『紅茶の香り』
連日の残業でぐったりとした私は、すっかり暗くなった夜道を一人暮らしのアパートに向かって歩いていた。
墨汁を零したような夜空の中で煌々と光る電灯に、目眩がした。
足元がふらついて、上手く立てない。
目の前が霞み、黄色い明かりだけが残った。
ふと視界が暗転する。
あ、これやばい、とぼんやりする頭で思った。
私はそのまま意識を失った。
ひんやりとした感触で、目が覚める。
私はいつの間にか、知らない場所にいた。
夜空の上である。
正確に言うと、一面の星空が映った湖の上にいた。
冷たく透き通った水が、私の体に触れる。
しかし不思議なことに、服が濡れないのだ。
しかも、底が見えないほど深い湖なのに、沈まない。
私は少し怖くなった。
え、これ夢?夢だよね?
帰れなかったらどうしよう。
ふいに、そんな考えが脳裏をよぎった。
私は足で強く水面を蹴り、息を弾ませながら、とにかく走る。
走って、走って、走り回った先に、それはあった。
湖の中にぽつんと建っている、小さな建物。
私は全身の力が抜けて、ふらふらとその温かい光に向かって歩く。
木製のドアを開けると、ちりんちりんと、可愛い音色のベルが鳴った。
「いらっしゃい」
そう迎えてくれたのは、タキシードをきちんと着た、猫のマスターだった。
思わずたじろぐ私に、背の高いマスターは、上品なティーカップになみなみと入った紅茶を出してくれる。
紅茶のこうばしい香りが、鼻をくすぐった。
私は恐る恐る、カップに口をつける。
熱いものが苦手な私にちょうどいい、優しい温度の液体が唇を濡らした。
そのまま紅茶を口に含むと、上品で柔らかい甘さとともに、紅茶特有のビターな香りがふわっと鼻腔を抜けた。
美味しい。
私は一息にカップの中身を飲み干して、ふうっと息をついた。
それを猫のマスターは、満足そうに見守っている。
「ごちそうさまでした」
そういうのと同時に、再び視界がぼやけた。
気がつくと、いつもの道に立っていた。
なあんだ、夢だったのか、と少し残念に思う。
でも、体の芯にはしっかり、あの美味しい紅茶の温度が残っていた。
私はしっかりと前を向いて、自分の家へ歩き出す。
遠くで、本当に小さくだけれど、マスターの「またいらっしゃい」という声が聞こえた気がした。
10/27/2024, 12:10:48 PM