えたのはコンちゃんのお姉ちゃんである。4歳上のお姉ちゃんは、身内のコンちゃんから見てもすごい美人で、派手な人だった。そんなお姉ちゃんは妹が大好きだった。だから思春期のコンちゃんが、「メイク、教えて欲しい⋯⋯ 」と自分を頼ってきた時は、きゃあきゃあ言って、全力をだした。
コンちゃんはその集大成を、今、姉の顔で試していた。つや系のファンデーションと下地、肌の白いお姉ちゃんには濃い色のアイシャドウがよく似合う。アイラインで目元を〆て、まつパの施されたまつ毛にマスカラを追加してさらに美しく。眉毛は平行に、血色の薄い頬と唇には気持ち濃いめの色を差した。
道具を置いて、「終わったよ。」と言えば、お姉ちゃんは嬉しそうにしている(気がする)。今日は特別な日なのだ。
ふたりで写真を撮った。コンちゃんはお姉ちゃんの横に並び、スマホを内カメラにして腕を斜め上に伸ばした。ポーズは、片手を頬に添えて、目を閉じるやつにした。
「めっちゃ盛れてる(笑)」
コンちゃんは塩な美人顔タイプだったが、お姉ちゃんは派手な美人顔タイプだった。お姉ちゃんの周りにはいつも華が咲くようだった。というか今は咲いていた。
出かける時間になってしまった。今日は特別な日なのだ。お姉ちゃんは迎えに来た黒い車に乗って先に家を出た。コンちゃんはお父さんが運転する白い自家用車で姉を追った。
「泣くんじゃない」
お父さんが言った。
「だって、」
「泣いたら、お姉ちゃんが離れられないだろう。お姉ちゃんは向こうで幸せになるんだ」
そう言うお父さんも泣いていた。コンちゃんは、親心は複雑ね⋯⋯ なんて思いながら、もうひとつ鼻を啜った。
着いたのは火葬場だった。
お姉ちゃんの周りに咲いた花は取り出され、棺は炉に入れられた。1時間くらい経って、お姉ちゃんは炉から出てきた。
数時間前にコンちゃんが施したメイクは全て落ちていた。つや系のファンデーションと下地、肌の白いお姉ちゃんには濃い色のアイシャドウがよく似合っていたはずだった。アイラインで〆た目元も、まつパとマスカラで美しかったまつ毛も、平行な眉毛も、気持ち濃いめな頬と唇も。全て落ちていた。
コンちゃん自身のメイクも、もうほとんど、落ちてしまった。
久々に書いてみようと思ったら全然書けなくて途中でぶった切られてます。南無三。
題 心の灯火
「ア"ハアハアハ⋯⋯ ハ、ハァハハ」
木下はひっくり返って笑った。
死んだはずの親友が目の前に現れたからだ。やーこれはいかん、いかんと思いながらも、頭の上半分がない親友の姿を見て、気分を良くしていたのである。
いやしかしなぜ今になって現れたのだろう、と木下は斜め上、何も無い自室の天井を見た。笑いが収まらないまま⋯⋯ 。
親友の真名部(まなべ)とは中学時代からの縁である。平生無口な彼に、騒がしい性分の木下は存外懐いていた。何となく彼の傍は安心して、スリスリ擦り寄っては拒否されることは無かった。
それから高校、大学と同じ学校に進学した。人文社会科学部なんて言う何となく名前の格好良いトコロに何となく入った。
しかし仕事ばっかりは違う会社に勤めた。こと俺に至ってはそれまでの勉学なんぞ無縁の職に就いた。
つまり俺たちの関係はそれで終わった。単純接触の効果が無くなればそんなもんである。
大学を卒業してから5年、真名部が交通事故で死んだとの連絡を受けた。ああ懐かしい名前を聞いたなと思ったその時、真名部はおそらく三途の川を渡っていただろう。
葬式には行かなかった。仕事のプロジェクトが大詰めだったからだ。
さてもう一度目の前の霊と顔を合わせてみる、顔の上半分がないので目は合わないが。顎が外れているかのように口を開けて、ちょこんと礼儀正しく床に正座している。腹からはとめどなく血が溢れ、フローリングを赤で汚し⋯⋯てはいなかった。真名部の周辺に落ちる血は、滲みが乾いていくようにス、ゥと消えていった。因みに、何故このバケモノが真名部だとわかったかと言うと、彼はちょっと特殊な舌ピアスをしていたので。中学時代からのお気に入り、真名部曰く、この法治社会へのちょっとした反発らしい。無口でボソホゾ喋る彼はついに卒業までバレなかった。実に中学生らしい。
「ナァおい久しいな。俺に会いにわざわざ三途の川を戻ってきてくれたのか⋯⋯ おい、返事をし。その口はなんのために残されたんだ、恨み言でも言いに来たのか」
「⋯⋯」
「昔話でもするか、それとも冥土の土産話(笑)でも聞かしてくれるのか。⋯⋯ オーイ生きてる?グーテンアーベント!」
「⋯⋯」
「⋯⋯ キノキノキノコ!」
「⋯⋯」
学生時代の持ちネタでもダメらしい。マ本来キノキノキノコはチョップまでやるのだが、こいつに触れられなかったらと考えるとちょっと恐ろしくてやめた。
「⋯⋯ァ」
ここでやっと、真名部が喉をふるわせた。ふるわせたと思ったら、
「ァア"、アァ"アァァ⋯⋯、」
とヘタな牡羊の鳴き声のような音を出した。
木下はアホな顔して、なるほどと思った。こいつ多分地獄に落ちたんだな、と。そこで脳髄も取られちまったんだろうな、と。真名部は悪さをするタイプではなかったが、いいやつでもなかったので。
「⋯⋯ なんか食ってく?酒とつまみしかないけど」
「⋯⋯」
「お前缶ビールだと何好きだったっけ」
キッチンを覗きに行けば、真名部もそろそろと立ち上がって着いてきた。小さな冷蔵庫の中身(ビールと冷食しかない)を見せてやるが、物色する素振りがないので、勝手にスプ×ングバレーを2本取って閉めた。ちょっといいやつにしたのは、親友が会いに来てくれたので。
「カンパーイ!!」
「⋯⋯」
「乾杯」
勝手に開けて勝手にカンパイした。2回目のやつは真名部が正座して動かないのでカシュッと開けてやった時に言ったただの名詞である。ウチにソファなんてものはないが、人をダメにするもちもちはあるので俺だけそいつに腰を沈めた。
「飲まネーノォ?せっかくコッチに戻ってきたんだからパーとやろう、な、ハイ、ごっくん」
「⋯⋯」
「ア"ハハハハハハハハ」
「⋯⋯」
「ハイ、ギョウザ、もぐもぐしまちょうねー」
「⋯⋯」
「ア"ッハァハハハ⋯⋯ハァハハハッ」
木下は酔っていた。真名部の開いた口にものを入れては腹から出てくるのを面白おかしく思ったのだ。ギョウザなんてそのままの形してベチャッと出てコロコロしたものだからもうダメだった。
そのうちに、木下は涙を流してひーひー言いながら笑い疲れて寝た。頭のどこかで「アァ俺殺されるかもな」とか思いながら。
真名部は木下を見ていた。いや目玉は無いのだが、舌に通った小さいアクセサリがジィっと木下を見ていた。ただそれだけだった。
「エきも」
木下は嫌な顔をした。親友が、クラスメイトに見えないように手で隠しながらベーっと舌ピアスを見せてきたからだ。
「なにそれ反抗期か、生意気め」
「ルールに抗ってみたくなった」
「ァイケメン」
真名部はニコニコ(真名部をよく知らない者からはニヤニヤして見える)しながらカッコイイことを言う。彼はあまり笑う方ではないが今日は気分がいいらしい。
秋も深まり、窓際の席でぬくぬく夢野久作を読んでいた真名部に吸い寄せられたのは今日も木下だった。学ランのよく似合う真名部は一見優等生だが、こいつは社会的に良くない思想を持っている。それが木下には新鮮で、カッコよくて、何となく心安らぐのだ。
「かっこい?」
「かっこい」
「同じのつける?」
「いやぁ⋯⋯」
正直憧れはある。だが目玉の舌ピアスとは俺にはハードルが高いな、と木下は思ったので、「痛そうだから」と最もらしい言い訳で断った。
アラームの音で目を開けた木下はちょっと驚いた。真名部が包丁を手にして自分を見下ろしていたからだ。「アー寝てる間に殺してくれないのね」なんて思いながら、それを真名部らしいなと感じると微笑ましかった。
「おあよ(おはよう)」
「⋯⋯」
「そういや眠剤飲まずに寝れたの久しぶりなんだよね、昨日は楽しかったなァ。殺してくれ」
「⋯⋯」
「⋯⋯」
⋯⋯ マいっか。そう思ったので木下は昨日作った悲惨な現場を片して、急いでシャワーを浴びた。融和的なのだ、この男は。
スーツを着て髪を整え、サ今日も張り切っていきましょう!みたいな顔で家を出た。
「なんだこの数字は。売上落ちてんじゃねぇか」
「スミマセン」
「すみませんじゃねぇよ。どうすんだよ、ナァ。なんでお前は何を任せてもろくな成果が出ないんだよ、おい、給料泥棒かお前は」
「スミマセン」
「お前みたいな無能はなァ、いるだけでみんな迷惑してんだよ、仕事しねぇなら辞めちまえ」
「スミマセン」
死ねばいいのに。木下はカーペットを見つめながら思った。なんでこのハゲ死なないんだろう、とも。このハゲが声を荒らげるのはいつもの事なので、みんな何事もなく仕事をしている。席に戻れば誰かしらから心配の声をかけられるが、「だったら助けてくれよ」と思うだけで終わるのがいつものパターンである。
が、今日はちょっと違った。真名部がいたからだ。朝、真名部は支度をする木下を部屋の隅でジ、ィと見つめて、一緒にマンションを出てそろそろ着いてきたのだ、右手に包丁を持ったまま。
いやそれはマズイのでは、と木下も思ったが、マいっか、と結論をつけたので良しとした。そもそもコイツの存在がマズイので。
ついに会社までついてきたが、木下以外のニンゲンに真名部は見えていないようだった。電車でも気づかれないので、ぎゅうぎゅうに詰められて羽虫のようにジタバタしていた真名部は見ていて愉快だった。
そして今も、木下の後ろにぽ、つんと立って⋯⋯
「⋯⋯ギャォ」
と幻のポ×モンのような音を出した。ふらふら歩き出した真名部は右手だけゆらと上げて、真っ直ぐに下ろした。
「ア"──────ァア」
何度も何度も、上げて下げてを繰り返し、ハゲを抉っては、右脳だとか左脳だとか、そういったものを乱暴にしていた。
「おい聞いてんのか」
「聞いてます、スミマセン」
「聞いてねぇだろ、ゴミが。本っ当に無能だな、なんで生きてんだよ」
「スミマセ⋯⋯ フっ⋯⋯」
木下は、頭の上半分が無くなったハゲが、普通に言葉を喋っているのを面白おかしく思った。笑ったらもっと怒られるので下を向いて我慢していたが、ハゲにはそれが、怒られて泣いているように見えたらしい。木下は心の底から笑うと涙が出るタイプだった。
普段マイナスなリアクションの少ない部下が泣いたので、流石にバツが悪くなったハゲはいつもより早い目に説教を終わらせ、
「マァ、次頑張れよ⋯⋯」
と、フォローまで入れた、すでに木下にはハゲのハゲは見えていないが。
「お前、俺の嫌いな奴全員殺してくれるの、」
「⋯⋯」
木下は残業を終わらせ、夜風に吹かれながら帰路についていた。真名部はやはり木下の後ろを、口を開けながらひたひた着いてくる、その手に3人分の血をつけた包丁を持って。あの後、クズとボケも、ハゲと同じ目にあったのだ。
助かった、と木下は思った。もし、
「いいよ、殺してやる」
なんて言ってくれたら、多分、みんな殺してくれって頼んだだろうから。
「お、お⋯⋯ 」
木下は感心した。世間では仕事終わり(笑)と呼ばれる金曜日、上司の顔の上半分が、ことごとく無くなっていたからだ。
あれから真名部は、沢山刺した。
真名部の腹部の傷は治らない。
転
木下は通り魔に刺された。はずだった。病院に運ばれた木下の腹に傷はなかった。
木下が刺されたのは真名部の腹の傷と同じ場所だった。真名部は消えた。
退院後、真名部の墓参りに行ってみた。しかし地元駅に降り立った時点で墓の場所なぞ知らないことに気づいた。うっかり。
真名部の実家に行ってみた。インターホンを押すか押さないかで2時間躊躇した。だって最後に真名部の実家に顔を出したのは確か高3の時だ。しかも友達だったくせに葬式に顔を出さなかった無礼者なのだ自分は。2時間後、ままよと思いながらインターホンを押した。押したあと逃げ出したい衝動に駆られた。
真名部の母親は心良く木下を迎え入れた。少し話をして、真名部の遺品をひとつくれた。
教えてもらった真名部の墓に行ってみた。墓石は家族が手入れしているのか綺麗だった。ここに来てやっと分かった。真名部の反社会的思想は、木下の心を支えていたのだと。
結
復帰後、ハゲにはハゲが戻ってきていた。色々文句を言われる前に辞表を叩きつけてやった。最後にあっかんべと変顔をして出ていった。
その舌には、目玉のピアスがあった。
題 昨日へのさよなら、明日との出会い
コンちゃんは渋谷のスクランブル交差点、その真ん中に立っていた。他に人はいない、目の前のビルには23:59の電子公告が永遠と流れていた。夜中だと言うのに周囲の建物は明かりがついていた。
「ユメくん、いる?」
コンちゃんはいじめっ子の名を呼んでみた(もっとも、ユメくんというのはコンちゃんが勝手に呼んでいる名前である)。コンちゃんは瞬時に、ここが夢だと理解していたのだ。
ポケットから電子音が鳴った。オフィスカジュアルのコンちゃんが黒のパンツからスマホを取り出すと、勝手に電話が繋がった。
「Hiii! I’m…I…idk lol.ところでコンちゃん、良い知らせと悪い知らせがある。良い方から話すね、上げて落とす方が楽しいので。この夢には終わりがない。明日なんて来ないぜ、最高だネ。やりたい放題できるからしたいこと考えとけよ。悪い方はしばらくお別れかもしれないんだ。コンちゃんと会えなくなるの寂しいなって思いました。その前に遊びましょ、思い出作りましょ、ネー?」
「(良いと悪い)逆じゃないかな」
「そんなっ」
「遊ぶなら合流しないと、今どこにいるの?」
「ス×ロー」
コンちゃんは道玄坂の方向を向いた。「10分で来いよー」とユメくんが言うので、コンちゃんは小走りする羽目になった。
ユメくんは謎生物である。毎日コンちゃんの夢に現れてはコンちゃんをいじめて笑っている。その姿は酷く不明瞭で形が掴めない。おまけにドロドロしていてヒトの形をしていない時もある。
例えば小学生時代の夢を見ていたとき、少女コンちゃんは隣の席の少年ユメくんに消しカスを投げられていた。やめてって言うと今度は消しゴムをちぎって投げられた。
コンちゃんは23歳である。こんな小学生のイタズラは笑って許せるはずなのに、なぜだかすごく傷つくのだ。向けられた無邪気な悪意が積み重なって、コンちゃんの心の柔らかいところを刺激した。
「えぇーーーん」
「キャッキャ」
ユメくんは大喜びした。無数の手をパーっと広げてふりふりさせた、まるでゲームに勝ったご褒美を貰えた時のように。
とまァ、ユメくんはこんな風にコンちゃんを泣かしていた。ユメくんはいじめられたことがないので、幼稚で典型的な嫌がらせしか思いつかないのである(と言っても、この生物に脳は無い)。
しかしコンちゃんはユメくんを嫌いになれなかった。ユメくんにいじめられるから寝るのが怖くなる、ということもなかった。だっていつも最後には、「また明日ね」って言ってくれるから。
「わ、ぁ」
ス×ローに着いたコンちゃんは感嘆の声をあげた。ユメくんがお寿司を食べているテーブルは、大量に積み上げられた皿でほとんど埋まっていたからだ。ユメくんは頭っぽいところから大きな口を出して、流し込むようにお寿司を食べていた。
ここにも人はいない。期間限定ネタ増量キャンペーンを謳うBGMだけが店内を占めていた。ユメくんがこれだけ食べているのに、レーンのお皿が全く減っていないのも不思議だった。
コンちゃんがテーブルに着くと、ユメくんはあったかいお茶を淹れてくれた。
「⋯⋯ あち、!」
「アハハ、ハ。コンちゃんは何にする?好きなの食べなァ、俺奢らないけど」
「えーっと⋯⋯ その前に、いっかいお皿片付けようよ、食べるとこ無くなっちゃう」
「そだね」
ユメくんは(本当に)大きな手でテーブルの上を薙ぎ払った。ガァン!ガラガラカラ⋯⋯ 。とテーブルはスッキリしたけど、コンちゃんのお茶まで飛んで行った。コンちゃんは一瞬びっくりしてキュッと力を入れたが、ユメくんが「食べよー」って言うので、改めてレーン見た。ユメくんに何を言っても聞いて貰えないことをよくよく知っていたので。
1枚目はマグロを取った。しかし、お皿を置く前にユメくんに取られてしまった。2枚目はたまごを取った。これも取られた。3枚目はコハダを取った。また取られるんじゃないかと、チラとユメくんを見ながら皿を置いたけど、取られなかった。こんな調子で、コハダしか食べさせて貰えなかった。
「満腹です」
「美味しかったけど、途中で飽きちゃったよ⋯⋯ 」
「なぜ」
ユメくんは本当にびっくり!全然わかんない!というふうに手っぽいものを2本上げた。ふたりはス×ローを出て、車道の真ん中を歩いていた。ユメくんは、今はヒトに近いカタチをしているが、歩き方は紙人形のようにゆらゆらしている。
「次は何する」
「⋯⋯ うーん、」
「カラオケ行こうぜ」
「え、ぁ、うん」
考えさせるくせに選ばせないのがユメくんだ。それはユメくんが1番コンちゃんのことを理解しているからである。
「ねェ、本当に今日の夢は終わらないの?」
「スマホ見てみな」
言われた通りポケットからスマホを取り出す。画面には23:59の数字が光っていた。なるほど、とコンちゃんは思った。しかし困った。明日も仕事があるし、上司の相談(愚痴)に乗る約束をしてしまった。起きられないとなると文句を言われるかもしれないなァ、と思いつつも、何だかほっとしていた。
ふたりはま×きねこに向かった。カウンターには寄らず、そのままボックスに入っていった。スクリーンにはには最近流行りのミュージシャンが映ってアルバムの宣伝をしていた。
「なんか歌えー」
「えぇ、」
悩んだ末に、コンちゃんは先程映っていたミュージシャンの歌を入れた。色んなところで聞く歌なので多分歌えると思ったからだ。前奏が始まっていざ最初のフレーズを、と、その時、曲は止んでしまった。ユメくんが演奏中止を押したからだ。
「気に入らない?」
「当たり前だろ」
「そっか、」
コンちゃんは、次はデュエットを入れた。恋愛ソングでちょっと恥ずかしかったが、これならユメくんも歌えると思ったので。しかし今度は前奏が始まって2秒で終わってしまった。
「ばーーーーかーーーーーーー」
「⋯⋯ 」
「俺歌お」
ユメくんはパンク・ロックでシャウトした。大音量がボックスに響いて揺れていた。コンちゃんは両手で耳を塞いでいたが、なんだかワクワクドキドキしてパッ!と笑っていた。ユメくんの歌う歌はコンちゃんを愉快にさせた。
「楽しかったね!」
「ネー。次何する」
「ァ、えっと⋯⋯ 」
「映画な」
ユメくんは二足歩行に疲れたらしく、シャクトリムシみたいに進んだ。シアターに着くと、ふたりは上映中の作品が並べられているモニターの前で止まった。
「何見る」
「⋯⋯ 」
「ステイだ。逃げたらバッチンする」
ユメくんは関係者以外立ち入り禁止の部屋にドアの隙間からずるん!と入っていった。コンちゃんは、シアターに来るなんていつぶりかしら、と周りを見渡して、なぜだか悲しくなった。それからしばらくして、ユメくんは水たまりが広がるみたいに戻ってくると、「スクリーン2に行く」と言った。
スクリーン2では、リスさんとウサギさんがスペシャルポップコーンを食べる映像が流れていた。ふたりは真ん中辺りの席に着くと、たくさん持ってきた食べ物(キャメルポップコーンLサイズ2つ、オレンジジュースとス×ライト、フ×ンタグレープにコカ・×ーラ、チョコチュロスとアイスクレープを前菜に、メインディッシュはアメリカンドッグ。これら全てユメくんが勝手にカウンターから持ってきた)をセットして上映を待った。
「ユメくん、」
「なんですか」
「お別れするって言ってたよね、それっていつかな」
「この映画が終わった後ですね」
「私、ひとりになっちゃうのかな、」
「いや。ここ(夢)にいる限り俺がいじめますが。ひとりにはさせねぇよ、俺の楽しみが無くなっちゃうでしょうが」
コンちゃんは、なんだか矛盾してる気がするなァ、とは思いつつも、ひとりになることは無いと知って、眉を下げてちょっと笑んだ。
いよいよ上映時間だ。劇場は暗くなり、スゥとプロジェクタのレンズが広がった。
ユメくんが用意した映画はラ×ンツェルだった。それはコンちゃんが何度も見た作品だった。物語はまだ始まったばかりなのに、結末を回顧したコンちゃんはハッとして涙を流した。そうだ、そうだった、私はデ×ズニープリンセスが好きだった。子供っぽいと思われるかもしてないから誰にも言ったことはなかったが、私はデ×ズニープリンセスが大好きだった、とようやく思い出した。
お寿司が好物だった。特にコハダが好きだった。家族みんなで回転寿司に行って、お皿をたくさん積み上げて、最後にガチャガチャをするのが好きだった。なのに周りは「コハダなんて渋いね〜」と、歳に合ってないみたいなことを言うのだ。
音楽が好きだった。特にパンク・ロックが好きだった。高校時代、カラオケには週に一回は行っていた。友達と行ってふざけながら歌うのも好きだったけれど、どちらかと言うと低い歌声を聞いている方が好きだった。自分には出せない声に、憧れを抱いていた。
全部忘れていた。コンちゃんは社会に疲れきって、みんなの好きなものを優先していた。その方がえっ!って顔をされないからだ。
コンちゃんはパタパタ泣いた。泣きながらアイスクレープを食べた。映画はドリンクだけよりも、いろいろ食べる方が好きだからだ。100分間、もぐもぐしながら涙が止まらなかった。ユメくんは100分間、コンちゃんを鑑賞してニコニコしていた。
「次は何する」
「おいしいパン食べたい。サクサクのメロンパン、しっとりのやつは気分じゃない。中にメロンクリームが入ってるのがいいの」
シアターを出たふたりはスクランブル交差点に戻ってきた。コンちゃんの後ろには23:59の電子公告が点滅して流れていた。
「オ、そうですか。でもコンちゃんの記憶にそんなものはないから、自分で探しな」
「うん」
「俺がいなくてもちゃんと泣けよ」
「うん」
「ありゃ、これはもう二度と会えない気がしてきたなァ。サヨナラだネ。グットバイ」
「うん、泣かせてくれてありがとう」
渋谷のスクランブル交差点の真ん中。00:00の電子公告が流れた。
題 風に身をまかせ
モシ、モシ、フーライボーをご存知?
⋯⋯ そう⋯⋯ いえ、彼もあなたのように、一つ所に留まらない方だったから。私、あの方に一言お礼を言いたくて、ずっと探しているのです⋯⋯ 。
あら、協力してくださる⋯⋯ ありがとうございます、ありがとうございます。
⋯⋯ 小学生の頃の話です。あの方とは、ここのような小さな公園で出会いました。いつものように赤いランドセルを背負って、同じクラスのAちゃんに虐められて泣きながら帰っていた時、公園のキリンさんの遊具から足が出ているのを見つけたのです。私、ヒトが倒れてる、ってびっくりして、急いで近づいて中を覗きましたら、狭いキリンさんの中に、男の人が体を曲げて詰まっていたのです。よぉく見ていますと息をしているのが分かって、ほっとして、
「モシ、おにーさん、」
って、声をかけたのですが、返事がないのでもう一度、
「おにーさん、風邪をひいてしまいますよ」
って言うと、あの方は、バチッ!と目を覚まされました。そして、
「⋯⋯ オ、おお、夢だ」
って、よく分からないことを言って。のそのそキリンさんから這って出てきました。私と目線を合わせて、両腕を掴まれて、ニコニコ笑って、
「お嬢ちゃんは天使かな、悪魔かな。それとも妖怪か、今回はどうなんだ、オ────イ、カミサマ───、あハアハアハァハ、ハ。答えろよ」
って叫ぶから、私怖くなって、
「あ、あなたが決めていいわ」
って、泣きながら答えました。そしたら、あの人は一寸きょとん⋯⋯ として、
「オレが決めていの⋯⋯ オォ、これは初めてだなァ⋯⋯ 。じゃあメイドさんね、可愛から。メイドさんの仕事はオレをお世話することです。お腹がすきました。あと15分以内に腹が満たされないとメイドさんを殺したくなってしまいます。がんばってね」
って言うから、私急いで家に帰って、おにぎり握って持っていったのです。本当なら警察に行くのが正解なのでしょうけど、掴まれた腕がものすごく軋むものだから、絶対に逆らってはいけない類の人だって本能で分かったのでしょうね。
おにぎりを食べ終わったあの方は、米粒がついた手で私を撫でて、
「ご馳走様でした。いい夢だなァ⋯⋯」
って言うから、私一寸不思議に思って、
「夢じゃないわ、おにぎり温かかったでしょう」
って言うと、彼は吹き出して笑っていました。笑いすぎて咳き込んでいたんですよ。
笑うのに満足したのか、次は、「オレはフーライボー、現(うつし)の夢に沈みー、こっちに来いよーと、坊主をひっくり返すー」と、歌いだしました。
私なぜだか、その歌を気に入ってしまいました。
だから、ダメだと分かっていても、それからもあの方に会いに行ってしまったのです、おにぎりを持って。友達はいませんでしたから、放課後はいつもフーライボーと過ごしました。フーライボーは最初は怖かったけれど、それはお腹がすいていたからで、お腹が満たされるといつも笑ってくれるのです。
フーライボーはいろいろなことを知っていて、たくさんお話を聞かせてくれました。彼が言うには、「メイドさんのお給料も払えないような甲斐性なしなので⋯⋯ 」と、私が楽しいことをしてくれていたようです。
ある時、ずっと気になっていたことを聞いてみました。
「フーライボーはどこから来たの?なんであの時、キリンさんの中で寝てたの?」
って。そしたら、
「オレは現実世界出身だよ。キリンさんの中で寝てたのは、キリンさんがオレのママだからだよ。今回はそういう設定らしいです」
って。よく分からないことを答えられました。
「ここは夢の中なの?つねられたら痛いでしょう」
って、フーライボーの手の甲をつねって聞いたら、
「痛い、メイドさんじゃなきゃ反射で殺してたね。つまりそういうことなんです、ここはオレの思い通りの世界なんです。可愛いメイドさんがご飯を持ってきてくれるんです。長い夢だなァ⋯⋯ 」
って、どう考えても分からないことを言われました。今思うと、常人には理解することなんて到底できない、狂人の域に触れていたのでしょうね。
そうして、フーライボーと出会って2ヶ月が経とうとしていました。いつものようにフーライボーのところに行こうとしていた時、AちゃんとAちゃんの友達に捕まってしまいました。どうやらAちゃんは、私が毎日のように放課後を楽しみにしているのを怪しんでいたようで、フーライボーと遊んでいることがバレてしまったのです。夕方、私は運動場の裏にある草むらに連れていかれて、
「不審者と仲良くしてるなんて怪しいわ、あなたも悪いことしてるんでしょ」
って、怒鳴られて、「土下座しなさい」って命令されました。どうしてAちゃんに謝らなければいけないのか見当もつかなかったけれど、言う通りにしないと痛いことをされると知っていたので、膝を着いて頭を下げました。すると上からAちゃんの笑い声が降ってきて、なんだかすごく情けなくて、涙が溢れました。でも泣いているのを悟られたくなくて、歯に力を入れて必死に息を殺していました⋯⋯ 。
その時、ふっとAちゃんの声が聞こえなくなりました。次に周りの女の子たちの甲高い叫び声が耳をつんざきました。でも私は、全然怖くなかったのです。だって、その声に交じって、私の大好きな歌が聞こえていましたから。
女の子たちの声も聞こえなくなって、私はようやく頭を上げました。そこにはとっても怖い顔をしたフーライボーがいました。
「メイドさァん⋯⋯ オレァお腹がすきました、こんなのはオレの世界じゃないんですが。どうしてくれる⋯⋯ こいつら殺していいか、オレの夢を壊したんだから」
と、フーライボーは怒っていました。お腹がすいているだけじゃない、何か決定的な引き金を引いてしまっているようでした。
「ダメよ、殺すのも痛いことするのもダメよ、お願いします、機嫌直してください、今からおにぎり持ってきますから、ね、ね、お願い⋯⋯ 」
って、私はとにかく、これ以上怒らせないように必死でした。しかしフーライボーは少し悲しそうに眉を寄せて、「もう遅い⋯⋯ 」と、言いました。
「もう遅いんだ、オレの夢は壊れた。オレは夢から覚める、サヨナラだね。最後の給料だ、お前を楽にしてやる」
と言って、意識のないAちゃんを私の前に立たせました。フーライボーはAちゃんを後ろから支えて、
「グーで殴れ。いいか、パーじゃない、指紋が残るからな。グーだ」
と、私にAちゃんを殴らせようとしました。私はそんなことできるわけが無いと首を振ったのですが、
「やらなきゃ殺す。これ以上夢から覚まさないでくれ」
って、懇願されたものですから、私は、覚悟を決めて、フッと息を吐いて、Aちゃんを右から殴りました。
その瞬間、罪悪感とか、申し訳なさよりも、何よりも強い快感を感じました。横に倒れていくAちゃんを見て、「ざまぁみろ!」としか思わなかったのです。フーライボーは満足気に、
「ゲラゲラゲラ、よくやったなぁ、いや愉快です。夢見が良かったなァ、スッキリ起きれそうだ⋯⋯ 」
と言って、「オレはフーライボー、夜の夢に浮かびー、帰ってきたぞーと、坊主をひっくり返すー、」と歌い歌い、フラフラ去ってしまいました。
それから7日後、警察の事情聴取とか、カウンセリングとかを受けさせられたけど、やっと開放されたのであの公園に行ってみました。いつも詰まっていたキリンさんにフーライボーの姿はなく、ジャングルジムの上にも歌うフーライボーはおらず、鉄棒をしてひっくり返っているフーライボーもいませんでした。ちなみにAちゃん達も、酷い怪我をしたのでしばらくは学校に来られませんでした。その怪我のうちのひとつが私に付けられたものなんて、Aちゃんも誰も知らないのです。
それから、私、もしかしたらフーライボーの言う通り、この世は私が寝ている間に見てる夢なんじゃないかって思うようになりまして。それなら私の思い通りになるはずで、そうじゃないとおかしいでしょう。あなたもそう思いますよね、ね。こんなふうに思えるようになったのはフーライボーのおかげなのです。感謝を伝えたいのです。早く会いたくて、仕方がないのです。