あの子は親友だ。
園児の頃からずっと一緒で、家も近くて、親同士も仲が良くて。何をするにも、あの子はいつも隣にいる。
直子に謝ってよ。
教室に静かに響く、あの子の怒号。私のペンケースをわざと落として、嘲笑している女子たちに矛先を向けている。
私はあの子が大好き。
いつどんなときも、味方でいてくれる。高校生になった今でも、こうして虐めから庇ってくれる。
でも、いつも貰ってばかりで、何となく罪悪感に苛まれているのは、嘘じゃない。
私もあの子に与えられているだろうか。私が貰っている温かさを、ちゃんと。
そういえば、もうすぐあの子の誕生日だ。
自室の窓から色づいた葉を見やって、そんなことを思い出す。秋も深まり、だんだんと空気が凍てついてくるこの季節。今年はあの子に何をプレゼントしようか。
色々と考えながら、夕飯の席に着く。長い出張から帰ってきたお父さんの姿を久々に見た。
学校は楽しいか。
優しいお父さんは、まるで私が小さな子どものように、そんな問いかけをしてくる。なんだかやるせない気持ちを抱えながら、曖昧に返事を呟いた。
学校なんて、楽しいと思えたことがあっただろうか。
昔から集団の中にいるのが少し苦手で、自分の気持ちも素直に伝えられないで、気がつけば常に教室の端っこでひとり、ぽつんと空気と化していた。
あの子は、そんな私とは正反対の子だった。いつも周りに人がいて、正義感が強くて、誰かの憧れの的だった。
こんなに違うのに、あの子はそんなこと気にもせず、私の親友として自然に接してくれた。私みたいに卑屈になったりしないで、素直な愛情を与えてくれた。
あの子は東京の大学に行きたいらしい。あと数ヶ月でお別れになってしまう。
これまでの愛情を返すときだ。そして、これからも私と親友でいてほしいことを、ちゃんと伝えなきゃ。
ここ数年でいちばんの熱意を抱えて、ご飯をかきこんだ。
おはよう。
学校でこうして挨拶を気兼ねなく交わせるのは、担任の先生とあの子だけ。
あの子は今日もキラキラした笑顔で、私のもとへ駆け寄ってきてくれる。
私と違って、あの子に声をかける生徒は大勢いるけれど。あの子から向かってきてくれるのは、いつも私だけ。
そんなことで優越感を覚える自分に、寒気がする。
嫌な気持ちを押し隠して、私も笑顔を浮かべながら、ふたりで昇降口へと向かう。
いつも通り、自分の下足箱に手をかけた。
開けた途端、何か黒い小さなものが飛び出してきて、思わず悲鳴を上げて振り払う。
どうしたの、とあの子が心配して振り向いた。
私とあの子の目に映ったのは、どう考えても長い時間捨てられてあったであろう、どす黒い上履き。周囲を飛び回る何かの虫が、汚らしさをより一層際立たせている。
こんなの、私の上履きじゃない。昨日まではちゃんと、綺麗な色をしていたもの。
許せない、とあの子の低めの声が耳元で囁いた。絶対あいつらだ、なんてことしてくれるの。怒ってくれる親友に、平気だよと常套句を述べる。
嘘だ、全然平気なんかじゃない。こんな上履き履けないし、そもそも自分の上履きがどこにいったのかもわからないし。どうして彼女らがこんなことをするのか、理由だって見当もつかない。
私が何をしたって言うの。
何度目かわからない、虚しいだけの心の叫び。
直接言ってやれたら、どれだけ良いだろう。残念だけど、私にそんな度胸は微塵も残っていないのだ。
あの子は運動部の助っ人だと言うので、終わるまで正門で待つことになった。
教室でわかれて、昇降口へと向かう。今朝あんなことがあったせいで、気持ちが落ち着かない。
客人用のスリッパを履いた私を、彼女らはいつも以上に面白おかしく嗤っていた。あの子も怒ってくれたけれど、何だか今日はその光景も虚しいだけだった。
でも、大事なことは忘れちゃいけない。
今日はあの子の誕生日。カバンのポケットに忍ばせた、一生懸命綴った手紙に触れる。今日、帰り道にちゃんと渡すんだ。おめでとうの言葉と一緒に。
ぐるぐると思考の渦に巻かれていたせいで、誰かと勢いよくぶつかってしまった。
慌てて謝ると、クラスメイトの女の子だった。
急いでいるのか、こちらこそと謝罪を口にするなり、風のように走り去っていく。私も踵を返して外へ出ようとしたとき、裾を引っ張られた。
息を切らしながら、やっぱり待って、とさっきの子が引き止める。困惑したが、とりあえず周囲の邪魔にならないように、彼女を連れて端へと移動する。
どうしたのかと問えば、彼女は必死に息を整えてから、私を気まずそうに見て言った。
「椎名さんって、本城さんと仲良いよね」
椎名は私、本城はあの子の名字だ。私は頷く。
彼女はより一層、眉を八の字に下げるほど、どこか申し訳なさそうな表情になる。
「あのね……こんなこと、言ってもいいのかわからないんだけど。でも、私……見ちゃって」
何を見たんだろう。何を言われるんだろう。
彼女の空気感が、だんだんと疑念を募らせる。耳を塞ぎたくなってくる。私が望まないことを言うのではないか。あの子が望まないことを言うのではないか。
それでも、どうしても気になってしまって。口を噤む彼女に、何を見たのかと催促した。
「……朝練の、時間に。本城さんがね、椎名さんの上履きを……屑箱に捨てるとこ」
目の前が、真っ暗になった。
「わ、初雪だよ! ねぇ直子、雪積もるかな?」
白くふわふわと舞い踊る氷の結晶に、あの子は幼い子どものようにはしゃいだ声をあげた。
その様子を、私はどんな顔をして見ているんだろう。
「直子、聞いてる? どうしたの、元気ないよ」
私の元気がないのは、いつものことじゃない。
どうしてそんな心配そうな顔をするの。どうしてそんな優しい言葉をかけるの。
いつものことなのに、何も信じられない。
小さく、強く、あの子の裾を引く。
どうしたの、とあの子はふたたび私に問う。
「誕生日、おめでとう」
その言葉を、私はどんな顔をして伝えたんだろう。
あの子は、まるで幼い子どものように嬉しそうな顔をした。
何が親友か。
何が味方か。
そんなものは、時の流れが魅せた幻でしかない。
あの子はいつも、どんな気持ちで私に優しくしていたのだろう。
今となっては、もう考えたくもないことだ。
ビリ、ビリ、とすべてが破れる音がする。
何もかもが、散り散りになって舞い踊る。それは、きっと冬のはじまりを告げる、初雪と変わらない。
「ばいばい、あの子。東京でお幸せにね」
破り捨てられた、私の精一杯の愛情。
11/30/2024, 2:40:38 AM