そらみ

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12/13/2024, 2:02:55 PM

 兵士は苦しかった。
 長い長い戦争がようやく終わりを告げ、兵士の仲間は皆死んでしまった。兵士もまた大怪我を負い、飢餓と孤独に苦痛を覚えながら、どことも分からない道程をひたすら歩き続けている。
 そこらじゅうに散らばっているのは、瓦礫か、人間か。確かめる気も更々起きない。それが生きているのか死んでいるのかも、正直どうでもいい。
 兵士は何のために生きているのだろうと自問した。
 家族も、友人も、大切な人は皆いなくなり、国は荒れ果て、助けてくれる者などいない。
 こんなに苦しい思いをしてまで、命を繋いでいく意味は果たしてあるのだろうか。あったとして、それを誰かが教えてくれたとて、自分は納得できないのではないか。
 ならどうして、今この道をずっと歩いているのだろう。
 どこに向かっているのか。何を求めているのか。
 兵士は逡巡したが、答えには辿り着けない。考える気力も体力も、もう残ってはいないからだ。
 それから、どれぐらいの時間が経ったのか。
 気づけば兵士は夜の森を彷徨っていた。月明かりは届かず、風と虫だけが静かに歌っている。
 兵士は明かりを探して顔を上げた。
 ひとつ、煌々とかがやくものがあった。家だ、可愛らしい民家が一件建っている。
 兵士はその光に吸い込まれるように、足を運んだ。
 しかし、途中で膝が抜けてしまった。どさりと重たい鎧が地面に崩れ落ちる音がする。
 ああ、もうすぐそこだというのに。結局、自分の手はいつも欲しいものに届かない。
 立ち上がれないまま、家の明かりをぼんやりと眺めていると、突然その扉が開き、誰か出てきた。
 少女だ。深い湖色のローブを身につけて、ランタンを手にこちらを振り向く。
 あどけない顔は驚きを浮かべて、すぐさま駆け寄ってきた。
 大丈夫ですか、という問いかけに上手く答えられない。少女は返事を待たずして、兵士に肩を貸してくれた。重たい足を引きずるように、兵士は少女の家へと歩いていく。
 少女は見ず知らずの兵士に、献身的に接してくれた。鎧を脱がせ、傷の手当てをし、自分のベッドを貸してくれる。嫌な顔ひとつせず、ただ優しさを兵士に与えてくれる。
 兵士は泣きたくなった。涙は出なかったが、こんなに無条件に優しさを享受するのは、もういつぶりか思い出せないくらいで。ただ、嬉しかった。
 数日が経ち、兵士はようやく歩けるようになった。
 ふとキッチンを覗けば、少女が何かを作っている。
 少女はまともに食事ができなかった兵士に、お粥など消化にいいものをいくつか作ってくれた。それはどれも彼女に似た優しい味で、とてもおいしかった。けれど、今作っているのはしっかりした料理のようだ。
「よし、あとは仕上げだけ」
 ご機嫌に、少女は戸棚から何か小瓶を取り出す。
 と、その様子をこっそり見ていた兵士を振り返り、にんまりと悪戯っぽく笑った。
「これを最後にいれます。さて、なんでしょう?」
「え……と、怪しい薬……?」
「失礼だなぁ、仮にも君の命を救った恩人に対して」
「す、すみません」
「ふふ、冗談、冗談。これはね、愛だよ」
 ポン、と軽快な音を立てて、小瓶の蓋が開く。
 中に入った透明な液体を、鍋にゆっくり注ぐ。それをかき混ぜながらひと煮立ちさせて、少女は火を止めた。
 ふたりぶん、器に盛って食卓へ持っていく。
「魔女の特製ポトフ! 召し上がれ」
 愛、とはどういうことなのか、聞こうとしてやめた。目の前のポトフがあんまりおいしそうで、疑問がどうでもよくなったからだ。
 匙で掬って、少し冷まして。ひと口。
 熱かった。舌の先をやけどして、痛くて。喉を通り過ぎた優しい味のスープが、じんわりと心を温めていく。
 ――どう、おいしい?
 懐かしい声が、聞こえる。
 生まれ育った家。下がり眉の、母の笑顔。おかわりをねだる下のきょうだいたち。誰よりも料理を絶賛する、おおらかな父。
 忘れていた、家族との大切な思い出。
 きっと、頬を生暖かいものが伝ったのは、やけどの痛みのせいだ。
 もうひと口、またひと口。だんだんと、熱さは旨味に変わっていく。ぽかぽかと、身体中が温まる。
「ふふ、泣くほどおいしかった?」
「っな、泣いてない……」
「強がりさんだなぁ」
 少女は楽しそうに笑って、兵士が食べる様子を見ていた。自分は食べていないのに、満足そうな顔をして。
 あっという間に食べおわり、兵士はお礼に食器を洗った。ようやく動けるようになった身体だ。命を助けて、看病してくれたお礼を、きちんとすべき時だ。
 兵士は考えたが、少女にとって何がいちばん嬉しいかは、本人に聞くのがいいだろうと思った。さっそく尋ねると、返ってきたのは意外な言葉。
「これを君に預かってほしいんだ」
 手渡されたのは、さっきの小瓶だった。
「これ……結局、何?」
「だから、愛だってば。君もさっき感じたでしょう? 料理にこめられた愛」
 愛。少女の言葉に、心の奥がじんわりと温もりを帯びる気がする。
「今度は、君の番」
 少女は靴音をコツン、と鳴らして、ローブを翻す。
「私が君にしたようにさ。今度は、君が誰かにその愛を注いであげてよ。それが、私にとっていちばん嬉しいこと」
 振り返った彼女は、やっぱり悪戯っぽく笑っていた。
 よくわからない。兵士はそう思った。
 わからないけれど、それが少女の答えなら、自分は誠実に全うするべきなのだ。
 兵士は小瓶を大事にしまって、必ず恩を返すことを誓った。
 それから数日後。傷の癒えた兵士は、少女に何度もお礼を伝えて、森を去っていった。
 深く、深く、息を吸って、吐いて。

 少女は苦しかった。
 何十年にいちどの大干ばつが村を襲い、少女はひとりぼっちになった。死んでいったものたちは皆、顔も名前も好きな食べものも全部知っていた。
 泣いて、泣いて、すっかり涙も枯れてしまって。少女は酷く後悔した。喉は焼けるように痛いのに、潤してくれる水はどこにもないからだ。
 割れた地面に身を伏せて、少女は目を閉じる。これは全部悪い夢で、目が覚めたら昔のように、祖母がおいしいご飯を作っていてくれるのではないか。
 そんな期待と、絶望を胸に、眠りに落ちて。
 目が覚めた時、少女はベッドに寝ていた。けれどそれは、使い古した自分のベッドではなくて、見慣れた自分の部屋でもなかった。
 そこにいたのは、祖母ではなくて。名も知らぬ青年だった。
 目が覚めたね。青年は涼やかな声でそう言って、何かを持って少女のそばへとやって来る。
 お腹が空いているかと問われ、少女は素直に頷く。すると膝上におぼんが乗せられ、お粥の入った器と匙を置かれた。
 青年はポケットから徐に小瓶を取り出し、ポン、と軽快な音を立てて蓋を開ける。中には、怪しげな透明の液体が入っていた。
「これをお粥にいれます。さて、なんでしょう?」
 青年は、どこか悪戯っぽく笑った。

12/8/2024, 5:31:01 PM

 『将来の夢』
 小学生の妹が見せてきた作文用紙には、そんなテーマがひと言書かれていた。
 なんでも、秋の授業参観日に発表するため、この夏休みの間に書かなければならないらしい。
 あんまりわからない、と妹は困っている。
 何かいい案はないかと問われるも、こればかりは本人のポキャブラリーから引き出さなければ意味がないだろうと、私も困る。
 じゃあ聞き方を変えるね、と妹は言った。この子、私より十も下だというのに、時おりこうやって大人な一面を覗かせるので、鳥肌が立つ。
「お姉ちゃんは将来の夢、なんだった?」

 十年前。
 臨月の母は病院に行ったきり、家に帰ってこなくなり、私は事情を理解しながらも、決して受け入れられずにいた。
 当然といえば、当然。小学四年生なんて、そんなものだろう。自分の都合のいいことしか、頭にいれたくないのだ。
 情けないことに、大人にもそういう種族がいることを、十年後の私は悟ってしまうのだけれど。
 それはさておき。あからさまに口を聞かなくなった娘の私相手に、父はずいぶんと困った顔をしていた。
 いつも私が自分から話しにいくのは母のみで、父に対しては不慣れな面も大きかった。仕事の忙しさから、休日でもほぼ一日中寝ており、家では滅多に顔を合わせず、どこかに遊びに連れて行ってもらった経験も皆無に等しかったと思う。
 そんなことだから、正直顔を合わせたとて、何を話せばいいのかわからなかった。ので、私は無口を決めこんだというわけだ。
 ふたり寂しく、夕食の席。父が慣れない手で頑張って作ってくれたご飯。今となっては感謝しかないが、当時の幼い私にとっては微妙な味をしていた。
 父は一生懸命、私に話しかけてくれていたと思う。思う、というのも、どうも右から左でほとんど聞いてなかったから覚えていない。なんて薄情な娘だこと。
 聞いていないので当然、返事はうん、とかううん、とかもうあまりにも適当で。キャッチボールをはなからする気がなかった。父が全力投球するのに対し、それが体に当たろうが何だろうが、絶対にバットを振ったりしない。
 あれ、キャッチボールというよりそれは野球では。
 さておいて。氷のような食事を済ませるなり、早急に自室に戻る私。金魚色のランドセルの中から宿題を取り出し――しまう。
 私は優等生ではないので、宿題は気が向いたときしかやらなかったし、プリント類はほとんどファイルにいれっぱなしだった。
 だからまあ、すっかり忘れていた。授業参観日のお知らせを、父に渡すことを。
 当日。クラスメイトの家族が教室に来ているのを見て、ようやく思い出したほどには忘れていた。渡さなかったのは自分だというのに、あろうことか私は参観に父が来ないことを恨めしく思っていた。
「では、作文をひとりひとり、読んでいきましょう」
 さすがというか、家族の目にも怯む様子を見せない、熟練教師のおばあちゃん担任。実に普段どおりの声色で、ゆったりと授業を始める。
 挙手制で、各々が事前に済ませておいた作文課題を読み上げていく。発表を終え、拍手が響くと彼らは決まって、後ろを振り返る。そして家族からのグッドサインを受け取ると、満足気に席に着くのだ。
 私は手元の用紙に目を落として、ため息を吐いた。
 『将来の夢』
 用紙には、印字されたそのひと言だけが顔を見せている。文字枠の中に、鉛筆の粉は刻まれていない。
 どうか、時間切れか何かで当たりませんように。
 そんな私の願いも虚しく、おばあちゃん先生は容赦なく私の名前を穏やかに呼んだ。
 驚いて辺りを見渡せば、なぜか誰も手を挙げていない。そして当てられた私へと全視線を向けている。
 次に目に入ったのは、黒板に吊るされた日直当番表。マーカーペンで綴られているのは、紛れもなく己の名。
 すべてを理解して、一気に血の気が引く。大勢の鋭い視線をなるべく視界にいれないように、がたりと重々しく立ち上がった。
 しん、と静寂に覆われる。なぜか突っ立ったまま口を開かない私に、児童も保護者も皆怪訝そうな空気を漂わせた。
 どうしました、と先生も心配そうに問う。何か、何かを言わなくては。焦れば焦るほど、真っ白な用紙が心臓を握りつぶしてくるようだった。
 気持ち悪い。胃の中のものすべて出てきそうだ。
「……保健室、行ってきます」
 小さくそれだけ吐き捨てて、私は誰の顔も見ないようにうつむいたまま、教室を飛び出した。
 これだから、自分が嫌いなのだ。
 正直に言えばいい。書けませんでした、だから発表できません。そう、ありのまま打ち明ければいい。
 それが、できない。したくない。
 面倒くささと、変に高いプライドが、私の臆病心を掻き立ててしまう。
 廊下の角を曲がり、保健室へは行かないまま、途中で立ち止まって壁によっかかる。
 右手に持って出てしまった用紙を、横目で睨んだ。
 こんなもの、もう必要ない。見たくない。
 臆病心が最高潮に達すると、私はすべての事象から逃避するかのごとく、それをビリビリと破り捨てた。
「アカネ?」
 聞きなじみのある低い声に、心臓が跳ねる。
 ボロボロの紙が、私の手に貼りついた。
 よれたスーツ、寝ぐせのままの髪、私とよく似た日本顔の父が、すぐそばに立っている。
 どうして、なんでいるの。
 その問いは出てこない。まともに顔を見ることもできずに、拗ねた幼児のように顔を逸らす。
「びっくりしたよ、急に教室を出ていってしまうから。体調が悪いのか? ならお父さんと一緒に保健室に……」
「ほっといてよ」
 父の声が、ぴたりと止んだ。
 私の心臓も止まる。今、自分が何を言ったのか理解できない。
 勝手に、飛び出てきてしまった言葉。こうなればもう、歯止めが効かないことを察してしまった。
「なんだっていいでしょ、どっか行ってよ」
 顔を見れないまま。冷たそうな廊下を見続けながら、私は一心不乱に言葉を当てる。
「てか、なんでいんの? お知らせ渡さなかったじゃん、わかんない? 来んなって言ってんの! それくらい察してよ」
 違う、違う違う。
 そんなこと思ってない、考えてない、私の本音じゃない。
 でももう、止まらない。
「いまさら父親面してさ、何がしたいわけ。ご飯はまずいし、部屋は汚いし、洗濯ものはぐちゃぐちゃだし、話はつまんないし、臭いし、だらしないし! あんたなんか認めない、父親じゃない! 大っ嫌い! お母さんを返してよ!」
 ぱん、と痛々しい破裂音が廊下に響いた。
 それが、自分の頬から発せられたものだということに、気づくまで時間がかかった。じんわりと痛みを帯びていく。
 視線を上げた先には、くしゃりと歪んだ父の顔。
 とたんに心臓がギュッと掴まれたように苦しくなって、視界がぼやけて見えなくなった。
 まるで赤ちゃんみたいに、みっともなく、情けなく私は大声を上げた。嫌い、嫌い、大っ嫌い。それしか言えないロボットみたいに、ボロボロな心を削るみたいに、罵りまくって激しく泣いた。
 こんなに涙を零したのは、いつぶりかさえわからなかった。ずっと、ずっと溜めこんできたものが、全部溢れ出してくるのを感じる。
 父は何もしなかった。声をかけることも、頭を撫でることも、抱きしめることもせず、ただ泣きじゃくる私をずっと見ていた。
 そのときの私は、そんな父をより一層憎らしく思った気がする。

「お姉ちゃん?」
 壊れた? と怪訝そうに見上げてくる妹に、へらりと笑ってみせる。
 ちょっと昔を懐かしんでた、と言えば、おばあちゃんみたいと毒舌を吐かれる。失敬な、こちとらまだ二十歳のピッチピチハリツヤお肌だぞ。
 あれ、そういえば何聞かれてたんだっけ。
「だから、将来の夢何だったのって」
 呆れ混じりにもう一度問われ、改めて振り返る。
 正直なところ、なりたかったものなんて覚えていないけれど。まあ、記憶から考えるなら、きっとあのときの私には未来を夢見る余裕なんてなかったのだろう。
 お腹の妹に母親を取られたような、好きでもない父親に嫌われたような、そんな孤独を勝手に感じて、今この世界にひとり取り残されたような気がしていた。
 だから、前に進む気が起きなかった。のでは、なかろうか。
「強いて言うなら、何かあるでしょ」
 素直に事実を伝えると、妹は心底不満そうにそう吐いた。この子、なかなかしぶとい。意地でも私から何かを引き出したい様子だ。
 こう全力でこられては、私も意地を見せるしかない。
 強いて言うなら、強いて言うなら……必死にない頭脳を巡らせる。
 結局、あのあと私は。
 将来の夢を破り捨てた私は、どうしたのだったか。

 母は豪快に笑った。
 まさか私がいない間に、そんなことになっていたとは。大きく貼られた白いガーゼを目に、楽しそうにそんなことを言う。
 痛かったかと問われたので、強がって首を横に振れば、ものすごく感心された。
「すごいね。私もお父さんに叩かれたことあったけど、めちゃくちゃ痛かった覚えあるよ」
「え! あの人、お母さんも叩いたの?」
「昔の話ね。大喧嘩したとき、思いっきり。まあ、百倍くらいに返り討ちにしてやったけど」
 またもや、豪快に笑う母に私は若干引いた。
 入院中の母は、想像していたよりも元気で。お腹が大きいことに変わりはなくて、それがなぜか私の心をすっと軽くしてくれたように思う。
 久々に、色々な話をして。楽しい時間はあっという間に過ぎて、空は茜色に染まった。
 父が私を迎えに来たので、げんなりとしながら母に別れを告げる。
 立ち去ろうとした私の未熟な腕を、母がつついた。
「お父さんね、ちょっと後悔してたよ」
 振り返った私の耳に、そんなことを囁いて、母はぎゅっと両目をつむった。
 たぶん、ウィンクをしたつもりなのだろうけど。残念ながら、梅干しを食べたような顔になっている。
 それが何だかおかしくて、私は小さく吹き出した。
 不思議そうな父に着いて、私たちは家路を辿る。
 母と話したおかげで冷静になった私の心は、罪悪感と緊張感で押しつぶされそうになっていた。隣を歩く父の顔を、より一層見れない。
 しかし、やはり謎に高いプライドが邪魔をして、なかなか自分からは謝罪の言葉が出てこなかった。
「ごめんな」
 だから、頭上からそんな言葉が降ってきたとき、あんまりびっくりしすぎて顔を上げたことを覚えている。直後、慌てて下を向いたけれど。
 今にして思えば、何か言いたげな私を察して、うながしてくれたのかもしれない。
「寂しい思いさせてて、すまなかった。お父さん、お母さんの代わりにはなれなかったな」
 ズ、と濁った音が鼓膜を刺す。それは、鼻をすする音に似ていた。
 穏やかで、優しい声。先日の、鬼のような形相とは正反対の、いつもの父。それが、引き絞られた心をふっと緩めるものだから、私は溢れだすものをまた堪えることができなかった。
 ごめんなさい。酷いこと言って、ごめんなさい。
 そう言ったつもりだけれど、たぶんほとんど伝わっていなかったと思う。それでも、父は頷いて、その大きな手でようやく頭を撫でてくれた。
 それが温かくて、嬉しくて、私はやっぱり赤ちゃんみたいに声を上げて、泣きじゃくった。
 精一杯のごめんなさいは、私色の空に溶けていった。

「なんだ、そんな昔のこと覚えてないぞ~」
 ビールの泡ヒゲをつけながら、相変わらずだらしない格好の父がへらりと笑う。
 私も今日まで忘れてたからね、と言えば、そりゃ当然かと笑いあった。あの日、あの頃の刺々しさが嘘のように、私と父は一緒にお酒を飲む仲だ。
 ぬか漬けをポリポリとつまみながら、父はふと思い出したように口を開く。
「そういえば、なんかお菓子作ってくれたことなかったか? なんだっけ……テ、テトリスみたいな」
「ティラミスね。なんだ、覚えてんじゃん。ちょうどその頃だよ、仲直りの印にって私が作ったやつ」
 そうか、そうかと父は嬉しそうに頬を染めた。あれは人生一おいしかったな、なんて言うものだから、私まで顔が熱くなる。
 ティラミスと言ったって、本当に不格好なものだった。材料だけが器に入れられた粗末なもので、あの綺麗な層など欠片もできていなかったけれど、確かに父は本当に喜んでくれたように思う。
 あとから知った。父は、甘いものが得意ではなかったらしい。
「私の頑固さって、なんかお父さんからな気がする」
「おっ、ようやく気づいたか~」
 ばっちり遺伝子継いでるな、と冗談めかして笑う。
 私も笑った。でも、全部はきっと受け継げなかったんだ。半分の中に、運悪く頑固さが入っていただけ。
「ちょっと、お酒くさいんですけど」
 不機嫌そうに眉をひそめながら、妹がリビングに降りてきた。お前も一緒に飲むか、なんて父のダル絡みに、舌打ちしそうな勢いでため息を吐く。
「ねぇ、お姉ちゃん。結局質問の答えなんなのさ」
 麦茶を飲みながら、妹は私に矛先を変えた。
「ふふ、わかったよ。私の将来の夢」
「お、なんだなんだ。面白そうな話だな」
「お父さんには聞いてないから黙ってて」
 妹の牙に、酔っ払いは小さく萎む。
 その様子におかしくて笑いながら、私は改めて妹に向き直った。
「私の、将来の夢はね……」

『そう、喜んでくれたの』
 よかったね、とウィンクの音が受話器の向こうから聞こえてきそうな、祝福の言葉を贈られる。
「まあ、ほら。喜ばないほうが変じゃん……」
 私の照れ隠しは、笑いで一蹴されてしまった。
 父も寝静まった夜のリビングで、固定電話に張りつく私。病院の公衆電話から、楽しそうに笑う母。
 きっと、つかの間のひとりじめだ。幼心に何となく、私は悟っていた。妹が産まれれば、きっと私はまたやさぐれてしまうんだろう。
 だから今のうちに。母の愛を、全部覚えてやるんだと。夜のハイに任せて、私は電話越しに他愛もない話をした。
 しばらく喋って、ふと思い立って、私は父がちゃんと寝ていることを確認する。
「あのね、お母さん」
『うん?』
「私ね、将来の夢できたよ」
 少し驚いたような声がしたあとに、聞かせてよ、と期待が向けられた。
 あのとき、発表できなかった、私の夢。
 今ならもう、迷いなく言える。

 ――な、なんだって? テトリス?
 ――……うん、おいしい。おいしいよ、アカネ。すごいな、こんなものまで作れるようになったんだな。
 ――ありがとう。

「ありがとう、と……ごめんなさいが、言える大人になりたい」

12/5/2024, 2:54:28 PM

 彼はクリスマスの妖精だと言った。
 数日前のこと。物を整理していたら、古びたオルゴールが出てきて。すぐには思い出せなかったけれど、それは幼い頃に祖母からもらったクリスマスプレゼントだった。
 懐かしさに見舞われて、そっと蓋を開ける。優しくてキラキラとした音色に癒されていたら、突然目の前から声がした。気がつけば、彼がそこにいた。
 彼に名前はないと言うので、私は勝手にキャロルと呼ぶことにした。キャロルは肌も髪も服も真っ白で、瞳だけが柊の実みたいに真っ赤だった。
 試しに、うさ耳がついたふわふわの寝間着を着せてみたら、すごくそれっぽくて。
 笑うなんて意地悪だ、と頬を膨らませるので、私はよりいっそう笑ってしまった。かわいいからだよ、と本音を言えば、恥ずかしそうにそっぽを向いた。
 キャロルと過ごした時間はたった数日なのに、なぜか昔からずっと一緒にいたかのような、そんな安心感がそばで揺れていた。
 今夜はクリスマス・イヴ。うきうきとディナーの準備をする私に、キャロルが近づいてくる。
 その姿は、どこか遠慮がちで。どうしたの、と声をかければ、あのね、と寂しそうに笑う。
 言おうかずっと迷っていたけれど、ちゃんと伝えなきゃいけないと思ったから、言うね。そう言う友に、私は手を止めてちゃんと向き合う。
 今夜、ボクは自分の家に帰らなきゃいけない。
 キャロルはいつもの無邪気な笑顔じゃなくて、今にも泣きそうな似合わない顔をした。
 私は、その家が決して近い場所ではないことを、何となく悟った。また会おうね、が言えないことを、何となく感じた。
 わかった。それだけ言って、私は手早く準備を済ます。それだけ? と口にこそしないものの、キャロルはどこか拍子抜けしたような様子を見せる。
 ちょうど、オーブンの焼けるメロディーが鳴った。
 蓋を開ければ、きつね色にこんがり焼けたアップルパイが、嬉しそうに顔を出す。甘く、香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がって、キャロルもうっとりと目を細めた。
 じゃあ今日は、めいっぱい楽しまなくちゃね。
 そう言って私が笑うと、キャロルも元気に頷いてくれた。

 おいしい食事を終えて、いつものように寝室で駄弁る穏やかな時間。今夜はツリーの電飾を灯して、偽物のキャンドルを置いて、暗い部屋に温かな灯りを浮かべながら、幻想的な空間を演出している。
 窓の外は、しんしんと雪が降り続ける。そういえば、キャロルの白は雪にも似ている。
 あのね、キャロル。そう声をかければ、少し鼻を赤くした彼は、あざとく振り向く。
 相変わらずかわいらしい友に、かわいらしくラッピングしたプレゼントボックスを手渡した。
 本当は、これからも仲良くしてね、のつもりで選んだものだったけれど。意図せず、最後の贈りものになってしまったことに、少し寂しさを覚える。
 その寂しさに任せて、私はぽつり、ぽつりと本音を打ち明けた。
 ひとりぼっちだった。家族はみんな先に死んでしまって、葉の落ちた裸の木みたいに、虚しい部屋でひとりぼっち。それが日常だったけど、今思えばずっと寒くて、寒くて、陽の光の届かない日々だった。
 ものを片付け始めたのは、無意識に近かった。自分もすべてを終わらせて、みんなのところへ行きたかったのかもしれない。今となっては、もう思い出せない。
 そんな時だった。
 君が現れた、キャロル。
 君の真っ白な笑顔は、天使が舞い降りたみたいに私の心を明るく照らした。
 君の無邪気な喜びは、マッチをたくさん灯したみたいに私の心を温かく解かした。
 眠れないほど冷たかった思い出の家が、いつの間にか帰りたくなる場所になっていた。
 それぐらい、君は私にとってとても大切な人なんだ。
 だから、本当は離れたくなくて。
 ずっと一緒に、笑っていたくて。
 でも、サンタさんは眠らない子にプレゼントをくれない。こうして、ずっと起きて、君を引き止めてしまえば、きっと怒られてしまうから。
 だから、ちゃんと伝えなきゃいけないと思った。
 ありがとう、キャロル。大好きだよ。
 私の魂の言葉に、キャロルの返事はない。ただ、自分のひざに顔を埋めて、静かにしている。
 仕方がないので、受け取ってもらえないプレゼントボックスを、足元にそっと置いた。
 私、先に寝るね。キャロルも、身体冷やさないようにね。
 そう伝えた声は、震えてはいなかっただろうか。
 布団に潜る。キャロルに背を向ける。
 しばらくして、静寂の中から声がした。アップルパイ、おいしかったね。とても久しぶりに食べたんだ、大好きなお菓子なんだ。嬉しかったよ、ありがとう。
 歌うように紡がれる、思い出。
 うん、と返したつもりだ。私もアップルパイ、好きだよ。嗚咽にはなっていなかっただろうか。
 目を閉じた。背中はまだ温かい。
 それが徐々に、徐々に、冷えていって。
 最後には、遠くで鈴の音色が響いた。
 いっそう、目を強く閉じた。眠れない、今夜はきっと夢を見れない。
 君がいないせいだ。隣で笑ってくれないせいだ。
 どうしてだろう。数日前まで、こんな冷たさには慣れきっていたはずなのに。
 寒くて、寒くて、たまらない。
 眠れないほど、白い光を想った。
 雪はまだ、降り続けて。屋根に重くのしかかる。
 重く、重く、のしかかる。

 クリスマスの朝。
 凍てつく空気の中、私はベッドの傍らに、何もない光景を見た。

11/30/2024, 2:40:38 AM

 あの子は親友だ。
 園児の頃からずっと一緒で、家も近くて、親同士も仲が良くて。何をするにも、あの子はいつも隣にいる。
 直子に謝ってよ。
 教室に静かに響く、あの子の怒号。私のペンケースをわざと落として、嘲笑している女子たちに矛先を向けている。
 私はあの子が大好き。
 いつどんなときも、味方でいてくれる。高校生になった今でも、こうして虐めから庇ってくれる。
 でも、いつも貰ってばかりで、何となく罪悪感に苛まれているのは、嘘じゃない。
 私もあの子に与えられているだろうか。私が貰っている温かさを、ちゃんと。
 そういえば、もうすぐあの子の誕生日だ。
 自室の窓から色づいた葉を見やって、そんなことを思い出す。秋も深まり、だんだんと空気が凍てついてくるこの季節。今年はあの子に何をプレゼントしようか。
 色々と考えながら、夕飯の席に着く。長い出張から帰ってきたお父さんの姿を久々に見た。
 学校は楽しいか。
 優しいお父さんは、まるで私が小さな子どものように、そんな問いかけをしてくる。なんだかやるせない気持ちを抱えながら、曖昧に返事を呟いた。
 学校なんて、楽しいと思えたことがあっただろうか。
 昔から集団の中にいるのが少し苦手で、自分の気持ちも素直に伝えられないで、気がつけば常に教室の端っこでひとり、ぽつんと空気と化していた。
 あの子は、そんな私とは正反対の子だった。いつも周りに人がいて、正義感が強くて、誰かの憧れの的だった。
 こんなに違うのに、あの子はそんなこと気にもせず、私の親友として自然に接してくれた。私みたいに卑屈になったりしないで、素直な愛情を与えてくれた。
 あの子は東京の大学に行きたいらしい。あと数ヶ月でお別れになってしまう。
 これまでの愛情を返すときだ。そして、これからも私と親友でいてほしいことを、ちゃんと伝えなきゃ。
 ここ数年でいちばんの熱意を抱えて、ご飯をかきこんだ。

 おはよう。
 学校でこうして挨拶を気兼ねなく交わせるのは、担任の先生とあの子だけ。
 あの子は今日もキラキラした笑顔で、私のもとへ駆け寄ってきてくれる。
 私と違って、あの子に声をかける生徒は大勢いるけれど。あの子から向かってきてくれるのは、いつも私だけ。
 そんなことで優越感を覚える自分に、寒気がする。
 嫌な気持ちを押し隠して、私も笑顔を浮かべながら、ふたりで昇降口へと向かう。
 いつも通り、自分の下足箱に手をかけた。
 開けた途端、何か黒い小さなものが飛び出してきて、思わず悲鳴を上げて振り払う。
 どうしたの、とあの子が心配して振り向いた。
 私とあの子の目に映ったのは、どう考えても長い時間捨てられてあったであろう、どす黒い上履き。周囲を飛び回る何かの虫が、汚らしさをより一層際立たせている。
 こんなの、私の上履きじゃない。昨日まではちゃんと、綺麗な色をしていたもの。
 許せない、とあの子の低めの声が耳元で囁いた。絶対あいつらだ、なんてことしてくれるの。怒ってくれる親友に、平気だよと常套句を述べる。
 嘘だ、全然平気なんかじゃない。こんな上履き履けないし、そもそも自分の上履きがどこにいったのかもわからないし。どうして彼女らがこんなことをするのか、理由だって見当もつかない。
 私が何をしたって言うの。
 何度目かわからない、虚しいだけの心の叫び。
 直接言ってやれたら、どれだけ良いだろう。残念だけど、私にそんな度胸は微塵も残っていないのだ。

 あの子は運動部の助っ人だと言うので、終わるまで正門で待つことになった。
 教室でわかれて、昇降口へと向かう。今朝あんなことがあったせいで、気持ちが落ち着かない。
 客人用のスリッパを履いた私を、彼女らはいつも以上に面白おかしく嗤っていた。あの子も怒ってくれたけれど、何だか今日はその光景も虚しいだけだった。
 でも、大事なことは忘れちゃいけない。
 今日はあの子の誕生日。カバンのポケットに忍ばせた、一生懸命綴った手紙に触れる。今日、帰り道にちゃんと渡すんだ。おめでとうの言葉と一緒に。
 ぐるぐると思考の渦に巻かれていたせいで、誰かと勢いよくぶつかってしまった。
 慌てて謝ると、クラスメイトの女の子だった。
 急いでいるのか、こちらこそと謝罪を口にするなり、風のように走り去っていく。私も踵を返して外へ出ようとしたとき、裾を引っ張られた。
 息を切らしながら、やっぱり待って、とさっきの子が引き止める。困惑したが、とりあえず周囲の邪魔にならないように、彼女を連れて端へと移動する。
 どうしたのかと問えば、彼女は必死に息を整えてから、私を気まずそうに見て言った。
「椎名さんって、本城さんと仲良いよね」
 椎名は私、本城はあの子の名字だ。私は頷く。
 彼女はより一層、眉を八の字に下げるほど、どこか申し訳なさそうな表情になる。
「あのね……こんなこと、言ってもいいのかわからないんだけど。でも、私……見ちゃって」
 何を見たんだろう。何を言われるんだろう。
 彼女の空気感が、だんだんと疑念を募らせる。耳を塞ぎたくなってくる。私が望まないことを言うのではないか。あの子が望まないことを言うのではないか。
 それでも、どうしても気になってしまって。口を噤む彼女に、何を見たのかと催促した。
「……朝練の、時間に。本城さんがね、椎名さんの上履きを……屑箱に捨てるとこ」
 目の前が、真っ暗になった。

「わ、初雪だよ! ねぇ直子、雪積もるかな?」
 白くふわふわと舞い踊る氷の結晶に、あの子は幼い子どものようにはしゃいだ声をあげた。
 その様子を、私はどんな顔をして見ているんだろう。
「直子、聞いてる? どうしたの、元気ないよ」
 私の元気がないのは、いつものことじゃない。
 どうしてそんな心配そうな顔をするの。どうしてそんな優しい言葉をかけるの。
 いつものことなのに、何も信じられない。
 小さく、強く、あの子の裾を引く。
 どうしたの、とあの子はふたたび私に問う。
「誕生日、おめでとう」
 その言葉を、私はどんな顔をして伝えたんだろう。
 あの子は、まるで幼い子どものように嬉しそうな顔をした。

 何が親友か。
 何が味方か。
 そんなものは、時の流れが魅せた幻でしかない。
 あの子はいつも、どんな気持ちで私に優しくしていたのだろう。
 今となっては、もう考えたくもないことだ。
 ビリ、ビリ、とすべてが破れる音がする。
 何もかもが、散り散りになって舞い踊る。それは、きっと冬のはじまりを告げる、初雪と変わらない。
「ばいばい、あの子。東京でお幸せにね」
 破り捨てられた、私の精一杯の愛情。

11/29/2024, 4:50:07 AM

 僕のクラスには、白杖を持った女の子がいる。
 話したことはほとんどなくて、たまに挨拶を交わすくらいの仲だけど、真面目で良い子なことは何となくわかる。
 明日までに書いて提出するように。
 そう言って先生から配布された、小さな進路希望調査票を手に、眉をひそめる。先生、いくらなんでももう少し、考える時間をくださいよ。
 そんなことを思ってるのは僕だけなのか、周囲からは友人同士で進路について聞き合う声が飛び交う。
 やれ進学だの、やれ就職だの。いったいいつそんなことを考える時間があったのかと、問いかけたくなる。
 必死に今を生きている自分には、未来のことを考える余裕なんて残っていないのに。
 ふと、彼女のことが気になって視線を向ける。
 隣の席の友人に、かわりに書いてもらっている様子だ。彼女ももう決まっているのか。そう思ったとき、なぜだか寂しさを感じた。
 終業のベルが鳴り、各々が荷物をまとめて目的地へと動き出す。部活に行く者、委員会に行く者、そして帰路に着く者。
 僕も荷物をまとめ終わり、帰宅組に混じろうとして、ふと思い出す。そうか、今日はバイトも休みだし、弟の迎えは祖母がかわりに務めてくれるから、放課後に時間があるのか。
 いちど席に着きなおし、数秒経ってから、僕はひとり廊下に足を踏み出した。

 ポロン
 柔らかな音色が、静寂にこだまする。
 温かみのある木目、いつ切れるかわからない弦、身体の大きさにちょうどフィットするサイズ感。
 今は誰にも使われていない、旧音楽室に僕はいる。
 ひとりだけ、普通に話せる先生がここを管理していて、時間があったら使っていいよと鍵の場所を教えてくれていた。
 貴重な放課後。遊びに行く友人もいない僕は、弾けもしないアコースティックギターをここで、ひとり鳴らす。
 ほこりの匂いが、鼻腔をツンと刺激した。この寂れた空気が、今はお気に入りだった。
 カコン、と扉の方で何か、音がして驚く。
 廊下に倒れた白い杖。膝をついて必死に探す、女の子の姿。
 彼女だ。何となく放っておけなくて、ギターを置いて立ち上がる。
 足音に気がついたのか、彼女が顔を上げた。僕は何も言わずに杖を拾って、彼女の手に握らせる。
 ありがとう、とぎこちないお礼が、彼女の唇から紡がれた。そういえば、声を聞いたのは久しぶりかもしれない。
 うん、とだけ返して、教室に戻ろうと踵を返せば、けっこう強い力で裾を引かれた。
「待って、和宮くん」
 これにも驚いた。どうして自分だとわかったのかも不思議だし、何より名前を覚えられていたことが衝撃だった。
 彼女――朝倉さんは白杖を頼りに立ち上がると、ちょっと恥ずかしそうに呟いた。
「ここで、聴いててもいいかな。あの、もちろん邪魔はしないから……」
 どうして、と聞こうとして、飲みこんだ。理由を聞こうが聞かまいが、特に断る理由もないからだ。
 いいよ、と答えて、朝倉さんを近くの椅子まで誘導する。ちゃんと座ったのを確認して、自分もギターが待つ椅子へと戻った。
 ポロン
 相変わらず、気の抜けるような下手くそな音色が響く。
 今になって少し気まずくて、朝倉さんを横目に見た。楽しそうに、笑っている。その笑顔が、嘲笑ではないことを願う。
 良い音だね、と彼女は呟いた。直後、素人耳だけどと焦ったように付け加える。
「何の曲を練習してるの?」
 その問いに、返す言葉を悩む。何となく、幼い頃に母が歌ってくれた曲を思い浮かべてはいたけれど、タイトルも知らなければ、うろ覚えだからだ。
 上手い言葉も見つからないので、仕方なくそのまま答える。すると彼女は、お母様に聞いてみないのか、と不思議そうに問うてきた。
「……残念だけど、空の上まで聞きには行けないから」
 少し気取った言い回しに、自嘲した。格好つけて、朝倉さんを困らせてどうするんだ。現に、彼女からの反応はない。
 気まずさをかき消すように、弦を弾く。
 しばらくして、小さな謝罪が鼓膜を震わせた。
 ああ、やっぱり。真面目で良い子だ。
「こっちこそ、言わせてごめん。何も気にしてないから、朝倉さんも気にしないでほしい」
「わ、わかった」
 気にしない、と独りごちるように、彼女は繰り返す。
「その、聞いてもいいかな」
「うん」
「和宮くんは、音楽の道に進みたいの?」
 これにも、悩んだ。
 いや、悩むことでもないか。僕の将来なんて、きっと母を見送ったあの日から、決まっているのだから。
 まだ幼い弟がいて、身体の弱った祖母がいて。頼れる大人もいない家で、僕だけが命綱であって。
 どうして、悩んだのだろうか。わからない。
 でも、朝倉さんの問いに、なぜか何も返せない。
「……朝倉さんは、さ。もう決まってるの、進路」
 口をついて出た疑問で、悩みを無理やり覆い隠す。
 彼女は苦笑を浮かべながら、進学したい、と答えた。やっぱり、予想通りだった。彼女はいつも成績上位にいる優等生で、僕とは正反対の子だから。
 前に一度だけ、朝倉さんの両親を見たことがある。職員室に訪ねていた。育ちの良さそうな、穏やかな人たちだった。ああ、彼女を生み育てた人たちだと、すんなりと理解した。
 家庭に恵まれ、友人に恵まれ。真面目で優しい人柄が、いつも周りを惹きつけて、彼女自身の道を開いていく。
 ずるい。僕がそう思えないのは、今も彼女が両手に抱えるその、真っ白な杖のせい。
 その存在だけが、僕に優越感を与える。朝倉さんを見下す要因になりえる。
 ようやく理解した。あのとき、彼女が進路を決めているのだとわかったとき、寂しいと感じた理由を。
 勝手に同じところにいると思っていたんだ。生きることに人一倍苦労して、今を見ることに精一杯で、余裕のない心を抱えて孤独でいるんだって。
 そうじゃないと、面と向かって言われたようで。置いていかれたようで、寂しかった。
 何を勝手に、人の人生をわかったように。
 誰も僕のことを理解できない。なら、僕だって人のことなんて理解できない。
 勘違いも甚だしい。彼女は、朝倉さんは、僕と正反対の場所で笑っている。
 ブツン、と嫌な音がした。
「あ……」
 朝倉さんと声が被る。弦がひとつ切れてしまった。古いギターだ、無理もない。張り替える弦なんてないので、ため息を零す。
 ふと顔を上げれば、窓の外はオレンジ色に染まっていた。いつの間に、こんなに時間が経っていたのか。
 早く帰って、夕飯の準備をしないと。
 帰るね、とひと言告げて、ケースに木目調の楽器をしまう。

「終わらせないで」

 よく通る、綺麗な声が寂れた空間にこだました。
 それはまっすぐに僕の鼓膜を突き刺して、思わず手が止まる。
 ギシ、と古い椅子が音を立てる。朝倉さんは立ち上がって、探るように向かってくる。
 無意識に、手が伸びていた。白く細い彼女の指先が、僕の荒れた手を捉える。
「私、私ね。好きだよ」
 朝倉さんの瞳の中に、僕の見慣れた顔が映る。
「和宮くんのギターの音。たまに弾いてたの、こっそり聴いてた。ちょっぴり寂しくて、でも温かくて。生きる勇気をもらってた。本当だよ、大袈裟じゃない」
 何だ、それ。素直じゃない自分が、まっすぐに心を射抜かんばかりの彼女の歌を、跳ねのけようとする。
「だから、だからね。終わらせないで。まだ聞いていたいから、その音を止めないで」
 なんて、勝手な。
 僕のことなんて、何も知らないくせに。
 そんなに綺麗な笑顔で、心を惑わせないで。
 夕日を映した瞳で、僕を映さないでよ。
 こんな彼女のことなんて、知らなかった。
 こんな綺麗な世界なんて、知らなかった。

 朝倉さんの歌は、素直じゃない僕を押しのけて、心の中に土足で踏みこんできた。
 それが嫌じゃないと思えた理由は、今でもよくわからない。
 けれど僕の部屋には、古びたアコースティックギターがぽつんと、立てかけられている。
 十年前のあの言葉は、まるで呪いのように僕の背中を押し続けてくれるから。

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