『懐かしく思うこと』
私が、懐かしく思うこと。
小さい頃に住んでいたアパートの窓辺で揺れるカーテン。
暖かい光の中で、ふわりふわりと揺れている。
私はそれを、母の膝の上に寝転がりながら眺めていた。
保育園に行く前の、卵かけご飯。
水色の茶碗に盛られて、美味しそうにつやつやと光っている。
休日にただただ母と見ていた、テレビドラマ。
幼児だった私が内容を理解していたのかは分からないけど、いくつかのシーンだけは、いまでも鮮明に思い出せる。
父におんぶされているときの、体温と背中の感触。
力強く支えられているような感じで、温かかった。
今はもう重すぎて、おんぶできないけど。
こんな他愛ない、日常のワンシーンでも、今の私には輝いて見える。
いつも気を遣って、ちょっとしたことで死にたいと思ってしまうような私には。
痛いくらいに、懐かしい。
『もう一つの物語』
⚠︎二次創作のifストーリーです。
「俺を殺したのは、あなたですよね?」
黄昏色に染まった客室で、彼は言った。
バレた。
なんで。どうして。
気づかれていないと思っていた。
僕は震える手を隠して、平静を装いながら答える。
「ええ、僕ですよ」
自分を殺した犯人が目の前にいるというのに、彼は表情一つ変えなかった。
そうですか、となんでもないことのように相槌を打つ。
「怖くないんですか?」と僕が聞くと、
「別に怖くないよ」といつも通りの優しい声色で言った。
部屋にしばし沈黙が流れる。
僕は、窓の前で逆光を浴びる彼の姿を、ぼんやりと見つめていた。
不思議と、殺したいとは思わなかった。
ふいに、彼が口を開く。
「なんで殺そうと思ったの?」
僕は答えない。
答えたくなかった。
僕を見る両親の冷たい視線や、彼と楽しそうに談笑する横顔を、思い出してしまいそうだったから。
僕が何も言わずに俯いていても、彼は答えを促すようなことは言わなかった。
もう知ってたのかな、と僕は思った。
ふと、彼はこの後、どうするんだろうかと考える。
僕を殺すのかな。
でも優しい彼なら、こんな僕も許すのかもしれない。
ゆっくり顔を上げて彼の顔を見るも、いつもと変わらない穏やかな表情からは、なにも分からなかった。
彼は僕の方を見ずに、窓の外の地平線を眺めている。
何故か無性に、死んでしまいたくなった。
僕は彼に歩み寄る。
「僕を殺してくださいよ」
自分でも驚くぐらい、泣きそうな声が出た。
彼はちらりとこちらを見やる。
「いいよ」
そう言って、ふっと微笑んだ。
「一緒に死のう」
***
ガタンゴトンと、電車の走る音が聞こえる。
僕の彼は、夜空の下に立っていた。
遠くから電車がやってきて、僕のすぐ前を通り過ぎた。
冷たい風が髪を揺らす。
この電車は数秒おきにここを行き来していて、次の電車が来た時に、二人で飛び込むことにした。
夜風の音に紛れて、ガタンゴトンという音が、微かに聞こえてきた。
彼と目配せをする。
死ぬことへの恐怖は、もうなかった。
電車のライトが段々近づいてくる。
その光が眩しいぐらいになったとき、僕と彼は手を取り合って、線路に飛び込んだ、
はずだった。
僕の手から、温かい感触がふっと消えた。
え、と思う間もなく、轟音とともに、全身を激しい痛みが襲った。
体が砕かれたんだ、と遠のく意識の中で思った。
仰向けになった僕の目に、暗い目で微笑む彼が映った。
それを最後に、視界が暗転する。
暗闇の中で、音だけが残った。
彼の冷たい声が響く。
「ごめんね。でも、君だけは絶対に許さない」
『紅茶の香り』
連日の残業でぐったりとした私は、すっかり暗くなった夜道を一人暮らしのアパートに向かって歩いていた。
墨汁を零したような夜空の中で煌々と光る電灯に、目眩がした。
足元がふらついて、上手く立てない。
目の前が霞み、黄色い明かりだけが残った。
ふと視界が暗転する。
あ、これやばい、とぼんやりする頭で思った。
私はそのまま意識を失った。
ひんやりとした感触で、目が覚める。
私はいつの間にか、知らない場所にいた。
夜空の上である。
正確に言うと、一面の星空が映った湖の上にいた。
冷たく透き通った水が、私の体に触れる。
しかし不思議なことに、服が濡れないのだ。
しかも、底が見えないほど深い湖なのに、沈まない。
私は少し怖くなった。
え、これ夢?夢だよね?
帰れなかったらどうしよう。
ふいに、そんな考えが脳裏をよぎった。
私は足で強く水面を蹴り、息を弾ませながら、とにかく走る。
走って、走って、走り回った先に、それはあった。
湖の中にぽつんと建っている、小さな建物。
私は全身の力が抜けて、ふらふらとその温かい光に向かって歩く。
木製のドアを開けると、ちりんちりんと、可愛い音色のベルが鳴った。
「いらっしゃい」
そう迎えてくれたのは、タキシードをきちんと着た、猫のマスターだった。
思わずたじろぐ私に、背の高いマスターは、上品なティーカップになみなみと入った紅茶を出してくれる。
紅茶のこうばしい香りが、鼻をくすぐった。
私は恐る恐る、カップに口をつける。
熱いものが苦手な私にちょうどいい、優しい温度の液体が唇を濡らした。
そのまま紅茶を口に含むと、上品で柔らかい甘さとともに、紅茶特有のビターな香りがふわっと鼻腔を抜けた。
美味しい。
私は一息にカップの中身を飲み干して、ふうっと息をついた。
それを猫のマスターは、満足そうに見守っている。
「ごちそうさまでした」
そういうのと同時に、再び視界がぼやけた。
気がつくと、いつもの道に立っていた。
なあんだ、夢だったのか、と少し残念に思う。
でも、体の芯にはしっかり、あの美味しい紅茶の温度が残っていた。
私はしっかりと前を向いて、自分の家へ歩き出す。
遠くで、本当に小さくだけれど、マスターの「またいらっしゃい」という声が聞こえた気がした。
『行かないで』
頭がズキズキと痛む。体がだるくて動けない。
熱下がったかな、と体温計で体温をはかる。
ピピピ、と音がして液晶を見ると、38.4℃と表示されていた。
最悪だ、熱上がっちゃった。解熱剤飲まないと。
私は重い体を起こし、引き出しを漁る。
見つけた解熱剤を飲み込んでも、なかなか楽にならない。
はぁ、しんどい。
私は頭や喉の痛みを意識しないように、無理やり目を瞑る。
コンコンッ
ふと、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
こんなときに、と多少苛つきつつも、部屋のドアを開ける。
「いきなりごめんね、大丈夫?」
「さくなちゃん……、」
そこに立っていたのは、私の同級生であり恋人のさくなだった。
彼女の姿を見たら安心して、少し泣きそうになった。
「これ、薬とか、熱さまシートとか、色々入ってるから。あと、プリン。好きでしょ?ゼリーもあるよ」
彼女は手に持っているレジ袋を私に差し出しながら言う。
「ごめんね……ありがと」
私は泣きそうになりながら袋を受け取った。
本当に頼りになる、優しい彼女だ。
「それで、体調はどう?熱ある?」
彼女は私の額に手を当てる。
「結構熱いね」
驚いたようにそう言い、熱さまシートを貼ってくれた。
ひんやりして気持ちいい。
「それじゃ、またね。ご飯ちゃんと食べるんだよ?なんかあったら連絡して」
彼女はそう言って、部屋を出ていこうとする。
「行かないで……!」
私は思わず、彼女の服の裾を掴んでいた。
彼女が振り向く。
「どうしたの?寂しい?」
彼女はいたずらっぽく微笑んでそう問いかけた。
私はおずおずと頷く。
「もし迷惑じゃなかったら…」
おそるおそる彼女の顔を見ると、彼女は優しく微笑む。
「いいわよ。じゃあ、今日は泊まろうかな」
彼女は私の頭を優しく撫でてくれた。
風邪は辛いけど、たまにはこういう日もあっていいな、と思いながら、私は心地よい眠りに落ちていった。
『どこまでも続く青い空』
放課後の、誰もいない教室で。
私たちは、他愛のない話をする。
季節は夏。
日は長く、もう夕方だというのに、真昼のように明るい。
茹だるような暑さで、ちらほら見かけた冬服の生徒も、最近はぱったりと見かけなくなった。
寒がりな私も今日は、半袖の白いシャツを着ている。
本当は目の前の彼女が着ているようなセーラー服が良かったのだが、うちの学校は性別できっぱり分かれていて、女子はセーラー服、男子はシャツと決まっている。
だから当然私は、セーラー服を着ることができない。
少し羨ましく思って、彼女の胸元で揺れるリボンをじーっと見つめていると、彼女がそれに気づき、「これ、気になる?」と指先でリボンを持ち上げて言った。
「まあね、私には着れないから」
私は苦笑を浮かべて答えた。
「じゃあ、交換する?」
え?と声が漏れた。
「いいの?」
彼女は私の顔を眺めながら言う。
「だって、あいちゃんの方が似合うでしょ。顔可愛いし、スタイルもいいもん」
私は少し照れて笑う。
「えーそうかしら」
「そうだよ」
そして私たちはお互いの制服を身につけた。
スカートを着るのは初めてじゃないけれど、足を通すとき、少しどきどきした。
彼女が着ていた服ってこともあるけど、なぜかずっと欲しかった新品の服に袖を通すときみたいな、そんな感覚がした。
二人とも着替え終わると、せーので後ろを振り返る。
そこには、王子様みたいにかっこいい彼女がいた。
スカートも似合うけど、スラックスだと足の長さが強調されていて、モデルさんみたいだった。
「やだ、すっごいかっこいい!」
私がそういうと、彼女は照れたように微笑む。
「あいちゃんも、想像してた何倍も可愛い。さすが私の彼女!」
私はどうしようもなく嬉しくなって、満面の笑みを浮かべた。
「やだー照れる〜」
ふと、彼女が私に近づいてきた。
なに?と問うと、顎を持ち上げられる。
彼女と目が合った。
綺麗な瞳に至近距離で見つめられて、心臓がばくばくと音を立てる。
そのまま、彼女に手で目を覆われた。
数秒後、柔らかいものが唇に当たる。
一瞬、時が止まった気がした。
茹だるような暑さ。
騒がしいセミの鳴き声。
目を瞑っていても見える、どこまでも続く青い空。
そして、温かい彼女の唇。
まるで、少女漫画のワンシーンのようだった。